紙の月

※『太宰、中也、十五歳』に触れる箇所があります。また主軸は『双つの黒』後です。



 私たちは同じ時期に組織に入った。
 森医師がポートマフィアの首領になって一年後の事だ。医師の患者であった太宰くんが、当時組織と対立していた“羊”の中原くんが、そして貧民街で強盗をしていた私が、ある一件で出会って、この組織に加入する事になった。彼ら二人と私は二つ違いで比較的年が近く、また加入する時の一件もあって仲が良かった。私にとって、彼らは友人でもあったけれど弟のような存在だったし、彼らも私を姉のように慕ってくれていた。一般的に、私たちのような仲を“幼馴染”と呼ぶらしい。幼い頃から一緒、というには少しばかり年が行き過ぎている気もするが、それでも、仲が良い事は良い事だと、森首領も師である紅葉さんも仰られていたから、良い事、なのだと思う。
 
 ポートマフィアに加入して幾分の時間が経ち、太宰くんと中原くんが幹部候補生となり、私は情報員の一員として東奔西走する日々を送っていた頃だ。先の大きな抗争も終結に向かいつつある頃に、太宰くんから人を紹介された。きっと、都子ちゃんも気に入るよ。太宰くんにしては珍しい表情だった。楽しそうで嬉しそう。そんな顔は私は数える程しか見たことがなくて、驚いてしまい誘われるが儘にとある酒場に連れてこられる。扉を開いて地下へと続く階段を、太宰くんに導かれ降りていった、その先に、その人はいた。カウンターの席に座って、ロックグラスに入った鼈甲の酒を傾けていたが、太宰くんと私が来たことに気づいて、此方を向く。薄暗い店内でもはっきりとみえた青い瞳は、溌剌とした此処にはいないもう一人の幼馴染よりも穏やかに落ち着いた色だった。
 あの日から、私の全てが変わり始めた。
 
 織田作之助、というその人は、私よりも年上だけれども、何処か抜けていて、不器用だけれども優しい人であった。私と同じ情報員である坂口さんも良く知る人で、太宰くん、織田さん、坂口さんはよくこの酒場で飲んで話す友人らしい。何だか、この場所と三人は特別なような気がして、その日以降その酒場に行く事は無いが実を云うとずっと、あの日から織田さんの事が忘れられなくてまたお会いしたいと思っていた。それが自分だけでは無かったと知ったのは、太宰くんに誘われて行った洋食店でばったりと織田さんとまた会った時の事だった。
 それから少しの季節が巡って、少しずつ距離が縮まって、私たちは恋仲になって。思えば夢のような時間だった。“明日”が必ず訪れると信じ込んでいた、そんな時間だった。けれど所詮は泡沫だ。始まりがあるのなら、終わりは必ず訪れる。それが早いか遅いかは、きっと、日頃の行いなのだろう。
 
 
 
 組合からQを奪還した。最後は結局中也の汚濁に頼る事になったが、取り敢えずは五体満足で息をしているから良いだろう。中也は拠点に届けろなんて云ったが、そんな事私がしなくともその内そちら側の人間が来る事は分かっていたから、此の儘放置して行っても問題はないと考えて踵を返した、直後に、その声はした。
 
「あらあら、酷い有り様ねえ」
 
 苦々しくも呆れにも思える笑い方は昔から変わらないなあと、素っ頓狂にも懐かしくなってしまった。此の人は、いつもそうやって私たちの事を甘やかすと怒られていた。絶対に、何があっても、どんな時でも、私たちの方に着いてくれた。太宰くんも中原くんも、よく分かってるから二度はしないものね。って、私たちの頭を撫でて唯、無事でいてよかった。とだけ云うのだ。初めて会ったあの日から、此の人はそうとしか云わない。当時の私なんか死ぬ事しか考えてなかったから「良くない!」なんて喚いていたけれど、その言葉に云い返す事が出来なくなったのは、四年前のあの日からだ。
 
「都子ちゃあん。此処。此処だよ」
「嗚呼太宰くん。良かった、無事なのね」
 
 寝転んで眠る中也の横で声を出して手を振れば、彼女は心底安心した声色で私たちの元へと駆けてくる。汚濁の後で穴がいっぱい出来ている、けれど彼女は元々身軽だから難なく此方へとやってきた。私の顔と眠る中也の顔を交互に見て、目を細めて息を吐くと当時と変わらず私の頭に手を伸ばし、髪を梳くように撫でる。
  
「二人とも、無事で良かった」
「…うん。あちこちは痛いけどね」
「大丈夫よ。死んでなければどうにかなるから」
 
 触れられるのも、話すのも、四年ぶりだと云うのに何一つ変わらない。あの時のままだ。それが逆に、私は緊張を解けなかった。
 
「ねえ、都子ちゃん」
「うん?なあに?」

 声色は酷く優しい。穏やかな波に揺蕩うような心地よさだ。震える口をなんとか取り繕って、なんて事もないような声色で、私はその言葉を口にする。あの時と同じように。
 
「私と一緒に暮らそう」
 
 髪を梳く手がぴたりと止まった。ちらりと覗き見た彼女の顔は、想像していた驚いた顔ではなく、虚空を見つめて憂う顔であった。嗚呼矢張り、私ではないのだと、どれ程時間が経とうとも此の人が望むのは、“彼”なんだと、改めて思った。それ程の傷を、彼女はあの日負ったのだ。その一端を、私が担った。だからと云う訳ではない。“彼”の口から頼まれたからでもない。だって、本当は、ずっと前から、此の人が“彼”に出会う前から、私は、僕は、此の人にずうっと焦がれていたのだから。
 
「そうね。いつか全部が終わったら」
「……そうだね」
 
 曖昧な彼女の笑みに、私も同じく笑ってみせた。
 何が全部終わってからだろう。この戦争だろうか。彼女の心残りか、それとも整頓だろうか。いつかとは何時の事だろう。来年、再来年、遥か遠い先の事か。問うなんて野暮な事はしない。問うてもきっと、彼女は何も答えない。いつかも、全部も、彼女には訪れない。それだけは私の方がよく分かっていた。月の光に照らされる頬はまるで脆い陶器の様に透き通っていて、私が触れれば簡単に壊れてしまいそうだ。きっと彼の様に不器用ながらも丁寧に扱える手でしか、触れる事など出来ないだろう。
 
 
 
 
 
 目覚めたのは、揺れる車内であった。揺れるといっても、微かな振動だ。きっと俺に配慮して運転してくれているのだとすぐに分かった。俺の部下だろうと思って「悪かったな、」と身を起こしてルームミラーを見れば、自分が思ってもみなかった人物がそこにいて、思わず目を見開いてしまう。
 
「嗚呼良かった。起きたのね」
「都子、どうして」
「首領に頼まれたの。迎えにいってあげて、って」
 
 ミラー越しに視線が合う。運転中だから視線はすぐに外されたが、車を運転する彼女は安堵の笑みで、久方振りにその言葉を口にする。
 
「二人とも無事で良かった」
 
 二人とも、と云うのは俺と助手席で未だ眠るQに対してだったのだろうが、俺の耳は俺と、一緒に居た太宰の野郎の事だと捉えてしまう。昔から、此の人は俺たちの事をそう呼んでいたからだ。しかしその呼び方は四年前から聞かなくなった。太宰が組織を抜けた事もあるが、それよりも、彼女がいっとう愛していただろう人物がこの世を去ったから。その日から、彼女の、都子の雰囲気はがらりと変わった。その変わり様子が、あまりにも見ていられない程であったと、太宰の奴は知らない。俺が一番彼奴に対して憤っているとすれば、過去山の様にされた嫌がらせより何故都子を連れ出さなかったかだろう。殺しをしないあの下級構成員の顔がちらつく。彼奴とお前は友人だった。都子と引き合わせたのもお前で、お前が何より、二人の様子をみていたのだろう。だったら、都子の傷だって分かった筈だ。分かるならば、癒してやる事だって出来るだろう。時間がどうにかしてくれるのは限られた事のみだと、都子を見て思った。どれだけ時間が経とうとも、都子の負った傷は癒える事なく刻まれ続け、空いた隙間は二度と埋まらない。俺のような、“何も知らない”人間には、到底埋める事など出来る筈もなく、代替にもなれやしないのだ。
 へらへらと偽善振った笑い方をする、先程会ったばかりの奴を思い出して、胸が苛々と沸き立つ。そんな俺の心情など露知らずと、彼女は気楽そうな声色で「相変わらずねえ」とくすくすと笑った。
 
「太宰くんの事となると、すぐに怒るんだから」
「…彼奴と折り合いが悪いのは都子の方が知ってンだろ」
「そうね、ずっと見ていたもの」

 ずっと。ーー嗚呼そうだ。ずっと。
 俺が彼奴に憤っていたのは、お前を置いて陽の光の下へ出やがった事だが、それはお前は夜の闇が似合わないからだ。初めて会った時からずっと思っていた。此奴は此処にいる様な人間じゃないと。陽の届かない常闇よりも、陽の下で笑っている方がずっと似合うと。だから、最下級の構成員とは云え殺しをしないという織田と結ばれたと聞いた時、諦めがついた。これから先、きっと真面に生きて行く事が出来ると思ったのだ。俺には出来ないが、きっと。そう思った束の間だった。抗争が起きて、織田が死んで、太宰が失踪して、都子は大きな傷を負って。諦めていた筈のものは、泣く事もなく虚空を見つめる都子の横顔を見てじわじわと胸に巣食うようになる。
 あの時都子の首筋に当てた、銀色を引く事が出来なかったのはその所為だった。
 車内に端末の鳴る音がする。運転する都子のもので、彼女は手慣れた動作でそれに出ると、一言二言話して後部座席にいる俺へと端末を渡した。
 
「首領からです」
「嗚呼、分かった」
 
 口調は仕事で相手にする時と同じになった。俺もそれに応える形で、仕事の時と同じように答える。
 端末の電子声越しに首領から労いの言葉が聞こえた。きっとすべて仕組んだのは此の人なんだろうな、と何となく察していた。最適解だ。都子もきっと、首領の思惑に気付いているし、俺の胸の中で黒く淀んでいるものにも気付いているのだろう。全部打ち明けても彼女は曖昧に笑うんだろうなと思う。どれだけ想っていようとも、俺は代替にさえなる事はない。
 ブラックスモークが貼られた窓には、やけに白い月が浮かび上がっていた。


あとがき ゆかさんへ