内緒話は午後三時

私の勤める珈琲店は、老若男女様々な人が訪れる。勤め人は勿論主婦や学生、近所に住む老夫婦や幼い子供も訪れる。また、店が持ち帰り用のメニューを用意している事もあって、お客様の回転率は高く、店内で過ごす方は時間によっては少ない。丁度その時は、平日ということもあって人が疎らな時間帯だった。セルフ用の棚を掃除したり、空いた机の清掃と整理をしていると、あるソファ席に、本が一冊置いてある事に気付いた。きっと、先程までここに居たお客様の忘れ物だろう。
その本は何度も繰り返し読まれているようで、頁の端が折れていたり、表紙の縁に傷がある。それ程大切に読まれているのだとよく分かった。その本は謂わば短編集で、その話はどれもユーモラスに溢れていて面白い。執筆しているのはあまり有名な作者ではないから、書店で見つけるのも難しく所によれば扱っていない書店もあり、極めて稀な本で、私自身同じ本を持っているが、購入したのは幾分も前の話である。珍しいものを持っている人も居るものだ。どんな人であっただろうか、と記憶を探るものの、この席は注文口からはほぼ死角となっていて、どんな人が座っていたのか記憶が殆どない。朝一にいたのは辺りの企業に勤める勤め人だったが、その後は覚えていなかった。が、しかし、ここまで大切に扱っている本なのだ。取りに来られるかもしれない。机の消毒を終えて注文口のカウンターに戻り、忘れ物用の籠の中へと、丁寧に置いた。付箋に置いてあった場所を書いて貼り付けておけば、私以外の店員が渡してくれるだろう。早く取りにいらっしゃいますように。なんて、普段にも増してそう祈ってしまうのは、自分と同じ興味を持つ人に、勝手に親近感が沸いてしまったからだろう。お客様の声がする。注文を取る為に注文口へと返事をしてその場を離れた。


数日後の事だ。昼中のピークを終えて店内が落ち着き始めた頃、そろそろ退勤の時間が近くなってきた。この後の予定を考えながら整頓をしていれば、扉の鐘が鳴る。

「いらっしゃいませ」
「ぁ、あの…」

長い黒い髪に、白いワンピース姿の女性、というより、少女だろう。華奢な身体と鈴のような声が余計に儚く思えた。

「先日、此方にお邪魔した時に、その、本を一冊忘れまして、」
「嗚呼!はい。お預かりしています。少々お待ちくださいね」

忘れ物用の籠の中に、それはきちんと入っていた。付箋を取ってその本を見せれば、少女は安堵したのだろう「よかった」と呟いて目尻を緩ませた。

「有難うございます」
「いいえ。あまり書店に並ばない方のですから、貴重なお本ですよね」
「、ご存知なんですか?」

驚いて目を見開く少女の反応に、苦笑した。この方を知っている人はそれ程いない。その反応はよく分かる。

「私もこの方のお話好きなんです。この本にある、博士と機械人形のお話とか、」
「私も好きです。あとこの話とか、」

頬を緩ませて本の頁を捲る様子が微笑ましい。つい漏れた笑い声に、少女は私を見上げて目が合う。すると、顔を真っ赤にさせて俯いてしまった。

「ごめんなさい。揶揄うつもりはないんです。つい、微笑ましくて」
「いえ……。その、私こそすみませんでした…」
「あの、もし宜しければなんですが」

ある提案をすれば、少女は一瞬きょとんと目を丸くさせて驚いたものの、きらきらと目を輝かせ顔を赤く染めながらも首を縦に振った。
本が置いてあった、あの席を指定すれば、彼女は会釈をして踵を返し、その席へと向かっていく。その後ろ姿を見送って、私は厨房へと注文を入れた。カフェラテとブレンドを入れて会計は私の方で済ませると、丁度交代の人が現れた。退勤の時間である。厨房の子に後で取りに来るように云って、休憩室へと下がって荷物を手早くまとめる。少女と同じように、私も話を出来るのが楽しみで、年甲斐もなくはしゃいでしまっているようだ。カーディガンを羽織って鞄を手に取ると従業員の出入り口から外へと出る。そして、正面へと回って店内へと入って、交代した子に厨房で作ってもらっていたカフェラテとブレンドを貰い受けて、その席へと向かえば少女は気恥ずかしそうな顔で、私を見上げた。

「お待たせしました。これ、どうぞ」
「ぇ、あっ、そんな」
「ふふ、いつも来て下さいますから」

持ち帰り用の器を置いてそう云えば、彼女は遠慮がちに持って、口をつける。ほっと息をついて、肩の力が抜けた所で、先程の本の話を広げていく。こうやって、誰かと本の内容を話すのは久し振りで、つい、時間感覚が無くなるくらい沢山お話しをして、気が付けば陽も傾き始めるような時間になっていた。



そんな出来事があってから、その少女、銀ちゃんと意気投合して、不定期ではあるものの時折お店でお話をしたり、無心で読書をするようになった。

「なんだ、やけに機嫌が良いじゃねえか」

夕ご飯の時に、中也さんは不思議そうにそう云った。今日は銀ちゃんと久し振りに出る新作を買いに行く予定を決めたのだ。その後に、喫茶店で新作を読んでお話しする予定もあって、その日を楽しみにしているのが、どうやら外に出ていたようである。
別に困ることは無いし、中也さんに云っても良いのだけれど、なんだか秘密にしておきたくて。

「…ふふ。内緒、です」
「ふーん……」

腑に落ちないと云った返事だがそれ以上は聞いてこない。ぱくり、と鶏の南蛮を一切れ口に入れると、じとりとこちらを見つめてきたけれど、知らない振りをして私も食事を再開した。


あとがき 沙来さんへ