しろがねの糸

涼子。

名前を呼ばれた気がした。誰が呼んだのかは分からないが、その声色に酷く胸が苦しくなった。なんでこんなにも苦しいのか、自分でもよく分からない。けれど、その声に応えたくて仕方なかった。髪に触れる感覚を、瞼に落ちるその熱を、良く知っている。嗚呼起きなくてはと思うのに、私の思考は急速に落ちていく。
わたしはまだ、あなたに、



巷で流行っている病がある。
手足の先が徐々に冷え、最後に心臓さえも凍り付くのだという。その正体は低体温症。場合によれば無呼吸により命を落としかねない病だ。山岳遭難や水難遭難により起こるその病症が突発的に平地の街中で起こり蔓延しつつあるらしい。
既に何人かは病院に入院し意識不明の重体。まだ死人は出ていないものの、このままいけば死人は確実に出ると予想されている。そんな事態に市警が動かない訳がなく、しかし、全く以て原因不明のその病が、異能者の仕業であるという情報が入ったことで、市警からの依頼で武装探偵社が事件解決に調査を開始した。

事件の最初の被害者が市内の大病院に入院していた。既婚の女性で、勤務中に意識を失い倒れその病院に運び込まれた。
まだ身体の温度を自身の身体によって一定に保つことは難しいようだが、意識を取り戻し会話は出来る状態で、この一件を任されている太宰はその女性の元へ何度か通い、調査を進めていた。
病室は個室だ。女性が寝台の上で、酸素マスクと輸液ポンプの繋がる管を腕に差し座って、本を開いたまま窓の外を眺めていた。

「具合は如何ですか中原さん」

太宰の声に、女性は視線を太宰へと向け、微笑んだ。

「今日は割と良いです」

その声は少し落胆が入っていた。

当たり障りない近況の会話や異能者と思わしき人物の話をするが、二人は終始無言だった。開いた窓から無邪気な子供のはしゃぐ声や談笑が耳に入った。皆、平和な時間を各々楽しんでいるようだ。最初に口を開いたのは、太宰だった。

「いつも部屋にいるのですね」
「ええ。その、もし夫が来たらと思うと、」

どうも。そう自嘲気味に涼子は笑った。そんな事は無いと、分かっている様でもあった。
涼子がこの病院に入院してから、中原はこの病院に一度も現れなかった。見舞いに来ることもなく、目が覚めた時に病院側が夫である中原に連絡はしたが繋がらないのだという。一応留守番電話に入れてあるとは云ったが、恐らく、現れないのだろうと、涼子は何処となく察していた。否、左に有ったはずの銀がないことで、すべて察していた。

「犯人の足取りがほぼ確定しました。恐らく異能が解かれればすぐに良くなりますよ」
「嗚呼そうなんですね。よかった」
「…もし、よろしければ」

続いた太宰の言葉に、彼女は大きく目を見開いて驚いた。俯いていた顔を上げ太宰の顔を真っ直ぐに見た。その表情は真剣そのもので、どうやらいつもの冗談ではないらしい。
涼子は数回瞬きをして、微笑んだ。
答えた声は、確固な意思を示唆するようにはっきりとしていた。





「まぁさか、中也だとは思わなかったよ。幹部って暇なの?」
「…俺だって手前が出てくるなんぞ思ってなかった。真面に仕事してんじゃねェよ糞野郎」
「やだなあ。私は君と違って社会の為に一所懸命に働く勤労の民なのだよ」
「どうだか」

潮風の抜ける深夜の倉庫街に二人の声は響いた。港を縄張りとするポートマフィア幹部の中原中也と、探偵社の太宰治である。此度の事件に関わる異能者は裏組織の人間であると断定した。しかも、どうやらこの異能者は少し前にポートマフィアの縄張りに手を出して潰された組織の生き残りらしく、残った生き残りを纏めて事件を起こしその裏で暗躍をしているようである。故にマフィアも追っている人物だった。二つの組織の合意により、マフィアが情報を提供し、異能者の身柄を探偵社が抑えることでこの件は合同戦線を張ることとなった。
中原は顰め面で茶封筒を太宰に手渡す。それを受け取り中身を取り出した太宰は、その内容に目を走らせながら「成程ね」と一言呟いて目を細めた。

「氷雪の異能者か。対象物の熱を奪うことで自身の異能を強化する。恒温動物の人間なら一定の熱を無限に摂取できる訳だ」
「そう云うこった」
「でも凍死心中って素敵。美女と凍えながら死ねたらいいなぁ」
「相変わらずかよ…」

呆れた様な、引いた目で中原は太宰を見た。かつて所か元相棒の共感できない癖は悪化の一途を辿っている。その視線を苦ともせず太宰は陶酔するように目を伏せた。

「今にも死に絶えそうな美人って素敵だよ。今回の被害者にも美人がいてね、いの一番にお誘いをしなくては」
「へー、糞どうでもいいわその情報」
「普段は珈琲店に勤めてる中原涼子さん」

中原の言葉が消えた。
太宰は目を細めて笑っていた。

「綺麗な人だったよ。芯の通っている、背筋のしゃんとした人だった」
「…そうかよ」
「君への復讐に燃える異能者を、ポートマフィアの自分が始末すれば遅かれ早かれ情報は漏れて、彼女は“表”の人間ではなくなる。しかし探偵社が解決したとなれば話は別だ。彼女は事件の被害者で済む」

中原は無言だった。それは肯定を表す。

「彼女を“表”の儘にする為には、多少命の危機に晒しても“表”の機関が解決する方が望ましい。そう考えた君は探偵社を引っ張り出すことにした。そのために数日この異能者を泳がせて被害者を増やしたんだろう?」

やることがねちねちしてて、本当蛞蝓みたいだねぇ。
太宰はくすくすと笑いながらそう云った。
まさしく、中原の狙いはその通りであった。異能者は元々敵組織の異能者だ。小競り合いの制圧の中で行方不明となっていたその異能者は中原に仲間と恋人を殺されている。中原への復讐の為に、何処で仕入れた情報かはともかく涼子を目標にして襲ったのだ。自分が出て息の根を止めたいとは思ったが、そうすれば涼子に関する情報は確立されてしまう。そうなれば、涼子は中原に恨みを持つ人間の恰好の的だ。それだけは、絶対に避けたかった。故に、異能者の情報が有るにも関わらず中原は放置し、異能の力を高めようと無差別に一般人を襲わせ涼子を被害者に紛れ込ませたのだ。
元とはいえ相棒の事だから、目の前の男が気づかない筈がないと分かってはいた。中原は緊張の糸を解き、肩を下した。

「で?だから何だよ」
「別に?これで私たちの仕事も終わるしね。君の思うままになるのだろうけど、果たしてそんなに上手くいくかな」
「どういう意味だ」
「なあに、すぐにわかるよ」

太宰は踵を返し街の方へと消えていく。
その後ろ姿を睨みつけて、中原も別の方向へと歩みを進めた。

これで良い。
この数日の間に処理は済ませた。
マンションの解約。荷物の配送。新居の手続き。そして、離婚届と手切れ金。
入念に手を回し揃えた。不備はない。探偵社が異能者を捕らえて異能が解ければ、涼子は目を覚ますだろう。眼前にはすべて揃えている。涼子の経歴に×がついてしまったのが少し気がかりだが、器量の良い女であるし自分の方から切っているので心配する程ではない。これで自分も身軽になれたと考えているが、中原は分かっていた。一つだけやり残したことがあった。
背広の中に隠したものを、彼はまだ捨て切ることが出来ないでいる。