何気ない一頁


逢引しようか。そう云われたのが昨夜の事だった。中也さんは元々お休みで、私は本当は午後から仕事が入っていたのだけれど、学生の子が、どうしても今月はもう少し勤務を入れて稼ぎたいとの事で、本人から電話で直談判されてしまった。真面目な声色で「お願いです。俺の代わりに休んで下さい」と云われたのは今までで初めての事である。特に不都合は無いので是と答えたが、働き過ぎで体を壊さないようにと伝えれば、本人曰く「嫁の応援遠征費なのでむしろ活力です」と返された。云っている意味が少し分からなかったけれど、勤務表を出している真島くんには自分から連絡しますので旦那さんと素敵な休日を!と云われては踏み込み様子も無く、お言葉に甘えて休みを頂くことになった。
そして、出来た休みをどうしようかと思っていた所に、中也さんがそう云ったのだ。近くのスーパーだったり、ちょっとした買い物で出掛ける事はよくあるものの、改めて言葉にして逢引だなんて久し振りで、気分が高揚する。行き先は港付近の広場と通りで、丁度催しがあって色んなところからお店が出て賑わっていた。物珍しいものばかりではしゃいでしまい恥ずかしかったけれど、こんな風に二人で出掛けられるのは稀だから、気をつけようとしても直ぐに取り繕うことも出来なくなってしまう。そうして頬を熱くさせた私を、中也さんは揶揄う事なくエスコォトするものだからいけない。
お昼ご飯をこの前に約束していた伊太利亜のお店で済ませて、腹ごなしに少し歩こうかと話していた時だった。

「ッ、やだよっ…!」

微かな声だ。建物と建物の、子供が通れるか通れないかという僅かな隙間からそんな声が聞こえて、思わず足を止め顔を向ける。私が歩みを止めた事に、そして会話が途切れた事に気付いたのか、それとも私と同じで声が聞こえたのか、私と同じ方向を向いた中也さんが私を呼ぶ。

「都子」
「今、声が」

聞こえたと。伝えようとしたが昼間でも薄暗い路地には誰もいない。聞き間違えかな、なんて中也さんの隣に並ぼうとしたがそれは遮られた。足にしがみ付く、“その子”によって。

「まま!」

「……え?」
「は?」

私と同じ髪色の、中也さんと同じ瞳を持ったその子は、私の足に涙目でしがみ付いていた。



名前は分からないけれど、歳を聞けば、親指と人差し指、中指を立てて中也さんの目の前に突き出した。どうやら三つらしい。そして私の事を、“母親”だと勘違いしているようだった。

「まま〜?たべう?」
「…ううん。お腹いっぱいだから、お嬢ちゃんが食べてくれる?」
「ままといっちょにたべたい…」
「ありがとう。じゃあ、此処だけ貰って良い?」
「良いよ!わたちがたべさせてあげう!」
「嬉しいな」

どうぞ!と差し出すスプーンに乗ったアイスクリームを一口貰って食べると、その子は満面の笑みで、ままといっちょ!たのしいね!と屈託無く笑うものだから、なんとも云えずそうだね、と当たり障りなく返すしかなかった。

足に引っ付いたこの子はおそらく迷子だろうという推測で、とりあえず開催元のテントへと向かう事に決まった。足に引っ付いて離れないその子を抱き上げて移動している最中に強請られたアイスクリームを買い与えて、店の席で食べさせているのが現状だ。なんの偶然か、私たちと似た容貌なのもあって店の人からは「家族」の括りで見られているようで、アイスの味を選んでいる時に店員さんから「パパとママと一緒にお出かけ?」と云われるし、この子も嬉しそうにはにかんで見せるものだから、店員さんはおまけだとトッピングまで追加してくれる。此処まで来て「迷子の子でして…」とは私も中也さんも云えず、曖昧に笑って感謝の言葉を述べる事しか出来なかった。

「おい垂れてんぞ、此処」
「ここ?んむ」
「あー、あー、ったくしゃあねェな。手拭き持ってきてやるから、ちっと待ってろ」
「ありがとうございます。お手手汚れちゃったね、アイス此処に置いておこうか」
「おててどろどろ…」
「あ、こら。舐めちゃだめよ」

席を立つ中也さんにお礼を云って、女の子が持っていたアイスのカップを机の上へと置くと手についた溶けたアイスを舐めようとするものだからやめさせる。少しすれば、店員さんからお手拭きをもらった中也さんが戻ってきて、袋を開けて女の子の手を綺麗にすれば、最初は「きれい、きれいだね!」とはしゃいでいたが、ふと中也さんの方を見て、声をあげた。

「わたち!わたちの!」
「一口いいだろ。ママにはやってたじゃねえか」
「ちゅ、中也さん!?」
「ままはままだもん!ちうやくんはだめっ!」
「はあ?何で俺は“ちうやくん”なんだよ嗚呼?」
「中也さん!」

中也さんの口振りや、幼子相手に大人気ないという意味も込めて名前を呼べば、その人はケラケラ笑って「ママに怒られちまったなァ?」なんて云うものだから、この人もしかして開き直り始めたのでは無いかとジト目で見れば、やはり面白そうに笑って、「今度は気をつけて食えよ」と女の子にスプーンを渡す。

「いいだろ。どうせ主催元に聞きゃ迷子の連絡だとか放送だとか入れてくれンだ。それまでのほんの数時間、餓鬼の戯言に付き合うくらい構いやしねェよ」
「そうでしょうけど…」

私の云いたいのは、その。言葉を詰まらせたのは、恥ずかしさがあるからだ。まるで本当に「家族」のような気がして。店員さんにそう見られた事も、こうやって過ごす事も、もしかして、この先いつか、そうやって過ごせる日が来るのではないか。それが日常になる時が来るのではないか、と。けれど自分だけが期待しているのではとか、自分だけが今の状況を楽しく思っているのでは無いかと、自分が勝手に浮かれているような気がしたのだ。しかしそんな口振りをされたら、そんな風に云われたら、中也さんも同じなのかなと、勘違いしてしまう。
きっと、そんな私の心情を中也さんはお見通しなのだろう。視線を彷徨わせる私にふ、と笑って、穏やかな青で私を見た。

「“いつか”、俺たちだってそうなるさ」

その言葉に、顔に熱が集まって、緩みそうになる口元を隠すように手の甲で押さえた。同じ気持ちで居てくれていた事が、言葉にしてくれた事が何より嬉しかった。

「まま?おかお、まっかね」
「…ちうやくんのせい」
「はは、俺の所為か」
「ちうやくん、ままにいじわるしちゃやーなの!」
「意地悪はしてねェよ。おら、さっさと食っちまえ。じゃねぇと俺が食っちまうぞ」
「やー!」

態とらしい口調でそう女の子を揶揄う中也さんと、それを分かっているのだろう女の子はきゃっきゃと笑いながらアイスを頬張る。いつかこんな日が、こうやって『家族』で訪れる日が来るのだろう。何気ない日常一コマとして、幸せな未来として。

主催のテントに行く迄、随分寄り道をしてしまった。色んなものを見て回って、色んな事をして遊んで、テントに着く頃には女の子は私の腕の中で眠ってしまっていた。着いたテントにいた主催をしている団体の人が、どうやら中也さんのお知り合いのようで、テントの中で話をされている。小さな背を等間隔で優しく撫でながら近くのベンチに座ってそれを眺めていると、腕の中の小さな体躯が、むずがるようにして唸り、まだ夢見心地の朧げな瞳で私を見上げた。

「どうしたの?暑い?」
「ぅうん…」
「そう?まだ寝てて良いよ。ほら、ね?」
「ぅん……まま、」
「うん?」
「だいすき、」
「、………ママも、大好きよ」

あやすように、少し体を揺らせばまた瞼がゆっくりと落ちて、微かな声で小さな唇が呟く言葉は私自身に向けられた言葉ではないだろうけれど、それでも嬉しくて、胸にじんわりと暖かさが広がった。私は代わりにでしかないけれど、きっと、この子の母親も同じ気持ちだろう。同じ言葉を返せば、伝わったのか小さく笑って、またゆっくりと夢の中へと誘われていく。成る程、子供に抱く母性というのは、この事なのだろう。中也さんの用事が終わるまで、小さな身体を、小さな命を、守るようにしっかりと抱きしめていた。
それから、迷子の捜索をしていた親に連絡して貰えることになって、主催の団体の方に女の子は預けることになった。幸い、お昼寝で眠っているからこっそりとお預けしてその場を離れたのだが、道中あの子がいて賑やかであった事もあって、少し寂しく感じる。けれど、あの子にはあの子の家族がいる。それに、今日は折角の逢引なのだ。気を取り直して、と繋がれたら手に力を込めて中也さんの隣へと並んだ。






朝一の会議の為に早めに着いた執務室には、既に二、三人の部下がいた。労いの言葉を掛けて、今日は早めに帰れよ、なんて云っていたら、一人が俺に声を掛ける。

「中也さん、失礼します」
「おう。どうした」
「例の保護した子供の件なんですが、やはり、最近傘下に入った所が追っていた子供のようです。これ、資料まとめました」
「有難うな、助かった」

書類の挟まったクリアファイルを貰い、中身をパラパラと流し読みで読んで行けば、どうやら俺の推測は正しかったらしい。
都子と俺が保護したあの子供は、最近傘下に入った組織の人間が追っていた子供であった。あの時路地の奥を都子は見えていないようだったが、そこには“隠密向き”の男が数人いて子供の事を追っていた。たかが三つの子供風情に差し向けるにはおかしいと踏んだがそれは当たりで、子供は異能者であり、その組織は無断で人身売買を行なっているようであった。無断で、そして極秘で行われている資金調達となれば、考えている事は簡単に予想がつく。今日の会議で首領に報告しなくては。始まる会議の資料と共に部下が寄越したファイルも持って、会議室へと向かったのだった。

あとがき みとこさんへ