最愛のきみへ


「いいえ。夫がいますので」

太宰さんのお誘いに、私ははっきりとそう答えた。
太宰さんはじっと真剣な顔で私を見つめていたが、ふ、と息を吐いてその顔を緩めて、微笑んだ。

「そう云うと思いました」

初めて会った時には「一緒に心中を」と云った。次は「一緒になりませんか」ときた。おかしくて声を出して笑っていると、その人は「もったいないなあ」と呟いた。ひとしきり笑って、その呟きを拾うと、彼はやれやれとため息を吐いて首を振る。

「何がでしょう」
「こんな素敵な女性なのに、放っておくような莫迦な男の話です。涼子さんにはもったいない」
「真逆。私には過ぎたひとです。誰よりも優しくて、それに私が甘えていました。恥ずべき事です」
「…あーんな蛞蝓の何処が良いのか、理解に苦しむよ」

そっぽを向いた太宰さんは何か云ったが、それは流石に聞き取れなかった。しかし、きっとあの人の事を云っているのだろうなと想像はついた。会った事もない筈だろうが、否、もしかしたら事件の関係であの人には会っているのかもしれない。私は事件の被害者で、その調査の為の面会とはいえ、一応許可の為に会っているのだろう。

「いつまでも、その男を待つのですか?」
「今の私では、会いに行くことは難しいですから」

一定の体温を保つための装置を一瞥し、そう答えると、太宰さんは成程、と合点がいったようだ。

「もし男に、他の人がいても?」
「…それなら、まだ少し安心です。彼の人は、見かけによらず寂しがり屋なんです。本当の事はすべて内に閉じ込めてしまう人だから、」

だから、中也さんは私に何も云わなかったのだろう。だから、私にすべてを押し付けていると云ったのだろう。あれは本音であったが、本心ではなかったように思う。

「だから。それは同情ですか」
「…そう、なんですかね?」

そう云われればそうな気もする。けれど、違うと思う。哀れみというより、これはきっと。例えようがない何かな気がする。それを何というのか、私は分からないので言葉を探しても全く見つからず、口に出そうとしても閉じることしかできなかった。
その様子が面白かったに違いない。太宰さんはくつくつと笑い始めた。照れくさくなって視線を俯かせると、その人は形だけの、簡単な謝罪をして立ち上がった。

「さて、病み上がりの身体にこれ以上の長居は毒でしょう。お暇させて頂きます」
「真面な話が出来ずすみません。お勤め気を付けてください」
「もしもの話、例えばその男が多くの人を傷つけたとして、貴女は許せますか」

不意に投げられた問いに、私は瞼と閉じた。脳裏に描くのは、あの夜の中也さんの顔だった。

「それをするのは私ではないでしょう。私に出来るのは同じものを背負うことです」

太宰さんを見上げると、彼は穏やかに微笑んで「そうですか」と一言返して、部屋を退室していった。残された病室で私は読みかけの本の頁を捲る。澄んだ秋空を切り取る窓から、心地よい風が吹いた。

数日後から、体調は劇的に変化した。曰く、事件の異能者が捕らえられて異能が解除されたらしい。輸液や酸素によって保たれていた私の体温は自分の元ある機能によって賄い始め、暫く動かなかった為に低下した体力と筋力を戻すリハビリへと処置が変わった。此の様子なら数日で退院し、少し通院すれば完全に復帰できるようである。安堵のため息をすると同時に、ついにこの日が来たとこれからの事を考えることになる。中也さんはきっと、迎えに来ないだろう。お仕事が忙しいのだ。仕方がない。それだけだろうか。否、そうではないと分かっていた。左の薬指が空いているのが、酷く寂しい。
激しい運動はまだできないが、日常生活に問題はないという診断を受け、病院を退院する日を迎えた。荷造りをしている途中に、看護師さんが来た。

「旦那さんからお預かりしました。外で待って見えますよ」
「え?」

手渡されたのはA4サイズの茶封筒だ。表に確かに中也さんの字で「島崎涼子様」と書かれていた。封を切って中身を取り出そうとしたが、中にある用紙は陽の光で透けて見えた。

「夫は、」
「嗚呼。先ほど下の待合に、」

看護師さんの言葉を途中に私は走り出した。階段を駆け下り一階の待合室へと入って見回すが、あの黒は見つからない。もう駐車場へと向かったのだろうか。出入り口へと視線を移せば、その黒は駐車場へと歩いている途中だった。その姿は少しの間開いただけだというのにひどく懐かしくて。本当は、呼吸が上手く出来ず胸が苦しかったが、ここで逃せば、一生、彼の人に会えなくなる、そんな気がした。考えるよりも早く足は動いた。朝の早い時間とあって人の数は少ないことが幸いした。彼の人の後を追うのに時間は掛からなかった。

「中也さん!」
「な、」

両手で掴んだその手は、私の髪を梳く優しい手だ。其の人は随分と驚いた顔をして、振り向いた。その顔が、青い瞳が、随分と懐かしくて、愛おしくて、そして安心してしまった。上がる息が、胸を締め付ける。苦しいのに、その顔を見れたことが何よりも嬉しかった。視界が歪み中也さんの輪郭がぶれていくことで、自分が涙を流しているのだとようやく分かった。

「ずっと、」
「涼子、」
「ずっと、会いたかった」

両手で持ったその優しい手を寄せて、やっと出てきた言葉は恋しさであった。
ずっと、あの病室に居ながら、貴方の事を想っていた。考えていた。別に病室に来てくれなくともよかった。貴方が無理をしていなければ。そう思っていた。けれど、本当は、本当はずっと寂しかった。白い病室は無機質でずっと寂しかった。知らない人しかいない場所故に、余計に寂しさが増した。でもそんな事云うと、貴方は優しいから、無理にでも時間を空けるでしょう。そんな我儘を、私は貴方に云うなど出来る筈がなかった。
ずっと今までも、そうだった。
一人で眠る寝台はいつも寒くて、食べる食事も味気ない。本当はずっと、ずっと寂しくて仕方がなかった。けれど、貴方が戻ってくると、帰ってくると分かっているから、いつでも待つことが出来るのです。
握った手を握り返すその力に、酷く安心して、ぼろぼろと涙が零れて留まることを知らない。呼吸をするのが苦しくて咽ると、其の人は、遠慮がちに私の背に手を回し撫でる。病院の外には簡易のベンチがあった。そこに誘導され座る。その間も、中也さんは私の背中を撫でてくれた。暫くして呼吸が収まると、中也さんは口を開く。

「封筒、の、中身。見たか」
「…開けては、ないです、が、透けて見えました」

陽に照らされたその茶封筒の中には、離婚届が入っていた。

「分かってくれ。俺じゃ手前を、」
「貴方の隣でなければ、私は“幸せ”になれないのです」

息を飲む音は此の人から聞こえた。
哀れな人、可哀想な人、臆病な人。しかしこの思いは同情ではない。此の人の中身は外見から伺う鋭利さや力強さ反してずっと儚くてか弱くて危うい。最初は私は分からなかった。けれど、初めて会って、話して、接して、暮らして、身体を重ねて、やっと分かった。やっと理解できたのだ。これがきっと愛するということだ。
私はこの人を“愛して”いる。
ここまで来て、はいそうですかと引き下がれる程、私は従順ではないし聞き分けの良い人間ではない。
黒い手袋の手に指を絡めてしっかりと握った。

「いっとう、お慕いしております」
「離せ、」
「この想いはあの夜から変わりません」
「涼子ッ、」
「貴方がどんな顔をお持ちであれ、私は」

私は、

「私の意志で、貴方の隣に居たいのです」

真っ直ぐ見つめた青は、迷っていた。
その意味は、きっと、私に対する遠慮だ。

「ずっと考えていました。どうすれば中也さんに届くだろうと。ずっと。でもよく考えたら、私、中也さんのことをあまり知らないんだと気づきました」
「それは、」

俺が手前に云ってない。と続く言葉を遮るように、言葉を重ねる。

「だから、少しでいいから、つまらない事でもいいから、教えてください。中也さんのこと」

中也さんが、今まで見たもの、聞いたもの、感じたもの。何でもいいから、私は貴方の事を知りたい。
これからゆっくりと、話したい。

「云えないことは、云えないままでいいから、ほんの少しの事が知りたいです。例えば、えっと、昔の話とか、」
「……単車でビルの壁面を走った話とか?」
「えっ、ど、どうやってですか」
「異能で」
「中也さん異能者だったんですか!?」
「……そうか、それも云ってなかったな」

笑う顔は、年齢よりも少し幼く見えた。その顔は初めて見た顔だ。
私はまだ、この人の事で知らないことがまだまだあるのだろうな。そう思った。細まる青が私はいっとう好きだ。自然と頬が緩んでいく。

「中原さん!!」

突然の声に私と中也さんの肩が跳ねた。
声は病院の出入り口。そこには私の担当をしていた白衣の天使が鬼の形相で仁王立ちしていた。そこで私は思い出す。

「あ、」
「激しい運動は禁止と医師が云ったでしょう!?まだ手続きは終わってないんですから早くしてください!」
「す、すみません」
「旦那さんも!病室に荷物がありますから受け取りに来てください!」
「あ、はい…」

ったくもう。とでも云いそうな勢いで踵を返した看護師さんは病院内に戻っていく。優しい穏やかな人だと思っていたから正直びっくりした。

「アレが手前の担当か?」
「え、ええ。普段は優しい穏やかな人なんですけれども…」

そういえば入院している子どもに怒っている所を思い出した。まさしく今の鬼の形相で。人は見かけに寄らないものだ。
流石にまた長居をすれば二度目の形相は避けられない。手続きをしてきますとベンチを立つと、並ぶように中也さんも立ち上がる。

「涼子、」
「はい」
「今回の事件みたいなことが、これからも無いとは云えねェ」
「それは、」
「場合によれば、もっと危険な事に手前を巻き込むこともある」

何故と聞く前に続けられた言葉に、今回の事は中也さんに関係のあることだと知る。それによって、自分に何かが起こることも、これから先ずっとあるのだろう。

「何があっても、手前は俺が守る。だから、」

これからずっと、俺と一緒に居て欲しい。

懐から取り出されたのは、一緒に買いに行った指輪だった。ずっと、左の薬指から消えていた銀だ。

左手を取られ、その場所に、指輪が嵌る。ずっと空いていたそこが埋められて、胸が苦しくて、しかしそれは幸せ故の苦しみだった。

「私も一つ、お願いがあります」

埋まった左手で中也さんの左手を握る。指と指の間に自身の指を入れて合わせるように握った。

「必ず私の所に帰ってきてください。貴方を待つのは、私がいい」

握った手を引き寄せられ、その儘腕の中へと納まり抱き締められる。痛い程力強く、しかし優しいそれに、私は応えるように中也さんの背中に腕を回した。耳元からくつくつと笑う声と共に「当たり前だろ」と声が聞こえて、つられて私も笑った。

やっと抱き締める力が弱まり、私たちの視線が交差する。水彩の青に私の姿が映っていた。後頭部に中也さんの手が滑り優しく掴む。

「涼子」
「…はい」
「愛してる」

頭を寄せられ、ゆっくりと瞼を閉じれば唇が重なった。ずっと、ずっと待ち望んでいた熱だ。一度重なった後、ゆっくりと離されて、視線が合うと、またもう一度深く重なる。
此の人と共に歩む生が、例え業火の中であろうとも、私のすべては此の人と共に、此の人の隣に在る。それだけで、もう十分だった。他にいるものなど何も無い。

私たちは此処からまた、歩んでいけばいい。少し遠回りをしたけれど、また、歩み始めればいい。