ユノの祝福

その日は、突然取り付けられた約束だった。
お仕事が忙しいからと逢引の日は月一回程度で、その月の逢引の日より数日前の日だった。珍しく夕方からのお誘いで、お仕事の関係で忙しいのに、態々時間を作って頂くのが申し訳なく思うのだけれど、それを口にすると、中原さんは自分が会いたいからだと云うから、返答のしようがない。いつも困ってしまって曖昧に返答を返してしまうのだけれど、それではいけないと自分でもよく分かっているから、頭を悩ませながらもどうにか出した答えは「無理をなさらないで下さいね」としか云い様がなかった。当の本人は通じているのか通じていないのか、「分かってる」と、目を細めて緩やかに笑うものだから、どうしたものか、また次の答えを用意した方が良いのでは、と思い始めた、矢先の日の事だった。

指定されたのは日の傾く時間で、世間は皆一様に帰路に着く時間であった。お仕事帰りなのだろうな。申し訳なさは募るけれど、会えない時間の方が多いから、少なからず嬉しく思ってしまう自分がどうも卑しく思えてしまう。喜んでしまう自分自身と、自己嫌悪に浸る自分自身という、両極端な自身を抱えながら、指定されたドレスコードの支度をして、時間が来るのを待つ。今日は中原さんが私のアパートに迎えに来るらしい。約束した時間よりも少し前にアパート前に出れば、既に見慣れた一台の車が其処にはあった。急いで其方に向かって走れば、運転席からその人が降りてくる。

「ごめんなさい!お待たせしましたか」
「否、今来たところ。そんな慌てる事ぁねえよ」

ワンピース、新しい奴だろ。よく似合ってる。だなんて、私の扱いをよく分かっていらっしゃる。そう云われれば、この前友人と買いに行ったらもので、と話が逸れ、当たり前のように、自然な動作で助手席の扉を開けられて、中に乗る様に誘導されれば、私もそれに乗るしかない。
運転席に戻った中原さんに、電話ではぐらかされた行き先を尋ねれば、彼は横目でチラリと私を見た後、意味深に笑ってアクセルを踏む。

「先ずはちっと、ドライブな」
「はあ……」

気の抜けた返事をしてしまったけれど、当の本人はご機嫌で。スウィングジャズの流れる車は黄昏時から宵闇へと走っていく。近況だとか、私の仕事の話、テレビの話題なんかを話していくと、車は市内でも有名な、完全予約制のレストランへと駐車した。
夕方の約束だから、ディナーだろうしドレスコードを指定されたのでそういった場所だとは察していたが、真逆、数ヶ月先ではないと予約が取れないと有名な場所に来るとは思ってもみなかった。
驚いてエンジンを切った中原さんを見つめると、彼は微笑むだけで何も云わない。
こういう時は、大概何かの記念日であったと思うのだけれど、今日はそんな日であったと覚えがないから、余計に何故そんなところに来たのか分からないくて、困惑する私を置いて車から降り、急いで車を降りた私に並び、腕を示す。緊張しながらも、中原さんの腕に自身の腕を絡めて組めば、中原さんはくつくつと笑った。

「ンな緊張しなくても良いぞ?」
「だ、だって…。なんだか不相応な気がして…」
「真逆。手前程良い女はいねえよ」

その言葉に、かあっと顔が赤くなる。そんな私の様子に今度は吹き出して笑う中原さんに、従業員だろう、黒服の男性が「いらっしゃいませ」と朗らかな笑みで私たちを迎えた。全て聞かれていたこと、見られていたことに恥ずかしくなって、また顔に熱が集まる。

「中原です」
「お待ちしておりました。ご案内します」

白い手袋を差し出し、店内へと案内する男性の後ろを歩く。
仄かな暖色の灯りが照らす店内は、木造特有の木目と赤土の塗り壁が落ち着いた雰囲気を作り出していた。いつだったか、雑誌で記事を読んだことがあるが、和と洋を合わせた創作仏料理を出しており、店内もそれに合わせてデザインされているようだった。案内された広間にまず目が行くのは穏やかに波打つ夜の海を眺める大きな窓と、月明りが差し込む天窓だ。室内は殆ど灯りは付いておらず、各々のテーブルや足元に設置された洋燈や、天窓の月の明かるさだけだが、むしろ雰囲気があって幻想的である。緩やかな音調のクラッシックの掛かる店内で、案内されたのはガラス窓の所謂展望席の真ん中で、席に腰を下ろしたところで、ほっと息をついた。

「おいおい。大丈夫か?」
「…こんな所、初めてですから」
「すぐ慣れるさ」

喉奥で笑う中原さんに曖昧に笑ってしまうのも無理はない。だって、本当に、全く、身に覚えがないのである。今日は一体何の日だっただろうか、なんて考えるものの、私は存外単純な人間なようで、運ばれてくる食事に感嘆して、一口食べれば頭の中は其方の方に意識がいく。珍しい果実を使ったソースだとか、目の前でお肉を好きな焼き加減に焼いてくれる演出とか、ついはしゃいでしまう私を、中原さんはずっと、穏やかな青い瞳で見つめていた。
時間はすぐに過ぎ去って、最後のデザートを終え食器を下げられる。

「美味かったな」
「はい!とても」

緩む頬を、興奮で熱くなる頬を落ち着かせるように両手で頬を押さえて、そこで冷静になった頭で思い出す。一体今日は何だったのかと。切り出すのが少し怖くはあった。だって、中原さんが覚えていて、私が忘れていただなんて、不誠実だと思われないだろうか、と。けれど、全く見に覚えがないものだから、思い出すものも思い出せない。
不敬だとは分かっていたものの、あの、と口を開けば、目の前の人は、不思議そうな顔で首を傾げた。

「その、大変申し訳ないのですが。…今日って何か記念日でしたでしょうか」
「……嗚呼、そうだなァ」

おずおずと切り出した話に、その人は間を置いた て、低い声で答える。視線は私から外され、下を向いていた。
びくりと肩が跳ねたのが自分でも分かった。怒ってみえるだろう。だって、その為にこうやって用意して下さったのだろう。申し訳なさと自分の不甲斐なさに胸が締め付けられて、俯いて蚊の鳴くような声でしか、謝罪の言葉は出なかった。

「ご、ごめんなさ」
「涼子」

呼ばれた名前は、はっきりとしていた。俯いていた視線をゆっくりと上げて、その人の方へと向ける。真面目な、緊張した面持ちを、私は初めてみた。驚いて目を見開く私に、中原さんは懐から何かを取り出し、私の目の前に置いた。上質な紙の箱の上から、リボンが掛けられている。

「開けてみろ」

そう云われ、困惑しながらも、リボンを解いて箱の蓋をあけると、そこには皮のキーケースが入っていた。赤みのかかった茶のそれと、贈られた本人を交互に見ていると、顎でそれを差す。中を見てみろということらしい。手にとってみれば、既に何かが入っているようだ。釦を外して開くと、中には鍵が一つ、収まっている。これは、何処の鍵か。あの、と視線を上げれば、その人は真っ直ぐと、私を見つめていた。真剣な顔で。意を決した面持ちで。

「これからずっと、俺と一緒に居て欲しい。俺と、」

結婚してくれないか。

息をするのを忘れた。
言葉の意味を、それが世間では何というのかと、理解するよりも口にするよりも早く、頬に何かが伝わって、唇を動かそうにも震えて動かず、声を出そうとしても鼻の奥がつんと痛くて言葉にならなかった。歪む視界に、その人の色彩しか分からなくなった所で、自分が今泣いているのだと気づいた。
それをやっと感じれば、胸が苦しくて仕方ないことにも気づく。泣いているからでもあり、それよりもその言葉がこの上なく嬉しく、尊く、幸せであると感じたからだ。
応える選択肢など、決まっていた。

「はい、…よろこんで」

安堵の溜息と、柔らかな笑い声がした。自分のものではない、筋張った手が頬を撫でて、少し硬い指が、私の目元を、涙を拭うように滑る。

「泣くなよ、驚いちまっただろ」
「だって、」
「ほら、化粧落ちちまうぞ。いいのか」
「…なかはらさんのせい、ですよ」
「はは、確かにそうだな。あとそれ、直せよ」

直す?化粧の事だろうか。首を傾げると、中原さんは唇の上に指を乗せる。

「呼び方。手前も“中原”になるんだぜ」
「っ、! ぇ、ぁ、」

そうだ。当たり前のことをなのだけれど、そう云われると意識してしまって顔に熱が集まり、また目が潤んでいく。名前、の方を呼ばなくてならなくなってしまった。男性の下の名前なんて久しく呼んでいないから、酷く恥ずかしくなってしまう。

「ほら、呼んでみろ」
「ぇ、あ、あの、そんな、」

しどろもどろになってしまい、言葉が出てこない。色々なことがありすぎて混乱する私に、目の前の人はにっこりと笑みを浮かべた儘急かすものだからきっと確信犯だ。

「ち、」
「ん?」
「ちゅう、や、さん」
「なんだ?涼子」

当たり前のように話を続けようとするから、別の意味で泣きたくなった。名前を呼んでと云ったのは貴方なのに。こうやって、何度も私に呼ばせるつもりだと気づくのは早かった。

「ず、ずるい…!そうやって、」
「そうだよ。俺はずるいからな」

嫌な男に捕まっちまったなあ、なんて他人事みたく云うのだから怒れてしまう。涙の量は減ってきて、頃合いを見計らって、だろう、帰るかと切り出した中原さん、否、中也さんの隣へ並んで、その腕に自身の腕を絡ませ組む。ぐずぐずと泣いてしまったから化粧はぼろぼろだろうし、目元は腫れているに違いないから、あまり人目に付かないようにしたかった、その意図を汲んだのだろう、従業員の方はおらず、会計は既に済まされていた為、店から出るのは容易であったし、車に乗り込むのも早く、その店を後にした。

そして数日後の逢引の日、二人で指輪を買いに行った。どうも、買いに行ったお店は中也さんのお仕事関係でお付き合いがある所のようで、簡単に話は進められて、刻印や金属の素材によって2ヶ月ほど時間が掛かるという。その間に、籍を入れたり、私の引越しだとか、私の親への挨拶にも行かねえとなあ、と、指輪の予約の待ち時間に予定を組む横顔を眺めながら、嗚呼、本当に、この人と結婚するんだと、改めて実感した。端末を眺めていた視線が、私に向けられる。穏やかな青色とその奥にある暖かさに、云い様の無いものが込み上げてきた。

「中也さん、」
「どうした?」
「…ふふ、何でもない、です」

きょとんとした顔の儘、小首を傾げた中也さんに笑みを返して、私は心で呟く。私ほど果報者はこの世にいやしないだろう、と。