いつかを描いた青写真

 あの時、手を取りたかったかと聞かれれば、本当は手を取ってしまいたかった。
 
 北米との関係は切れ、かつ組織と探偵社、北米の組合との衝突が幕を下ろし暫しの安息の時間が流れる今日、情報の処理を命じられた私はいつもの如く通信保管所に引き篭もり書類の束を見つめていた。そこには、衝突中の出来事が事細かに記されている。その一文に、太宰の名前を見つけて、あの時の事を思い出したのだ。否。あの時から忘れた日などなかった。いつまで経っても、見慣れない砂色が頭から離れないのだ。そして、あの太宰の表情も。果たして彼が何故そこまで私に固執するのかが分からない。
 私は、唯の非戦闘員で、この保管所の処理をしているだけの人間だ。それは彼が組織にいた時から変わらない。この一室にある通信の記録を唯整理するだけの仕事である。誰にでも出来る仕事だ。しかし、私はこれしか出来ないから、この仕事でしか生きる事が出来ないから、この場所で、こうやって毎日、同じ作業を繰り返す。彼は、此処でなくとも出来る仕事はあると云った。しかし、それは私には到底思いつかない。この保管所の整理と守りを任され早七年の年月が流れている。今更、別の事をしようとは思えなかった。
 例えばの話。あの言葉を云ったのが、どこやらの帽子を被った幹部様なら鼻で笑っただろうし、赤い髪を綺麗に纏めた着物姿の女性幹部やよくこの保管所に訪れる遊撃隊長であったなら、完全に否定出来たであろう。けれど、相手が、あの太宰治だった。かつて、「マフィアになる為に生まれてきた男」だとか「黒社会最強の二人」の片方として名を轟かせた男が、四年前全てを捨てて、或いは洗い流して、目の前に現れた事が、そして最もかけ離れた言葉を云うのが、酷く眩しくて、そして虚しかったのだと思う。自分には出来ない事を平然とやってのけるその手腕と、その精神が。そんな人間に「行こう」と云われて仕舞えば、頷きたくもなる。出れて仕舞える気が、してしまうのだ。けれどそれは、水面に映る月でしかない。私の手には届かない、幻想だ。
 随分と高くなった背も、昔とは違う笑い方も、砂色の外套も、そして交わる瞳も、全部、手を伸ばせば消える泡沫のまぼろしにしか過ぎないのだから。
 
 
 
 
「は、」
「ん?不満かい?」
「い、いえ。その、驚いたものですから」
 
 非通知の電話で呼び出されたのは、森鴎外首領の執務室だった。私のような一介の構成員如きでは容易に入れない場所に呼び出された理由は、停戦している探偵社へ提供するという通信資料を探偵社の社員と密会し渡すという命令であった。何故私なのか。直属である遊撃隊の人たちや幹部などの役柄なら分かる。首領が信頼を置いている人間が行うべき事を、何故私にやらせるのか。たかが、一介の構成員で、保管所に引きこもりがちの私が。呆気に取られ驚く私に、首領は笑みを浮かべたまま、密会の日時とまとめる通信資料を云い渡し、下がるように命令する。当たり前だが、口答えや拒否など出来る筈がなく、私は頭を下げて執務室を退室し、また保管所の資料をまとめる作業を行わなくてはならなかった。何故なら、この組織にいる以上、首領の命は絶対なのだ。
 日頃の仕事作業と並行してまとめ作業を行い、決められた日時よりも早く、その作業は終わった。何気に膨大な情報の中から、その情報を抜き取りまとめるというのは難しいことではないが手間がかかる。ファイリングした資料を封筒の中へとしまって、一息ついた。流石に目や肩が疲れて、気分転換に保管所から出て珈琲でも買いに行こうと席を立った所で、扉が開いて、人が入ってくる。
 見知った黒い帽子と外套はそう何人もいない。軽い声で「よお」と手を挙げた人物の手には、資料と思わしきファイルが数冊あった。
 
「借りてたわ」
「嗚呼。お疲れ様です中原幹部」
「…毎回その台詞云うのか手前」
「ほら、私只の構成員。アンタは幹部」

 指を指してそう云えば、違ェねェがな、と快活に笑った。人目がある場所なら兎も角、此処には私と幹部様しかいない訳で、多少の無礼も許されるのだ。かつて、まだヒラだった頃のように。
 中原幹部、もとい中也からファイルを受け取って棚へと戻していると、彼は机上の封筒をじっと見つめて神妙な顔をしていた。それは正に、今まとめ終えた密会で渡す資料である。
 
「今度探偵社に渡す資料。私向こうの人の初めて会うからどきどきしちゃうね」
「俺から首領に口添えてやろうか」
 
 明るくそう云ったものの、どうやら見抜かれているらしい。かつての相方も勿論そうだが、人の心情を見抜くのが上手い。否、私が分かりやすいのかもしれない。けれどそんな事はどうでもよかった。云わんとしている事が、なんとなく、分かる。首領は、「探偵社の社員が来る」としか云わなかった。しかし現れる人間の検討は、私も、そして目の前の中也も分かっていた。
 あの時の、この部屋での事を中也は知らないが、私と太宰が会っていた事は知っているから、余計になのかもしれない。私は、太宰と会うのが少し怖かった。怖いというのは、相手に対する恐怖ではなく、複雑な自分の心境を整頓出来ていないからである。未だに、彼の云った言葉が、砂色の外套が、頭から離れないのだから。しかしだからこそ、今回のことは好機だと思っている。
 机上の封筒を手に取って、机の中へとしまう。きっと、中也が口添えしてくれれば、首領は密会を私から中也に変えるだろう。けれど。
 
「いいの。私が任されたから」
「…そうか」
 
 中也もきっと、云ってみただけだ。私がそう答えるとはなから分かっていただろうし、私が命じられた仕事を他人に任せるという事をしないというのを、よく理解していた。だからこそ、分かりきった答えを聞いて、呆れたように笑って、踵を返し保管所から出て行った。これで良いと、心の中で呟いて、財布を手に保管所を出た。
 
 
 
 
 
 日は過ぎて、密会の日となる。いつもの格好では流石に失礼だと、今日はきちんとスーツに身を包み、指定された場所へと赴いた。時間は少しばかり早めに来た。夜の港、暗闇の海から汽笛の音が遠くで聞こえた。倉庫街のある倉庫へと辿り着くと、既に人影が見えた。細身で背が高い。しかし、その容貌は、自分が思い描いた人物ではなかった。
 
「ポートマフィアの使者か」
「…探偵社の方、でしょうか」
「嗚呼、国木田と云います。失礼ですがお名前を」
「間瀬と申します」
 
 国木田。確かに資料にあった、探偵社の社員である。襟足を結った、眼鏡の方だ。確かに本人で間違いなく、向こうも私の名前を知らされていたのだろう、緊張を解いて、失礼しました、と律儀に謝りを入れて頭を下げた。
 
「その、真逆。女性の方とは思わず」
「いえ、此方が資料です」
 
 鞄から封筒を取り出し、手渡すと、手早く中身を確認して、確かに。と一言云い、自らの鞄の中に仕舞った。几帳面な性質であるらしい。腕時計を確認すると、では、次の予定がありますので、と踵を返し去っていく。随分呆気なく終わったが、まあ、密会なんてそんなものなのだろう。しかし、そんな事よりもてっきり太宰が来るとばかり思っていたから、何となく、期待していた自分が馬鹿みたいだなあと嘲笑した。そんなに上手く事が進む筈はない、と云う事だろう。
 
 踵を返して、私も帰路につく。まずは首領に報告をしなくてはいけないな、と取り出しながら倉庫の中を歩いていれば、自分のヒールの音とは違う、革靴の音がして、意識は聴覚へと集中する。気づかぬフリをして、取り敢えずは歩みを進める。非戦闘員である私では戦闘に入れば勝ち目はない。資料を狙った犯行であると認識するのは早く、焦らぬよう歩調に気をつけながら人の多い場所を目指した。音は稀に、微かに聞き取れる。今の時間なら、見張りと警備に配置された構成員が組織所有の倉庫にいる筈だ、其方へ向かおうと進む方向を変え、その建物と、黒服の人影が見えた事に、少なからず安堵して駆けようとしたその瞬間。
 
「っ!?しま、」

 腕を掴まれ、物陰へと引かれ、後ろから抱き竦められる。口を塞がれ腰に回された腕を掴めば、男は微かに笑った。その笑い声は、覚えがあった。
 
「しー。気づかれちゃうよ」
「だ、」

 力を緩めその名前を出そうとすると、彼は口を押さえて、可笑しそうにまた、しー、と云う。恐らく警備の人間だろう、構成員が物音がした此方へと確認をしに来ていたが、物陰に隠れた私たちを見つけることは出来ず、また元の位置へと戻っていく。その様子を見送って、もう大丈夫だからと、腰に回された彼の腕を叩けば、彼はゆっくりと力を緩めた。振り向けば、相変わらず真意の見えない笑顔で「この間振り」と云った。
 
「いきなり何…。見つかるのが面倒なら場所移動する?」
「ううん。ここの方が良いんだ。だって、」
 
 これから都子ちゃんの事攫うんだもの。
 なんて事なく吐き出した言葉を、理解できずに固まった。彼は、太宰は困ったように笑って、落ちた私の鞄と片方のパンプスをその儘に私の手を引く。
 
「君は今夜、密会の後に行方を晦ます。探偵社が追っていた組織が、密会の後に君を襲ったらだ」
「は、」
「密会が行われていたことは国木田君が証言するし、先刻の構成員が物音がしたと確かに証言するだろう。君の鞄と片足だけのパンプスを見れば、拉致されたのはほぼ確定となる」
「それじゃ、」
「非戦闘員である君が襲われた事によって、ポートマフィアはその組織を追い立てる方へと変わる、所謂大義名分が出来た。たかが一人の構成員如きで、とは思うだろうけど、組織にとって君は重要な情報の集中場所だ。そんな人間を、組織は放って置かない」
「……」
「その組織も見覚えがないとは云えない。先刻確かに君の事を襲おうと追いかけていたのだから。よって、この組織は探偵社とポートマフィア、二つの組織を敵に回されざる負えなくなった」
 
 ま、実際は、ポートマフィアの一人勝ちとなるだろうけど。そう云って、太宰は私を見下ろした。けれど、そんな筋書きなら。
 
「じゃあ私、」
「うん。私に攫われて」
 
 組織に戻る事は出来ない。そうすれば大義名分がおじゃんになる。けれど、行く当てなど他にはない。残された道は、目の前にしか存在しない。このやり口が、本当に太宰らしいと思う。自分に都合の良い道だけを用意して、それ以外に選択肢など用意しないのだ。
 
「云ったでしょう?」
 
 絶対、引っ張り出すって。君はこれくらいしないと頷きそうもないから、かなり大掛かりになっちゃったよ。
 そう云いながら、太宰は私に手を差し出すのだ。きっと全てではないにしろ彼が仕組んで張り巡らせたのだろう。
 
「太宰、」
「うん?なぁに」
「やっぱアンタ変わんないわ」
 
 なんだか、色々考えてたのが馬鹿みたいに思えた。あれだけ真剣に考えて、あれだけ無い頭を振り絞っていたのに、この男はその間にこうやって私を引っ張り出す方法しか考えていなかったようである。思わず笑いが出る私に目を丸くして驚いた。そんな顔を初めて見て、案外間抜けな面だとまた笑えてくる。
 差し出された手を掴む。少しかさついた、筋張った手は確かにそこに在って、私の手を力強く握り返した。
 
「都子ちゃんもね、変わらないよ。昔からずっと、日向みたいな儘だ」
「ぅん?」
「ううん。何でもない」
 
 何の事だと首を傾げて見上げれば、太宰はなんて事なく微笑んで掴んだ手を引いて抱きしめた。今度はしっかりと、私も背中に腕を回して抱きしめ返す。もう迷う必要はなかった。
 
 
 太宰の云った筋書き通りに、ポートマフィアはその組織に報復し、それによって探偵社は手出しができなくなった。お陰で仕事が減ったと太宰は喜んでいたが、元々この人間がまともに仕事をすることはないので助かったのは他の探偵社員だろう。
 私は元々犯罪歴が無い為、経歴を洗浄する必要がなく、あるとすればポートマフィアから身を隠す事だけだった。長年あの保管所に引きこもって黙々と作業をしていた経験を買われ、今は探偵社の資料室で黙々と資料の処理整頓を行いつつ、事務の方を手伝わせて貰っている。部屋数が足りないからと太宰の部屋にお邪魔しているが、もうそろそろ出て行こうかと思っている。流石にずっとお世話になりっぱなしでは気が引けるのだ。今日の夜、切り出してみるか、と事務の春野さんから貰った賃貸の紙を片手に考える。
 しかしこの時の私は知らない。その紙を取り出して説明した後あれやこれやと云い合いになった結果、太宰から長年の想いを打ち明けられ恋仲になり結局同棲になるなど夢にも思わない儘、好みの賃貸物件を選んで楽しんでいるのだった。


あとがき 瀬里さんへ