色覚は異常

目を引いたのは、何気ない横顔だった。
流れる横髪だとか、ディスプレイを見つめる視線だとか、少し尖った唇だとか、特に変わった様子なんてものは無い、ごく普通の有り触れた女だ。何に目を引かれたのか今でも思い出せないが、その横顔から目が離せなくて、総務部の受付カウンターで呆然と彼女の横顔を見ていた。
視線に気づいた彼女が、俺の方を向いて朗らかに微笑む。確かにこの時、初めて落ちる音と云うのを聞いた。


ポートマフィアが活動する時間は、基本日の落ちた夕方から明け方の、夜中が多い。しかし、表の企業の顔もあり、そして保護ビジネスを受ける企業は殆どが一般の企業で、活動している時間は日が昇っている時間帯だ。その為、外回りや何やは昼間に行われる。俺たち黒蜥蜴は武闘派組織の為直接的にはそういった仕事をする事はまず無いのだが、特殊な場合、護衛などの任務の場合は昼間に仕事に出る事はある。

「よお、立原」
「おはようございます。宜しくお願いします兄人」
「宜しくな。お、似合ってんじゃねェかそれ」
「こんな時くらいしか着ませんけどね」

朝一から組織の拠点であるビルへ行けば、丁度、目的の人物と出会う。五大幹部の一席、中原中也幹部だ。武闘派でありポートマフィアきっての体術使いとも謳われるこの人に、果たして護衛というものが必要かと疑問には思うが、幹部に護衛が付かない事の方が可笑しいかと考えを改めて、昇降機の方へと歩きながら、久し振りに袖を通した黒服を整えた。
中原の兄人は俺たち部下に対して割と気さくに話しかけてくる。今日も、前の報告の話だとか、遊撃隊の芥川の兄人の話だ、姐さんの話をしていると、俺の耳に、雑踏に紛れて聞き間違えることのない、鈴のような声がした。思わず背筋が伸び、会話していた声が詰まる。

「あ?どうした」
「い、いや、何でもないっす…」

兄人にはそう答えるのが精一杯で、しかし、意識は恐らく後方にいるのだろう“彼女”の方へと向いていた。
近くに姐さんの声も聞こえるから、一緒にいるのだろう。曰く、“彼女”と姐さんは同時期にポートマフィアに入った、同期で仲が良いらしい。姐さんは今日、芥川の兄人が溜めに溜めた書類を処理すると云っていたから、恐らく出社のタイミングが合ったのだろう。何の会話をしているのかは聞き取れないが、随分と、“彼女”は気分が高揚しているようで、はしゃいだ声がした。
出来る事なら、振り向いて“彼女”の方を見たい。きっと見た目よりやや幼く見える笑顔で、姐さんと話しているその姿は簡単に想像でき、息の詰まる護衛任務に細やかな楽しみが生まれた。少ない確率であれ、昼間の時間に拠点にいれると云うことは、“彼女”と出会える可能性があると云う事だ。現状の様に、或いは、総務に行けば会う事ができる。これ程幸運な事は無いだろう。
チーン、と軽やかな音がして、目の前の扉が開く。幹部である中原の兄人が乗るので、俺以外に居合わせる人間は当然いない。先に兄人を昇降機の中に通し、自分が乗ると操作盤を弄って目的の階と閉める釦を押す。閉じる扉の隙間の向こうに、一瞬だけ、“彼女”が見えた。姐さんの隣に立つ“彼女”と視線が合った気がして、思わず思考が停止する。無遠慮に閉じる扉、そして昇る昇降機の中で、俺以外の声が“彼女”の名前を呟く。

「総務の間瀬都子か」
「えっ」

振り返れば当然、そこに居るのは兄人で、何でもなさそうに“彼女”、間瀬の名前を呟いたから、驚いて俺が振り向くと含んだ笑みを浮かべて揶揄う様な視線を向ける。此れではあからさまに間瀬に対して好意があると云っているようなものだ。

「ほお〜。手前の女か?」
「ち、違っ」

否定の言葉は出るものの、兄人の笑みと視線は止まず、嫌に優しい声で俺の名前を呼ぶものだから、此れは絶対何かあると警戒しつつも兄人の提案に耳を傾けた。

「総務の受付終了時間知ってるか?」
「え゛っ、…五時っすよね」
「流石に知ってるか。俺の執務室に総務に渡す仕事がある。今日の護衛とついでの雑用諸々終えたら手前にくれてやるよ」
「は、」
「飯でも誘ってこりゃいいさ」

何でもない風に云うが、この人良い人過ぎはしないだろうか。こう云う所が慕われる理由なのだろうし、首領が信頼を置く理由でもあるのだろう。
今日の仕事を終わらせて、間瀬を飯に誘う。頭を下げれば、兄人は頑張れよ、と俺の肩を叩いた。
それから忙しい一日が始まった。各企業へ挨拶回りに行く兄人の護衛、そして雑用と云う名の書類整理を手伝い、昼飯も碌に取ることがなく詰めたスケジュールをこなせば、気が付けば時刻は十六時を回っていた。最後に渡された資料を総務にいる彼女に渡した所まで、そこまでは良かった。

「莫迦か手前」
「返す言葉もねえっす…」

でかい溜息を吐く兄人の気持ちはよく分かる。俺も自分で莫迦野郎だと思うからだ。
莫迦な俺は、彼女と何の約束もせず兄人の執務室へ帰ってきたのだ。原因は二つ。一つは彼女と面と向かって話せた事。そして二つ目は贈った髪飾りを彼女がつけていてくれた事。この二つの事に俺が満足してしまいすっかり飯を誘う事を忘れてしまったのだ。

「まあ、総務の受付行きゃ会えンだから、日ィ改めて誘っとけ。な」
「………うっす」

俺の落ち込み様に流石の兄人も不憫に思ったのか、莫迦かと云いながらもフォローを入れるものだから余計に居た堪れなくなった。
取り敢えず今日の仕事は終わらせた。帰っていいぞ、と云われ、俺はお言葉に甘えて先に失礼させて貰う事にした。帰りに麦酒を買ってヤケ酒するか、とこれからの予定を組みながら兄人の執務室を後にして誰もいない昇降機へと乗り込む。時間的に既に定時を超えているから、残っているのは夜に活動する奴らばかりで、皆もう外に出ているとばかり思っていたが違うらしく、一階について昇降機を降りると、まだ疎らに人が居た。案外残ってる人間てのは多いんだな、と思いながら、歩みを進めていると、ふと、聞き覚えのある声がする。

「あの本当に、良いので」
「遠慮しなくていいよ!此処まで遅くなったの俺の所為だしさあ、家まで送るって」
「本当に、大丈夫です。それに飲み会の約束あるんで、」
「あっ、遊撃隊の樋口さんだよね。俺の同僚も呼ぶから、一緒に飲まない?」
「いやだから、」

「悪ぃ。待たせたな」

云い寄る黒服の背後からそう声をかければ、どちらも驚いて振り向いた。男の方は、俺の顔を見て、大袈裟に肩を跳ねさせて俺の名前を小声で呟く。その様子を横目でみながら、云い寄られていた間瀬の隣へ並んだ。

「予約、何時にした?間に合うか?」
「えっ、あ、多分、大丈夫、です」
「つってもあんま無いか、急ごうぜ」

彼女の手首を取り、エントランスの正面出口へ向かい外へ出る。もやもやとした燻りが胸に溜まって酷く気持ちが悪くて、思わず舌打ちが出た。それくらい、俺はあの黒服にイライラしていた。
暫く進むと切羽詰まった声が背後からして、そこで俺は我に返り俺の歩幅に合わせて歩いていた間瀬の息が上がっていることに気づき、焦って掴んでいた手首を離して彼女の正面を向いた。

「わ、悪ぃ!その、だ、大丈夫か」
「は、はい!あの、有難うございます。助けて頂いて、」

俯いて乱れた髪を手櫛で直す仕草が道を照らす街灯で映えて、俺を見上げる視線にどくどくと鼓動が早くなる。明暗の効果でだろう、昼間の明るさとは違いやけに色っぽく見えてしまい、ごくりと喉が嚥下すると共に、胸に燻っていた溜まりに溜まった何かがすっと消えていった。
言葉を最後に沈黙が続く。このままじゃあと帰るか否か。あの黒服野郎はもう居ないかも知れないが、時間も時間で女一人帰らせるのも気が引ける。そしてなにより、この状況は先刻を挽回できるチャンスではないだろうか。このまま飯でも、と誘うか。否、夜は警戒されるだろうか。ぐるぐると思考が回りに回る中、どうにかこの状況で縁を作れないかと思案して、取り敢えずはこの沈黙をどうにかしようと声を上げた。

「「あのっ!」」

「え、あ、」
「お、おう…、さ、先に」
「い、いえ!立原さんから、ど、どうぞ」
「え!?い、いや、アンタから」
「いえ!立原さんからで!お願いしますっ!」

重なった声に互いに驚きながら、どちらが先に話すか譲り合いになるとは思わなかったが、彼女の力強い押しに押されて、意を決して、先程云えず仕舞いだった言葉を並べた。

「わ、分かった。…その、良ければ、なんだが、あー、…飯とか、どうだ?」
「えっ……」
「あ!無理にとは云わねぇから!今じゃなくても昼とか!」
「い、いえ!その!う、嬉しいです…!た、立原さんとご飯出来るのが、すごく」

それはもう嬉しそうに微笑む間瀬に、どうしようもなく、胸に何かが広がってじんわりと暖かくなった。嗚呼きっと、これが幸せなんだろうなあと漠然と思いながら、後日日取りを連絡するために連絡先を交換し、人通りの多い繁華街への道まで送ってこの場は別れた。
今日はヤケ酒じゃねえ、勝利の祝杯だ。昇降機の中とは打って変わり、気分上々で最寄りのコンビニで麦酒とつまみを買って帰宅ししこたま呑んで眠った。
翌日の朝一に間瀬から「おはようございます」で始まる伝言で感極まる事を、この時の俺は知らない。


あとがき すいりさんへ