「適当に座っててください」

 そう言い残して扉一枚隔てたキッチンへ向かう日吉の後ろ姿を見届けてから、なまえは通された部屋をぐるりと見渡した。
 広さは六畳くらいだろうか。ダークブラウンと深い緑の二色を基調に家具が揃えられており、統一感がある。
 部屋の真ん中付近に置かれた小さなローテーブルには見覚えがあり、実家から持ってきたものだと推測でした。その隣に小さく座る。

 一人暮らしをするつもりだという話を聞いてはいたが、ついこの間のことのように思う。まだ二ヶ月とたっていないだろう。今部屋を探しているなどと具体的な話は聞いていなかった。
 「落ち着いたので、家に来ませんか」とお誘いを受けたときは、大学のレポートなどがひと段落したのだとばかり思っていた。
 待ち合わせは初めて降りる駅だったが、なにも不思議には思わなかった。なぜなら、いつも待ち合わせはさまざまな駅で、話題のカフェなどでランチをすることも少なくなかったからである。
 商店街を抜け住宅街の方向へと迷うことなく進む道すがら、ようやく目的地を聞いたなまえは日吉の返答に目を見張らせた。

「一人暮らし始めたので、俺の家です」

「言ってませんでしたっけ?」と悪びれもなく言うものだから、なまえは外だということをすっかり忘れ、聞いてない! と声を張り上げたのであった。

 さて、ここで話は冒頭へと戻る。
 二人分のカップを持って戻ってきた日吉は、なまえの様子を見て小さくため息をついた。

「まだ拗ねてるんですか」
「拗ねてない」
「なら、こっち向け」

 たまに、日吉はなまえに対して強い口調になるときがある。
 学年はなまえがひとつ上になるため、お付き合い後も敬語がとれず、なまえはそのこともやきもきしていた。友人から、付き合ってるのに敬語なの? と不思議そうに聞かれるたび、わたしたちはわたしたちで好きにしてるからと突っぱねていたが、要は見栄をはりたかっただけだ。本当は、敬語なんていらない。
 気を使わない生意気だともとれる言葉遣いがたまらなく好きだった。

「だって、聞いてなくて。……ごめん。こんなことで拗ねて」
「俺こそ、すみません。……本当は、意図的に伝えてませんでした」

 思わぬ告白に、気まずさから下げていた頭を上げる。

「サプライズのつもりで……。でも、なまえさんの気持ちを全然考えてなかったですね」

 すみません。
 二度目の謝罪と、ポツリポツリと紡がれる言葉に、なまえはたまらず噴き出しそうになる。今の重い雰囲気を考えて耐えた自分を褒め称えたい。だって、サプライズって!

 日吉の初めて彼女という存在が、自分だということをなまえは知っていた。これについて日吉も包み隠さず教えてくれたし、なまえ自身もなんだか得意な気持ちになったものだ。
 付き合うようになって、ところどころ日吉のズレた考えや行動が目につくことがある。でもそれは、なまえにとって愛しいものだった。なまえのことを考えていない行動ならともかくとして、それは日吉がなまえのためを思って行った言動でありそれを誰が責めることができるのか。

「部屋探すのわたしも手伝いたかった」
「はい」
「家具も、一緒に選びたかったな」
「はい」
「引越しの手伝いだって、したのに」
「……ええと、さすがにそれは」

 はい、と流れで返事をせず、きちんと返してくれる。それも、なまえが「手伝いたいんだよ」と言えば日吉はしぶしぶといった様子で頷いた。

 一人暮らしの男子の家に遊びに行ったら、急須でお茶を入れてくれる人は日本に何人いるんだろうか。すっかり温くなってしまったお茶が優しく喉を通るたびにそんなことを考える。
 先程までの空気はどこへやら。いつも通りの和やかな雰囲気にもどったふたりはベッドを背もたれにして並んで座る。BGMは日吉が最近お気に入りだという海外のB級映画だ。
 なまえはこの手の映画に一切興味がない。いや、なかった、というのが正しい。日吉と交際をはじめて2年は経とうとしているが、今ではそこらへんにいるマニアの方と軽く雑談ができるくらいまで成長した。そこらへんにいるマニアの方とはまだ遭遇していないが、たぶんできるはずだ。
 グロ耐性はわずかながらについてきたと思っているが、仮面を被る不気味な人? やピエロなど、非日常的な恐怖には慣れようがない。

「ぎゃー!!」

 画面いっぱいに不気味な顔がアップで映され、思わず隣に座っている日吉の腕にしがみついた。日吉といえば、まったく微動だにせず画面に釘付けである。心なしか口元が笑っている。

「このまま腕掴んでていい……?」
「服より、手にしてもらえますか? 伸びるので」

 細く長い指に絡むように自分の指を重ねる。見る側をビックリさせるような演出があるたび、繋いでいる手に力をこめ恐怖に耐える。

「うう、今日ひとりでいるのやだなぁ」

 ぽつり、とこぼしたひとりごとに、今まで微動だにせずTV画面を見ていた日吉が驚いたようになまえを見た。
 こんな映画を観ているのだ。なまえが住む一人暮らしの1Rに帰りたくないと思うことは至極当然だといえる。
 TV画面の中にいる外国人が大きな声で助けを求めていた。その音に驚き、なまえはすかさず日吉の手を強く握る。と、するりと手の甲が撫でられ、なまえの緊張がとけたように握力がゆるむ。

「泊まっていきますか?」

 はて、それはどこに。誰が。

 さまざまな疑問が浮き上がり消えていく。その間もなまえの手の甲には日吉の長い指がすべっている。くすぐったい。

「えっ、なにっ!? なんで!?」
「ひとりでいるのが嫌なら、と思って」

 ひとりでいるのは嫌だが、ひとりでいたくない状況を作り上げたのはまぎれもない日吉である。
 ちなみになまえは日吉の家に泊まったことがなかった。今まで実家に暮らしていたのだ。当然である。(余談ではあるが、夜にお酒を飲みそのままホテルへ……ということは何度かあった。もしくは、一人暮らしのなまえの部屋に日吉が泊まるということも両手で数えきれないほどにある。)

 だが、なまえが日吉の家に泊まるということは初めてであり、なんだか今までとは違うような気がしてしまうものなのだ。
 今日何も用意してないし、明日一限から授業が……ともごもご言い訳を連ねてみたが、やっぱり日吉の言葉には勝てないのだと、なまえは痛感する。

「いいから。泊まっていけよ」

 そう言われては頷くしかない。
 わたし実はMなのかもしれない、となまえはこのとき初めて思ったが、唇に重ねられた熱い体温でそんな考えはすぐに溶けたのであった。


おわり
大学生日吉が一人暮らしをはじめる