あなたに溺死

好きだ。可愛い。愛してる。
どろどろに溶けた飴蜜のような瞳で彼は惜しげもなく口を開き言葉にする。こんな齢になってもう聞くことの無いだろうと思っていた台詞も、視線も、真逆自分よりも歳の下の異性から吐かれることなど、予想どころか夢にも思わなかった。事実は小説より奇なりとは正にだろう。こんなことになるなんて、と心の中で冷や汗を掻くのは無理もないことだ。


「都子さん」
「ちゅ、中也くん…」

まだ呼び慣れない名前を呼べば、彼はそれはもう嬉しそうに目元を綻ばせて青い瞳を溶かす。そして小さく呟く様に「可愛い、」と漏らし、私の髪を梳いて撫でながら、時折鼻歌を歌ってまた私の名前を呼ぶ。先程からこの繰り返しだ。私はやけに座り心地の良いソファの上で、借りてきた猫の如く彼のされるが儘に、身体を固まらせていた。
恋仲となったのは、私が彼の熱意に折れたからである。そして互いに時間が重ならない中、唯一共に出来る貴重な時間で、彼の云い包められるようにセーフハウスの一つにお邪魔している訳なのだが、着いた瞬間からこれが始まったのだ。甘い蜜を振りかけたような声色で私の名前を呼ぶ彼に普段の風格も尊厳も見受けられず、唯、年相応の青年の面持ちをするものだから、私も、そこに所謂母性だとか庇護欲だとかを刺激されて為すが儘となってしまっている。しかし、現状の儘ではいけないと、意を決して口を開き、彼の名前を呼んだ。

「…中也、くん」
「ン?どうした?」
「あの、そろそろ離れない?」
「…なんで」
「えっ、いや、その…。居たたまれないと云うか…」

急降下する機嫌は、短い言葉でもよく分かった。口にした理由は勿論心情そのものである。元々の性格や齢の所為もあってか、手放しに想われる事に慣れていなくて、どうも気恥ずかしさを覚えてしまう。特に、それが年下の事となれば余計に、だ。恋仲になった、あの時、折れてしまったとは云ったものの、中也くんの事をそれなりには想っているから、こう、想われる事に安堵と嬉しさはあるのだが、それを上回るこの恥ずかしさはどうしようもない。それをやんわりと云ってみたつもりだが、当の本人は気付いているのか、いないのか。髪を梳く手を止めることなく、寧ろ今度は手の甲で頬を撫でたり、梳く指先を耳に掠めたりと“遊び”始めてしまう。それに反応してしまう私も私で、ぴくりと肩が跳ねて小さく漏れた声に、隣で彼は喉奥で笑い、機嫌を良くする。

「いいだろ?折角の時間なんだ。俺は都子さんに触れたい」
「ぃ、ッだから、」
「ンと可愛い。好きだ。都子さん」

耳から直接流し込まれるように囁くものだから、頭の中に彼の声が響いて居てもたってもいられない。どうしようすもないと諦めて彼に流されてしまおうかとも思うのだけれど、その結末はなんとなくもう察しているのでそれだけは勘弁したい。最終的にはどうなろうと結果は同じであろうけど。結局この日もなし崩しに事を勧められて、散々弄ばれてあられもない姿を晒す事になってしまったのは云うまでもない。



***



好きだ。可愛い。愛してる。
ぼろぼろと零れる様に落ちる言葉は止め時を知らない。思った時には既に口に出ていて、その度にその人は顔を赤に染めて、恨めしそうに此方を見上げる。その瞳には少しの期待と歓喜が含まれている事を、俺はよく知っていた。そして言葉を紡ぐ度に、甘くどろどろに蕩けるものだから、それを見つけると俺の胸は確かな歓喜に満ち溢れ、幸福感を覚える。そしてまた口に言葉が出て、そしてその人はまた、と無限に続いてしまうものだから、俺自身止め時というものを失ってしまっていると思う。それでも良いくらい、此の人に惚れ込んで、溺れてしまっていた。

寝台で眠るその人を見るのが、いっとうに好きだ。と、云うよりも、その後の展開が、と云うのが正確ではある。勿論、何の警戒もしていない在るが儘の姿を、俺の目の前に見せている事に大きな満足感を得ていて、俺にしか見せない姿。俺だけが知っている姿。所謂独占欲を満たすこの瞬間もいっとうに好きだ。けれど、その後の、この人の様子の方が俺にとっては余程好きだ。

空は既に白んでいるようだった。淡い白い光に照らされる横顔は、年齢など関係なく綺麗で愛おしい。かかる髪を除けながらその顔を覗いていると、閉じていた瞼が、睫毛が震える。そして、ゆっくりと持ち上がった。間から見える瞳は焦点が合う事無く漂っている。

「、都子さん?」

擽ったい感覚でもしたのか、起こしてしまったのだろうかと声を掛ける心算でいたが、その人は数度瞬きをした後、俺の胸元へと擦り寄る。嗚呼きっと寝惚けているのだと分かっては居たが、そんな様子、今まで見たこともなかったし、此の人の方から求めてくれるというのが少ないのもあって胸が高鳴る。柔らかな頬の感触が、流れる髪の滑らかさが、直接肌に触れているというだけで唯々歓喜に満ち溢れてしまうのだ。嗚呼なんていじらしくて、可愛い人なのだろう。棚ぼたとはこの事、乗らずしてどうすると、腕を伸ばし細い身体を抱き締めれば、その人は身を捩ったが、嫌がる様子はないものだから、顔や髪に小さく音を鳴らしながら唇を落としていた。
多分、そろそろだと思う。ぴしり、と腕の中の身体が固まり、不動となった。それが表しているのは、この人の意識が完全に目覚めたという事で、つまり、俺にとって一番好きな瞬間だ。

「…中也くん」
「嗚呼、お早う。都子さん」
「お早う、あの、」

嗚呼、その顔だ。困ったような顔。きっと、自分が寝惚けていた事は分かっているから、俺に離れろとは云えないし、それに、言葉や態度には分かりにくいが、この人がこうやって触れられるのは案外好きな事も知っている。だから、困った顔で云い淀んでいる。この瞬間が、俺は一番好きだ。
余りにもその様子が可愛くて、つい言葉を吐き出せば、耳まで真っ赤に染めて、目を見開いた後忌々し気に俺を睨むが、迫力なんてあるわけがない。寧ろ、余計に可愛くて仕方がない。きっとそんな俺の心情が面に出ていたのだろう。その人は目元を下げて視線を彷徨わせると遠慮がちに口を開く。

「は、なして貰っても、良い、かな」
「…もうちょっとだけ、駄目?」

態と寂し気な声で眉を下げればこの人は否と応えられない。簡単な人だ。でもそれは俺だからだ。俺がこの人に溺れているように、この人も、俺に対してどろどろに甘いのだから。
俺の言葉に応えるように、都子さんの身体から強張っていた力が抜ける。その様子に俺はほくそ笑みを浮かべて、薄く開いた唇に自身の唇を重ねた。


あとがき 紫陽花さんへ