その真意は
何時ものように、黒髪の綺麗なその常連さんはいくつかのパンを選ぶとお会計をした。
肩のこわばる偉い人の相手とは違い、少しは心が軽くなった。
「いつもありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう」
ニッコリと、彼のさわやかな笑顔に、ドキリと心臓がはねた。
何故だか、そう、少し雰囲気が違った気がした。まっすぐ見つめられる視線を受け止めきれず、私は彼から視線を外した。
だが、いくら待っても彼は立ち去ろうとはしなかった。
「あ、あの…」
「いや、何だか今日は元気がないな…と思って」
「えっ?」
「よく君とは顔を合わせるからね。あ、もしかして、迷惑だったかな?」
「そんなことないです!その、よく見てらっしゃるなと」
チラリと彼の顔を伺う。
一瞬虚を突かれたように目を瞬かせ、彼は先ほどとは違ってはにかんだような笑顔で頬をかいた。
「あはは、そう言われると…参ったな」
困ったように眉を下げる彼に、新たな彼の一面を見出したようで、また心臓が締め付けられた。
自分ばかりが彼のことを心に留めていたのではないと、何だか勘違いしてしまいそうだ。
「それで、何かあったんですか?僕で良ければ聞かせてくれると嬉しいな」
「いえ、その…」
「もしかして、恋人のこととか?」
「まさか!そんなんじゃないです!」
思ったよりも強く否定の言葉が出た。
驚いた様子の彼にバツが悪くなり、取り繕うように言葉を繋げた。
「その、幼馴染に会ったんです、偶然。もう長い間合っていなかったんですが、軍人になっていたようで」
「それで、食事にでも誘われた?」
「どうして分かったんですか」
「あはは、じゃなきゃそんな風に動揺したりしないだろう?」
「それは…その通りです」
彼はクスクスと笑ってこちらを見た。
いつもの隙の無い挨拶時の笑顔ではなく、彼はこういう風に笑うのだなと妙に感心してしまった。
「で、その幼馴染とはデートをするのかい?」
「デートじゃないですよ」
「彼はデートのつもりだと思うよ」
「そういわれると…、もしかして、揶揄っています?」
甘利にも彼が面白そうにするものだから、ふと言葉に出てしまった。
彼は両手を上げ降参のポーズをしてみせると、「何だ、お見通しか」と面白そうにつぶやいた。
「何時もと違った君の表情が見れて、つい、ね」
「やめてくださいよ…」
「いや、これは本気だよ?僕も君と、そう、お近づきになりたいと思ってたんだ」
揶揄わないでください、と口を切る筈の言葉を繋ぐことができなかった。
確かに何も変わっていないはずの彼の雰囲気が、一瞬で変わった。吸い込まれるような黒い瞳が、熱っぽく私を見つめていた。
カウンターの上に置きっぱなしだった私の手に、彼の大きな手がゆっくりと覆いかぶさる。ゆるく拘束したその手を振り払うことができない。
「ねえ、その男とデートをするのか?」
「食事に行くだけですよ」
「じゃあ、僕とも行ってくれる?」
有無も言わさない圧力がそこにはあった。
どうすることもできず、首を縦に振る私を満足そうに見ると、彼は一歩後ろに下がった。
緊張感が途切れる。さっきの彼の雰囲気は夢だったのだろうか?
「じゃあ、次来る時までにどこへ行くか考えておくよ」
「え、あ、はい」
「それから、僕は結城晃。デートの時は名前で呼んでくれないか、first name」
そういうと、彼は店を後にした。
急なことに頭が働かないが、どうやら私は彼、結城さんとデートをすることになったようだ。
__________
彼女と多少強引に逢引を取り付けた翌日、俺は仕掛けておいた研究室の盗聴器を聞きながら今後の方策について思案していた。
ドイツは間もなく戦争を始めるだろう。戦場はヨーロッパ、相手は英・仏・露といったところか。
日本は十中八九この戦争に一枚かもうとするはず、もちろん英国側の支援という名目で。
「(新型兵器の仕様および製造場所は既に日本に報告済み。医療系の技術を掠めとる頃には、ここは戦場か)」
そうなれば彼女も…、とそこまで考え、結城は頭を振った。
優秀さ故に首が締まることなどよくあることじゃないか。自分が一番痛感しているはずだ。
件の新型兵器に関する情報を報告した会議を思い出し、思わずため息が出た。俺ばかりが手柄を立てているようでどうにも彼らは気に入らないらしい。どうしようもないことだ。
「(first nameが軍属の研究医となるならば、協力者に仕立てる)」
胸に感じた違和感を無視し、俺はそう決めた。
『本日の実験の成果です』
『RHの解析は進んだかい?」
『識別制度は問題なく。実践導入できる精度です』
『それは良かった。…ところで、例の特別研究員のことだが』
盗聴器からは教授のゲオルグとあのパン屋の店員、first nameの声が聞こえる。
『受けてくれるなら、1か月後から軍の研究施設に移動してほしいのだが、決心はついたかい?』
盗聴器からは沈黙が流れる。
協力者として仕立てるからには引き受けて貰った方が好都合と思う反面、平穏を手放すという選択肢に異を唱えたい自分もいた。
『申しわけありません』
長い沈黙を破り、彼女はそう言った。
落胆よりも安堵が先に出たことに、結城自身驚きを隠せなかった。
俺は、彼女に平穏に生きてほしいのだ。
何よりも、ただのパン屋に通い続けたその事実こそが真実だったのだ。
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