月の光

物音が聞こえた訳でも、夢見が悪かった訳でもなく、ふと、目が覚めた。窓の外はまだ暗くて、枕元にある台上の時計を見れば、いつも起きる時間よりも大分早い時間であった。中也さんの姿は見えないので、今日は朝方のお帰りなのだろう。もう暫く眠ろうと瞼を閉じるが、眠気は一向にやってくる気配がなくぱっちりと目が冴えてしまっているものだから、横たえた身体を起き上がらせて、布団の上に置いたカーディガンを羽織って寝台の淵に腰掛けた。
秋も深まり冬が目の前に来ているので、最近本格的に寒くなってきた。冷え性の私にとって、夜中に起きる原因というのは大概冷えからくるもので、最近は特に無かったのに珍しいと思いながら足先を掴めば、手も足も、どちらも冷たくなっていた。身体を温める為に白湯でも飲めばまた眠気が来るだろう、と見当を付けて、私はゆっくりと立ち上がりキッチンへと向かった。



すぐのことだから、部屋の電気はつけなかった。と云うより、今日は月が綺麗に出ていて、その光が居間とキッチンを照らしていたので止めた。それにキッチンにある物は把握しているので別に困りはしないのもある。
いつもの場所にある小さな小鍋に水を入れて火にかける。コンロの火は仄かに暖かくて、指先を温めるには丁度良かったが、足先は冷たく凍えていた。沸き立つ湯を揃いのマグカップの片方に入れる。湯気の立つカップはじんわりと暖かく、居間のソファに座る頃には手の中で簡易の湯たんぽの様に暖かくなっていた。
冷ます様に息を吹きかけ、一口飲む。熱が喉を通り胃を温めれば次第に身体も温まって、ほっと一息吐いて力が抜けた。
視線は窓の外に移り、青白い半月の月が私を見下ろしている。満月でもないのに、これ程明るいものなんだなと月を眺めながらまた一口、一口と飲んでカップの半分ほどに湯が減った頃だった。

「涼子、」
「…あ、お帰りなさい。中也さん」

かちゃり、と小さな音を立てて扉が開く。仕事を終えた中也さんが戻られたようだ。玄関へと続く廊下の方は暗がりになっていてその表情は見えないものの、私が起きていた事に驚きを隠せないようである。
ソファに座る私の方へと歩むに連れて、月の光によって表情を伺う事が出来たが、その顔は何処か強張っているように見えた。

「こんな時間に如何した」
「目が覚めてしまって。今夜は一段と冷えますから、白湯を飲んでいたところです」

湯気の立つマグカップを持ち上げて見せれば、中也さんは肩の力を抜いて息を吐く。何処か安心した様な、そんな力の抜き方だった。何かお仕事であったのだろうか。

「お勤めご苦労様です。何か簡単なものでも作りましょうか?」
「…否、いい。此処だと冷えるだろ。寝室に戻って、」
「…もう少しだけ居させて下さい。今日は月が綺麗ですから、あと、」

少しだけ。その言葉は口から出ることなく消えた。それは私の言葉を遮る様に中也さんが目の前に立ち、私の顔を両手で優しく持ち上げると唇にキスをしたからだ。情事の時の様な噛み付くものではなく触れるだけの、軽いものだ。肩に羽織った外套で月の光は遮られ、また帽子を目深く被っていることもありその表情は暗闇で分からなくて、一瞬、自分の知る「中原中也」ではない人の様に思えたが、頬を包む手の感触が、触れる唇の熱が、ムスクの香りが、紛れも無く其の人であると脳に伝えている。この安心感は、此の人以外ではあり得ない。
されるが儘に瞼を閉じてそれに応えていた。暫くして、唇は離され瞼裏の視界が白んだ。ゆっくりと瞼を開ければ、微笑んではいるものの何処か悲しげな其の人が私を見下ろしていた。

「涼子、」
「…はい」

中也さんは何か口にしようと唇を動かしていた。しかし、言葉は何も吐き出されない。何を云おうか、というより、何から云おうか、迷っている様だった。じっと、カップを握りしめながら言葉を待っていると、中也さんはきつく唇を結んで、そして、小さな声で謝罪をした。

「悪い」
「何を、でしょう」
「俺は手前に、云えねェ事が山程ある」
「…はい」
「その癖、手放せねェ」
「……はい」
「手前に『知らぬ存ぜぬ』を押し付けている」
「それは、」
「手前が決めた事だろうとも、だ。…そうさせたのは俺だ」

それは私が決めた事だと云う前に、手の甲が頬を滑り指先が顎を掴んだ。中也さんは、いつもそうやって私の言葉を静止する。それが悲しくて、もどかしい。伝わっているのに、伝わっていないこのすれ違いを、此の人は分かっていないのだ。一度伏せた視線を上げると同時に、掴まれた顎を持ち上げられ青い瞳と視線が交わる。まるで宵闇の海の様な、静かで穏やかな青だ。私は貴方にそんな顔をして欲しい訳じゃない。ゆっくりとその青は瞬きを繰り返し私を見下ろす。

「俺は何も返してやれない」
「中也さん」
「俺は、」
「中也さん」

目には見えなかったが、きっと、此の人は泣いていた。頬に手を伸ばし、指先で触れると中也さんはぴくりと身を強張らせ固まった。其の儘指先から掌へ頬を包み優しく撫でる。私の顎を掴む手がゆっくりと、遠慮がちに外され、頬を撫でる私の手に添え握られる。暖かい優しい手だ。私こそ此の人に何も返してやれない。此の人の不安を拭える様な言葉が見つからなくて、名前を呼ぶ事しか出来ない。悲しくて胸が痛かったけれども、グッと飲み込んで、顔は笑みを浮かべる。

「お仕事でお疲れでしょう。今日は早く寝ませんか」
「…嗚呼。着替えてくる」
「先に寝室へ行ってますね」
「分かった。…涼子」
「はい」
「あいしてる」

そう云って、中也さんは手のひらに唇を寄せ、その後指と手を絡める様につなぐと再度私の唇にキスをした。懇願するような、そんなキスだった。手は解かれ、私の膝の上にゆっくりと下ろし、仕事部屋のある廊下へと踵を返し歩いていくその背中を見送って完全に扉が閉まると、私は唇を指先でなぞった。包まれた手、触れた唇、その熱を思い出して歯痒さばかりが胸に募った。

貴方さえ居てくれれば、私はそれで良いと云うのに、私の想いは何一つ届かない。