うたかたびとよ


薄暗い部屋で月の光を浴びる涼子は例えようが無い程に綺麗だった。青白い光に濡れる髪が、透ける肌が、見上げる瞳が、そして穏やかな笑みが、いっとうに美しいと思った。しかし、急速に胸に不安が広がる。その美しさが“儚さ”であると気づいたからだ。仕事で葬った幾人の人間の様に、余りにも呆気なく、簡単に、彼女の命は消えるのだと、月の光は俺に告げる。薄紅に染まる彼女の頬がその光によって血の気を失っている。月の光は死んだ光だと、何かで読んだ気がする。まさしく、目の前の光景がそれを物語っていた。
涼子は、何も知らない唯の一般人だ。人の肉の色も、悪意と憎悪に濡れた断末魔も、硝煙と鉄の匂いも知らない。陽の光の下で親父さんやお袋さんに大事に育てられた、この世界の大多数を占める一般的な普通の家に生まれた存在だ。
対して俺はどうだろう。暴力と報復に塗れた場所で、部下や仲間の骸を踏んで生きる俺は、勿論親と呼べる人間に愛された事も、他人を愛したこともない。すべては組織の計略の為、上辺だけの人間関係も山程ある。道徳だの良心なんぞ溝川にでも投げ捨ててきた。
そんな俺が、涼子の隣に居て良いのか?
幸せにすると決めた。それに揺るぎはない。しかし、すべて俺の我儘で、俺の欲深さ故ではないか。涼子はすべて俺に決定権を与えるものだから、それに甘えているのではないだろうか。何をしても否定はしない。許容して、受け入れて、偽りなく笑って、俺をあいしてくれる。見返りを欲しがることもなく、そうあるのが当然だと云うように。そんな涼子を、俺は“結婚”という形で縛り付けているのではないだろうか。

傍らで安らかに眠る涼子の髪を梳きながら、ふと、思い出した。何時だったか、彼女に髪は切らないのかと云った。出会ったばかりの頃は短かった髪を、彼女は伸ばし続けていたのが気になったからだ。彼女は困った顔で大分悩んで、俺に髪を梳かれるのが好きなのだと、はにかんだ。何気ない、偶の休日の会話だった。嗚呼そうだ。あの時、俺は涼子と一緒になりたいと思ったのだ。何が俺をそう決めさせたのかは未だに分からないが、あの頃のことを思い出して、急に胸が苦しくなった。
きっとあの頃は、今の様に彼女に無理をさせる事も無く、きっと、いっとう幸せな時間だった。






今日も、中也さんは帰って来られなかった。朝起きて、自分だけしかいない寝台の上で肩を落とす。キッチンに行って冷蔵庫の中を覗けば、やはり、昨夜と同じように夕食がそのままの状態で置いてあった。
あの半月の夜から、中也さんの様子がおかしいのは薄々感じていた。話す時は今まで通り普通なのだが、ふとした瞬間に、何処か違和感を感じるようになって数日、仕事が忙しくなったから帰ってくるのが難しくなる、と告げられた。中也さんの言葉を疑う訳ではない。交際中の時もよく仕事が忙しいと会えない日もあったから不自然ではないのだ。しかし、あの夜から何処か避けられているような気は、何となくはしていた。ふと、思考が曇るが、お仕事が忙しいのは仕方のない事だから、と頭を振って今日も一日頑張ろうと気合を入れる為に頬を叩く。テレビのリモコンをつければニュースがやっていた。日中はどうやら気温が高くなるらしい。朝晩と冷えて足先手足がひんやりと冷たくなる季節に有難いことだ。今日も例にもれず足先は凍える程に冷たかった。続いた話題は、暴力団体が関与した抗争事故についてだった。港を仕切る裏組織の関与をどこかの大学の教授が力説している。暴力団体だ裏組織だ、世間は物騒になりつつあるな、と半分他人事の様に聞いていた。





ここ数日は、何事もなく過ごせていたと思う。あの半月の夜から、何処かぎこちない様な気もしたが、俺の仕事が忙しくなった関係で家を空けることが多くなり、会う時間が減っていた。
小競り合いの制圧だ、その後の治安維持だと東奔西走している中、机上の端末が振動する。表示された番号は見知らぬもので、最初は無視すれば良いかと思ったが嫌に長く鳴るものだから、仕方なしに受話器の印を押して耳に押し当てた。

「もしもし、中原ですが」
「あっ!?え、えっと、いつもお世話になっております。〇〇珈琲店の真島と申します。島崎の旦那様でお間違いないでしょうか」

電話をしてきたのは、涼子の働く珈琲店の店員であった。
島崎というのは、涼子の旧姓である。仕事場では、彼女は旧姓を使っていた。

「はい、そうですが…。妻が何か、」
「その、島崎が勤務中に倒れまして、」
「は、」

その真島という男曰く、勤務の休憩中に意識を失ったらしく、アルバイトの人間が休憩室に入った時に倒れている涼子を見つけたらしい。今は救急車で運ばれて市内の大きな病院にいるという。同行者として上司の自分が同乗したが、身内が説明を聞いた方が良いからもし可能であるならば病院に来て欲しいと云った。すぐに向かう旨を伝えて電話を切ったが、俺は動く事が出来なかった。思考が現実味を帯びず、切った端末をじっと見つめていた。涼子が、何故。見た時はそんな気配はなかった。いや、最後に見たのは何時だったか。思考がぐるぐると暗転し、入室した部下の一人がそんな俺を不思議がって声を掛けられたことで、俺の意識は現実に戻る。少し出てくる、と一言告げて、掛かった背広を引っ手繰ると俺は地下の駐車場へと向かった。
脳裏に浮かぶのは、玄関先で俺を迎える涼子の顔だった。



病院は、割と近い場所にあった。救急の待合には涼子と同じ黒い襟衣の男が座っており、俺の姿を見て立ち上がる。

「お仕事中に申し訳ありません。先程電話をした真島と申します」
「中原です。…その、妻は」
「処置室に運ばれてからはまだ何も。…体調管理はしっかりとされている方ですから、あまり気に留めていなかったのですが、何かご自宅の方で変わった様子とかありましたか?」

俺は言葉が出なかった。否、出せなかったのだ。最近の様子など、分かる筈がないのだ。碌に顔を合わせていない上に家にも帰っていなかったのだ。何か口に出そうとも、何も言葉は出てこない。仕事で家を空けていたと云っても不自然ではない。なのに、それを口に出すことが出来なかった。「中原さん?」目の前の男が俺を呼ぶ、その時、部屋の扉が開いた。視線をそちらへ移すと、白衣の医者が顰め面で現れた。



「極めて危険な状態です」

上司の真島は帰った。看護師に案内された診察室で医師は俺にそう告げる。
低体温症であるという。しかも、重症に近いものであると。脈拍と呼吸の低下が著しく、本来ならば豪雪の山中などの山岳遭難や漂流など水難事故で起こるものがこう云った場所で突発的に起こるのは非常に考えにくいと云った。今は加温した酸素と輸液剤の投入により低下する体温と呼吸を一定に留めているらしいが、この状態も長くは続かないと云う。

「奥様の最近の様子で、何か変わったことは御座いませんでしたか」
「…いえ、そういった様子は」
「そうですか。此方でも原因の調査をして、」

医師の言葉はそれ以降耳に入らなかった。相槌は打ったものの、それらを理解することは出来ず、ずっと、涼子の名前を心の中で呼び続けていた。

医師の話を終えて、処置室にいるという涼子に会った。白い病院服に酸素マスク、腕には管が伸び機械に繋がれていた。無機質な電子音が一定の間隔で鳴り響く。涼子の心臓の音だ。手袋を取って涼子の手に触れれば、医師の云った通り、異常なまでに冷たかった。血の気を失ったその青白い顔と肌は、あの夜、自分が想像した恐ろしい結末そのものだ。

「涼子、」

なんでしょう、中也さん。

呼ぶ度に、照れながらも微笑む顔が。落ち着いた、けれども嬉しそうに俺を呼ぶ声が。俺の頭から離れない。
幸せにすると決めた。揺るぎはない、筈だった。
果たして俺の選択は、これで合っていたのだろうか。
小さな迷いが、明確な間違いとして目の前に示された。
いつか何かが起こると分かっていたことだ。いつか迷う時が来ると分かっていたことだ。だというのに、何とか出来ると思っていた、自分の甘さだった。だが、まだ、まだ間に合う。まだ、取り返しはつく。
握った涼子の指先を手に取り、薬指にはめられた銀を取る。同じデザインのものは、俺の背広の中に入っている。一緒に買いに行ったそれを、同じ場所に入れた。

「もう少し、少しだけ、我慢してくれ」

閉じた瞼に唇を落とし、ゆっくりと髪を梳いた。
もう二度と、俺はこの瞼の奥にある暖かな瞳を見ることも、この揺蕩う髪を梳くこともないだろう。
しかし、もう十分だった。
もう十分、俺は幸せな夢をみた。