醒めない夢

じゃらり。
身動きする度に足に嵌められた冷たい“其れ”が音を立てる。果たして何時から私の足に嵌っているのか、覚えはない。だって、この部屋で目を覚ましてから、“其れ”は至極当然の様に嵌っていて、“彼の人”も特に何か云う訳でもなかったから、きっと、今の私に必要なものだと思う。
今の私には、過去がない。云うなれば記憶喪失で、爆発事故に巻き込まれ頭を強打した為今迄の記憶をすべて失ってしまったようである。そう、この部屋の主である人に教えられた。其の人は私の恋人だという。目を覚まして最初に見たその人に、私は誰か分からず「何方ですか」と聞くと、彼は一度笑みの儘固まって、顔を伏せると私の手の甲を撫でながら肩を震わせた。そして、私に事情を話したのである。
やっと目覚めた恋人が、すべての過去を忘れ赤の他人の如く振舞うその姿を、彼の人は笑顔で迎え入れてくれた。勝手が分からない私に根気よく寄り添い、何から何まで世話をしてもらい、本当に、感謝しかない。とても良い人だ。でも、何処か、彼の人の様子に影を見てしまう。ふとした瞬間だとか、他愛無い会話の中だとか、特に気になる程ではないにしろ、何かがおかしいと、頭の隅で警報が鳴る。其れの正体が分からない。髪を梳く指先も、頬を包む掌も、名を呼ぶ暖かな声も、抱きしめる力強い腕も、どれも全て安心できるのに、強く反発する。噛み合わないこのちぐはぐとした、不協和音のような違和感は、一体何なのだろうか。



部屋の中央に置かれた寝台に寝そべり本を読んでいると、扉の開く音がした。音の鳴る方向に視線を上げれば、もう見慣れた黒い影が現れる。
黒い帽子、その下には明るい赤茶の髪と白い肌、そして青い宝石のような双眼。黒い外套を肩に羽織ったその人は、私と視線が交わるとそれはもう幸せそうに笑うのだ。

「おかえりなさい、中也さん」
「嗚呼、戻った」

迷うことなく一直線に私のいる寝台へ歩みを進め、寝台の縁に腰掛けると、中也さんは私の頬を割れ物を扱うように優しく包んで頬に唇を寄せた。
いつも戻られるとする挨拶だ。前の私も、いつもこうやっていたらしい。

「体調は。変わりねェか」
「ええ、お蔭様で」
「ならいい。却説、さっさと風呂入るか」

そう云って、中也さんは私の身体をゆっくりと抱き寄せて、懐から鍵を取り出すと私の足首に嵌った“其れ”の小さな穴に差し込む。たった四半程回すだけで“其れ”は小さな音を立てて簡単に外れた。それを確認した後、私は落ちることの無い様に中也さんの方へと凭れれば、彼は私の膝裏に手を差し込みゆっくりと私を持ち上げて風呂場の脱衣所へと向かった。
中也さんは、何から何まで私の世話をしたがった。お風呂にしても、食事も、衣服の着替えも、身なりの整えも、すべてにおいて、だ。もう体調も良いから一人で出来ると云っても、頑なに私にやらせてはくれず、寂しそうな顔をするものだから、私も強く云えないでいる。それは、私の世話をする彼の顔が、とても嬉しそうで楽しそうなのもあるのだが。


「ちゅ、中也さん、流石にもう、」
「恥ずかしがる様な仲じゃねェだろ、もう」

その言葉にかっと顔が熱くなる。云い淀む私にその人はけらけらと笑うものだから恨めしくって睨むものの、相手にされる事はなく余計に笑いを誘う様だ。
自分が既に成人を超えていることもあって、成人済みの異性に風呂に入れられると云うのは、正直とても恥ずかしいのだが、中也さんは恋人であるし、それに髪から足の指先まで丁寧に、壊れ物でも扱うように、念入りにする様子はかなり真剣で全く他意を感じない。そのため余計にこの状況に慣れつつはあった。けれど、やはりいつまで経っても、脱がされる時は羞恥心が勝るのだ。それでもこの人はどこ吹く風で、器用に私の服を脱がすと風呂場に放り込む。
今日もそれは変わることなく、私の服を一枚残らず脱がせると風呂場に放り込んだ。そして先に私の事を隅から隅まで、余す所なく洗って、浴槽に入っている間に中也さん自身が自分の身体を洗って、一緒に浴槽のお湯に浸かっていたが、私が眠くなってきたのが分かったのだろう、直ぐにまた抱きかかえられて浴槽から引き揚げられた。そしてこれまた丁寧に手触りの良いタオルで体を拭かれ、服を着せられる。そして自分も手早く着替えるとまた私を抱きかかえて寝台へと戻るのだ。

寝台の上へと戻れば、また同じように足に嵌められてドライヤーで髪を乾かす。勿論、それも中也さんの手でだ。私がかつて愛用していたというヘアオイルを手に満遍なく伸ばして丁寧に、髪の先から刷り込む様に馴染ませて、それから緩い温風で乾かす。

「ちゅうやさん、」
「ん、どうした都子」
「ふふ、なんでも、ない、です」
「あ、寝やがるつもりか手前。もうちと待てよ、あと少しで乾くから、」

名前を呼べば、優しい声が暖かな風と共に耳に入る。時たまに耳に触れる男らしい筋張った手がくすぐったくて、小さく笑い声が出た。きっと、中也さんは態とやっているのだろう。嬉しそうな弾んだ声が、私の名前を呼んで、私のふわふわした声色が眠たいのを察してまた髪へと指が戻る。
暖かくて、優しくて、心地よいこの世界。きっと、昔から、中也さんは私にこうやって髪を乾かしてくれていたのだろう。だって、まえにも、




違う。だって“あの人”は、こんなに上手じゃなかった。

ぷつりと笑い声は途切れた。
それは突然の事だった。壊れた蛇口の取っ手が急によくなって、思いきり回るくらい呆気なく、そして溢れ出る水の如く記憶が戻り始める。止めどなく流れ始めたそれを理解するのに少しの時間を有したが、処理することは出来た。自分の来歴を、自分が今どう云う状況なのかを。

私はある組織の構成員だった。背後で私の髪を梳く中原中也は私の恋人なのではなく、敵対していたポートマフィアの幹部で、私の婚約者を殺した仇敵だ。
あの夜、私の組織はポートマフィアの襲撃を受け壊滅した。襲撃の指揮をしていたのがこの男で、前線に出ていた彼は、この男の異能で、圧し潰され死んだ。それを、わたしは、みつめる、ことしか。
硝煙、黒い煙、轟音、鉄の匂い、廃墟と化したビル。
何故か私だけ無傷で鎖に繋がれ、目の前にはあの人、と黒い帽子の男。ぐしゃりと音を立てて、あの人は、血肉となった。裂く程に喉が痛くて、酸素が回らず頭がくらくらとした。理由は全く分からなかったが、きっと私は泣き叫んでいたのだと今になって理解出来た。
帽子の男は、あの人を踏み潰して、私を見つめて笑っていた。それはもう嬉しそうに目を細めて、頬を緩ませて。

『これで手前は俺のモンだ』

帽子の男は、隣の黒服から液体の入った注射器が渡される。透明のそれに男の瞳が映った。深海の様な双眼だ。

『安心しろよ。あの野郎の事も、組織の事も、全部消える』

押さえられた腕に沿う銀の針。差し込まれるそれを私は呆然と見ていた。
いっそ、愛した貴方のいない世界など、家族の様に慕った皆のいない世界など、全部夢ならいいのに。そう思いながら。

思考は閉じられた。
しかしそれはふとした瞬間に簡単に呼び覚まされる。
それこそ夢から覚める様に。



「流石に試作品程度じゃァ、簡単にはいかねェか」

背後で柔らかくて、苦笑交じりの朗らかな声がする。何時の間にか風の音は止んで、優しい指先が私の髪を撫でていた。目尻が焼ける様に痛いけれど、涙は全く出てこない。
逞しい筋肉質な腕に背後から抱き寄せられる。先刻までは、この腕に安心感を覚えていた。記憶が戻った今はどうだろう。この腕は私のすべてを壊したというのに、相も変わらず安心してしまう。憎い相手の腕と温度だというのに、自身の心の矛盾が私を余計に混乱させた。感情が出せれば楽なのだろうに、私の心は酷く平坦に、波打つことなくあるものだから、どうしようもない。
変わらない柔らかな優しい声が、耳に直接吹き込まれる。

「夢の続きを教えてやろうか」

此処は地獄だ。
光の差し込むこともない地下の、誰も訪れない一部屋の、無様に生き恥じを晒す私と、歪な愛を紡ぐ幼稚な男だけの、無二の地獄。



あとがき 匿名さんへ