愛妻家の朝食

二月程前、結婚をした。
相手は私が勤めていた珈琲店を贔屓にしていた、云わば常連客で、夜の遅い時間に訪れるそのお客は、昼の勤務時間である私とは合わなかったのだけれど、偶々、臨時で夜の勤務に入った時に初めてお会いして、後日普段の勤務時間である昼に再度お会いして連絡先を頂き(半ば押し付けられて、だけども)交際が始まった。特に何か障害がある訳でもなく、順調に交際は進み、三月前に婚約指輪を贈られた。そして婚姻届を提出したのが二月前だ。
しかし、実の事を云えば、私は夫のことを何も知らない。社会人なのは知っているが、何処で働いているか、何の仕事をしているか。二人で住み始めたセキュリティの高いマンション。高級な調度品の家具。不規則な帰宅時間。普通の一般企業ではないとは明らかだった。
今日聞こうと思いながらも、私はいつも云い出せずにいる。


廊下から音がする。夫が帰ってきたようだ。私は煮立つ鍋の火を止めて玄関に向かう。扉を開けると、丁度夫が靴を脱いで上がった所だった。

「おかえりなさい、中也さん」
「嗚呼、戻った」

手に持った鞄と肩に掛けた背広、帽子を受け取ると、夫は私の頬をするりと撫でて、唇を寄せた。夫は結婚してから、こういったスキンシップが多くなった。交際している時も髪や頬を撫でることはあったが、こういった、キスであったり情事を示唆するような触れ方はなかった。だから私はそういった対象に含まれないのだと思っていたから、結婚の話が出た時は驚いたし、こうやって求められる事は、まだ少し慣れなかった。ぎこちなくそれを受け止めていると、夫はくつくつと喉で笑う。恥ずかしくなって、逃げるように夫の仕事部屋に荷物を置きに行った。

その部屋に入るのは、夫の荷物を置きにいく時だけである。執務机だけが置かれたその部屋は、夫が稀に繁忙期の時だけ仕事を持ち込む部屋で、あとは夫の趣味である帽子であったり装飾品を置いている部屋であった。夫はあまり家に仕事を持ち込むことはないので、好きに入っていいと云われているが用も無しに入るのは些か気が引けて、いつも、夫の荷物を置きに行く時だけに留まっている。
机の上に鞄を置き、背広をハンガーに掛けクローゼットの中に仕舞う、帽子をいつもの帽子掛けに置くと、やはり今日もそのまま部屋を出る、つもりだった。
振動する音がする。それが鞄の中の、夫の端末の音だと気付くのにそれほど時間は掛からなかった。仕事の話であれば、早く持っていった方が良いだろうと、鞄の中を開き、目的のものを探した。案外、端末は奥の方にあり、取り出す頃には端末の振動は収まっていたが、夫の鞄の中にある、報告書と書かれたファイルが気になった。これを見れば、夫の仕事が、夫が何者なのか分かるのかもしれない。そう思ったからだ。そう思えば、鞄の中のそれに目が離せなくなった。あと少し手を伸ばせば、それが手に取れる。鞄を開けた口実は今この手の中にあるのだからバレはしない。今この瞬間なら、可能だ。頭の中で自分が囁いた。手に取れと、時間をかければかける程、夫に勘づかれる。早くしろと。私の手は鞄の中のファイルに引き寄せられていく。



「あ?どうした?」
「端末が鳴っていましたよ。お勤め先の方かと」
「あー、悪ィな」

渡された端末を操作し、鍵を開ける。どうやら連絡してきたのは広津のようだ。仕事の用件ならば彼女の目の前で話す訳にはいかず、俺は部屋を出て仕事部屋へと向かった。
部屋は相変わらず、人の入った形跡はない。否、今しがた彼女が自分の荷物を置きにきたので、その形跡はあるが、微々たるものだ。いつもと同じく、机の上の鞄と、クローゼットの背広、そして気に入りの帽子を置く帽子掛。端末を探したが故に鞄の中身が少し動いているようだが、その程度の事だった。
電話をリダイアルすれば、広津はすぐに出る。

「おう、どうした」
『夜分に申し訳ない。今日立原が提出した報告書に不備が見つかったのでその連絡を』
「あーわかった。俺の机の上に置いとけ。明日見る」
『了解した』

そう云えば、奥方とは上手くいっているかね。
広津の言葉に当たり前だと返す。それは何よりだ。新婚の邪魔をしてはいけないな。と云って電話を切った。
奥方、新婚、その単語に俺は頬を緩めずにはいられない。先程の彼女の顔を思い出す。ぎこちない動作で自分のスキンシップに応える彼女は、初めて会った時には想像もできない程可愛らしく愛おしい。
きっかけは、贔屓にしていた珈琲店だった。他と比べて夜遅くまで営業しているその店は、時間もあって男ばかりの店員かと思ったが、臨時勤務で出ていたという彼女に俺は一目で惚れた。

『お勤めご苦労様です』

そう云って控えめに微笑み、珈琲の入った紙の器を差し出す彼女をどうしてもものにしたくて、俺は彼女の勤務時間である昼間に珈琲店に顔を出し連絡先を半ば強引に渡して交際を始めた。連絡をくれる見込みはほぼなかった。彼女は連絡先を渡した時にとても驚いて、終始困った顔をしていたから、渡すことはできたものの捨てられるのがオチかと思っていたからだ。しかし、律儀に彼女は連絡をくれ、その返信の度に俺は一喜一憂していた。そこまで古い記憶ではないものの、今思えば懐かしさを覚える。マフィアという職業柄、常に彼女を怖がらせないように気をつけ、そして他にも情報が漏れない様細心の注意を払うこと一年、やっと念願が叶い晴れて恋仲から夫婦になった。婚約指輪を受け取った時の感動は今でも、否一生忘れられないだろう。民間の、ごく普通の一般人を嫁に娶るなど、本来なら良くは無いのだと、もっと云うならば自分の職業も云った上で婚姻を結ぶべきだと分かってはいたが、どうしても、彼女を手放すことなど出来なくて、何も伝えられない儘、今日に至っているのが唯一の気掛かりだが、毎日朝起きて彼女がいる事に、仕事から戻って彼女が出迎えてくれる事に、その多幸感を知ってしまったらもう戻れない。もし、全てを話して彼女が自分の元から離れてしまったらと思うと、どうしてもそう云った話題を出すことが出来なかった。
電源を切った端末をスラックスのポケットにねじ込み、俺は部屋を後にする。廊下には、味噌汁の匂いが漂っていた。今日は和食か。酒のつまみにはならないだろうが、偶にはこういう日も良いかもしれない。と愛しい彼女の居るダイニングへと足を向けた。



夫は、私を愛してくれている。
それは私を見つめる瞳から、接し方から、態度から、ひしひしと伝わっている。
だから私は、貴方に伝えなければいけない。



夫婦で一つの寝台に入り眠りにつくというのは、新婚ならではだと思う。特に夫はそういった事に顕著に拘っている様だった。私自体それ程拘りがある訳ではないから、夫の好きな様にさせていて、最初は寝台の端で眠っていたが、気がつけばいつの間にか私は夫に抱き寄せられて眠っていて今に至る。今日も、夫は私の腰に腕を回し、私を抱き寄せて横になっていた。

「中也さん、」
「ん?どうした」

朗らかな、優しい目だ。慈愛に満ちたその目から逃れる様に視線を外すと、夫は指を私の頬に滑らせた。

「浮かねェ顔だな。何かあったか」
「その、」

次の言葉が口に出せず、唇が動くものの声は出ない。その様子を急かす事なく、じっと見つめられて、余計に怖くなって私は夫の胸に顔を埋めた。ぴたりと夫の身が固まる。しきりに私の名を心配そうに呼び私の肩を掴んで顔を覗き込もうとしたところで、私は口を開いた。

「お慕いしております」
「おい、」
「お慕いしております、中也さん」
「どうした、」
「貴方がどちらのどなたであろうと、外でどんな顔をお持ちであろうと、私の愛する夫は貴方だけです」

頭上で息を飲む音がして、肩を掴む手の力が一層強くなった。
目頭が熱くなり涙を堪えようと力が入る所為か、ひどく頭痛がする。それでも、これだけは伝えなくてはいけなかった。

「ですから、ちゃんと、ここに、帰ってきてください」
「嗚呼、」
「おねがいです、他のことなど如何でも良いから、何も聞きませんから、どうか、」

言い切る前に、私の身体は抱きしめられる。痛いほどに、しっかりと。夫の身体は震えていた。その背中に腕を回し私もしっかりと抱きしめた。
あの時、あの部屋で、私はファイルに手を伸ばそうとして、止めた。知ってしまえば、何もかも終わる様な、そんな気がしたのだ。ふと過ぎったのは、夫の、まだ交際する前の一番初めに会った時の顔だ。珈琲の入ったテイクアウト用の紙の器を受け取るあの時と同じ瞳で今も私を見てくれる。あの時、私は優しい笑顔に、あの優しい水彩の青に恋したのだ。どこのどなたであろうとも、どんな仕事に就こうとも、この人が側に居てくれるのなら、それは些細な事ではないだろうか。
例えそれが世間様とは違うものだとして、誰がなんと云おうとも、これが私たちの愛なのだ。