胎の空白

 朝日が既に上がった時間に中也さんは戻られた。酷く疲れた様子でいたから、余程気を使う案件だったのか、ふらふらと覚束ない足取りで寝台に倒れ込み其の儘眠ってしまわれて、起こさないように布団をかけ直しそっと寝室を出て、午前の予定だった掃除を取り止めたのが三時間ほど前の事。朝食を食べ終えて洗い物をしたら珈琲を淹れて、この前本屋で買った小説を読み始めることにした。頁を開いて活字を読み進めていれば、自ずと思考は小説の中へと引き込まれていく。登場人物たちの会話、舞台となるお屋敷の風景、そして起こる事件にお屋敷の謎。登場人物の証言やお屋敷の立地から事件解決の糸口を探し出す、主人公たちに移入して集中してしまい、珈琲を飲む手は疎らになるのも仕方がない事だろう。
 物語が中盤を終えた所で、肩に乗った違和感にやっと気づいた。
 
「おっ、はようございます…?」
「はは、お早うさん」
 
 お早う、と云うには遅すぎる時刻だ。けれど、それ以外の言葉が出てこず、反射的に出た言葉に、その人は笑いながら同じ言葉を返す。
 肩に乗っていたのは、中也さんの頭だった。ソファの後ろから私の肩を通じて読んでいた本を覗き込んでいたようである。一体いつから、何時の間に起きられたのだろうか。
 時計の時刻は昼時を指していて、中也さんは其の儘眠られたからご飯もまだだったと急いで本を閉じた。
 
「ごめんなさい、ご飯作りますね」
「んー…、否、まだいい」
「そう、ですか?でも朝も食べていらっしゃらないでしょう?」
「云う程減ってねェからいいさ。それより、それ退かせ」
「あっ」
 
 私の隣に座ると、中也さんは持っていた本を取って机の上に置いた。そして、身体をゆっくりと横たえて頭が私の膝の上へと置かれる。成人男性だからだろう、頭だけでもずっしりとした重みを感じた。私の腹側に顔の正面があり、腰に両腕を回して、ゆっくりとその瞼が落ちていくのを眺めていた。所謂、膝枕の状態で、此の儘眠られるのだろうかとか、風邪を引かないかとか、毛布を持ってきた方がと不安にはなるものの、その瞳はゆっくりと瞬きを繰り返したので、眠るつもりはないのだと察した。どうしたものかと手を彷徨わせていたが、ちらりと此方を見上げられて瞼を閉じる。その様子に何をすれば良いか分かったのだけれど、少し照れくさいのもあって恐る恐る、遠慮がちに目下の赤茶の髪に指を通した。するりと簡単に梳けるその髪は、あまり触れた事がないから一度触ればついその感触を楽しんで繰り返して梳いてしまう。くつくつと笑う中也さんの声に気づいて、手を止めて顔を覗き込んだ。
 
「擽ったかったですか?」
「いいや?随分楽しそうだと思ってよ」
「あんまり、中也さんの髪を梳いた事はないですから、ちょっと楽しいです」
 
 中也さんの言葉に再度照れたけれど、でも、本当の事だ。中也さんが私の髪を撫でる事はあっても、私が触れる事は無い。それはただ単にそういう機会が無いのもあるし、男性の髪に触れても良いのかというのもある。だから、一体どういった心境なのかは分からないけれども今こうやって梳く事が出来る事に感動していて、また堪能しているのだ。何と云うか、私に許してくれているのが、所謂“特権”のような気がして、嬉しくなったというのもある。
 私の返答に機嫌が良く「そうかよ」と返してくれるから嫌ではないようなので、また同じように指を通していれば、腕の力が強まり抱きしめられ私の腹、というより鳩尾あたりに中也さんの顔が埋まっている。ぐりぐりと押し付ける様子が、幼い子供を連想させられて、つい可愛く思えてしまって苦笑が漏れた。
 
「どうかしたんですか?」
「んー…」
 
 気の無い返事だ。また眠るのだろうか、と思って手を止めたが、ぱっちりと青い瞳は開いていたが、しかし、見つめる先は私の腹で。…最近肉付きが良いのでそんなところを見つめられるとかなり恥ずかしいのだけれど、そんな事は云えず顔は熱くなるばかりである。

「…あの、」
埋まる事は無えんだろうな

 ぼそりと、小さな声で呟かれた言葉を拾う事は出来なかった。
 何処かを見つめるその瞳に不思議に思って、どうかしたのかと名前を呼んで手を止めたが、その人は曖昧に笑って、瞼を閉じる。その仕草は、私には知られたくない時のものだ。
 
「中也さん?」
「ん?…嗚呼、なんでもねェ」
「ご飯どうしましょうか」
「飯か…」
 
 未だぐりぐりと押し付けた儘の中也さんの頭を撫でて、返答を待つ。知られたくない事は、踏み込んではいけない。お昼のリクエストを求めてみたが、これは多分、私が云い出さないとメニューは出てこないだろうなぁ、なんて苦笑が出た。大概、気の無い時は候補をいくつか上げて選んでもらうのが吉である。今朝はご飯を食べられていないから、あまりお腹の負担になるものは避けた方が良い。温かいものの方が負担にならないから、うどんやお蕎麦の方がいいかな、なんて冷蔵庫の中身を思い出して何個かメニューを組み立てた。机の上に置かれた小説の表紙を眺めながら、続きを読むのはきっと明日以降になるだろうと予想する。今日は、これから中也さんが離してくれそうにないと、そんな気がしたのだ。
 目下のこの人は、普段態度にも口にも出さないものの酷く寂しがり屋な人だ。こんな時くらいでしか、私は甘やかしてあげられない。だから、貴重な瞬間を、時間を、少しでも埋めてあげたいと思う。頭に浮かんだ昼ご飯は、うどんか蕎麦、お魚があるから焼き魚の定食、もしくは、私の得意料理のミートスパゲティ。さて、どれをこの人が選ぶだろうか。答えは実は分かっているが、念の為、口にして聞いてみる。そうすれば案の定、一番に反応したのは私の予想のもので、けれど、選んだ割にまだ動きはしないのだから、ご飯はまだもう少し先になりそうだと、梳く指に赤茶の髪を絡ませ、撫でるのを再開した。