さりとて今日も

「お前は…first nameか?」
「何だヴォルフ中尉。知り合いか?」

車から出てきた軍の偉い方を迎え出たところで、聞き覚えのある声が向けられた。ややあって、私はようやく合点が行ったように目を見開いた。
ヘルマン・ヴォルフ。
幼少期住んでいた家の、近くに住んでいた同い年の男の子だ。大きなお屋敷に住んでいたが、何故だろうか、何度か遊んだ記憶がある。
その記憶の彼からはかなり成長した姿に、声をかけられるまで気づかなかった。

「ほう、幼馴染かい。これも何かの縁だ。案内をしっかり務めてくれたまえ」
「畏まりました」

余計なプレッシャーをかけられてしまった…と苦笑いを押し殺し、私は教授と共に彼らを中へと案内した。

__________

研究棟への道中、教授は長官に研究内容の概要を話していた。私は特に口は挟まず、その内容に相槌を打つ。
時折教授からは話を振られるが、特に多くを話すこともなく研究棟へと到着する。
実験サンプル、機材、今後の計画、話は偉い人がまとめるのが常で、私もヘルマン君も特段ついて回るだけで何かをするではなかった。

「お前もこんな研究をしているんだな」
「え、あ…そうですね。一応教授の研究助手ですので」
「単純に感心してるんだ。…幼少期には想像もしていなかったからな」

不意に彼は私に話しかけた。
彼から話しかけてきたのだし、たぶん失礼にはならないだろうと控えめに返答したが、彼は意外にも真っすぐこちらに顔を向けていた。

「帰省した際、どこかの大学へ行っているのだと家の者から聞いたが…まさか医学部だったとはな」
「意外でしたか?」
「いや、道理で数学では勝てなかったわけだと納得したさ」

冗談めかしてヘルマン君は笑った。
こちらこそ意外だ。彼はこんな風に冗談を言う人間だったようだ」

「よし、資金のことは気にせず、研究を続けてくれ」
「ありがとうございます」
「ヴォルフ中尉。行くぞ」
「はっ!」

上司の一言でヘルマン君は軍人然とした彼へと戻った。
そうとう研究内容に満足だったのか、込み入った話し合いを研究室で行うでもなく長官は大学を後にするようだった。
研究棟を出てヘルマン君は車の手配をする。特に待つこともなく、近くに控えていた車が私たちの前に到着した。

「それじゃあ、成果を期待しているよ」
「ご期待のままに」

教授に倣って頭を下げる。ヘルマン君が後部座席の扉を閉める音がして、頭を上げる。
彼は教授と握手をし、その後私に小さなメモを渡した。

「久しぶりに逢えてよかった。今度食事にでも行こう」

それじゃあ、と告げると彼は車に乗り込んでしまった。
見ると彼の電話番号が書かれている。何となく、無碍にするのはどうかと思い、メモをポケットにしまい込んだ。

__________

さりとて今日も、アルバイトは健在である。
私の疲れなど意にも介さず、いつも通りお客さんが来てはパンが売れていく。ようやく日常に戻ってこれたようで、私はどこかホッとした。

「(そういえば、今日はあのお客さんは来ないのかな?)」

長身で綺麗な黒髪の彼は、今日はまだ見かけていない。
毎日来るわけではないので、今日は来ないかもしれない。けれども、どうしてか来店を待ってしまう。

「(いったい彼はどんな仕事をしているのだろう)」

幼馴染が軍人になっていた衝撃からか、ふと彼の仕事が知りたくなった。
どんな仕事をしていても、不思議と頷ける気がするが、これと言った特定の職業が思い浮かばない。
ビジネスマン風の姿は見たことがないが、労働者階級のように日焼けもしていない。

「(あの人は一体…)」

来店を告げるベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」
「やあ、こんばんは」
「あ…いつもありがとうございます!」

落ち着いたテノールの声。自然と気持ちが弾むのが分かる。
穏やかに笑いかけて、そのお客さんは扉をくぐった。

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