或る協力者の女
first name・last name。
私はある男の協力者、つまりスパイだった。
その男のコードネームは魔術師と呼ばれ、外で会う時には「結城」と呼ぶよう指示されていた。
「依頼していた件は」
「英国人国籍の男が1件、ソ連国籍の女が1件。要望通り用意したわ」
照明の落とされたバーで寄り添って耳元で会話する様は、外からは恋人同士にしか見えないだろう。
データの入ったマイクロチップを自然な動作で胸ポケットに入れた。魔術師はチラリともそれを見ずに自然な動作で私の腰を抱き寄せた。
「追加の依頼だ」
私は物心ついた時から優秀だった。
父親はソ連のスパイだったらしく、そうとも知らない母はパタリと帰らなくなった夫に嘆き衰弱して、ついには死んでしまった。私が9歳の時だった。
当時の自分が気づいていたことを、なぜ母は気づかなかったのか驚きを隠せなかったが、私の方がおかしいのだと気づいたのは13歳になったころだった。
それから私は様々な国を転々とした。もちろん父の置き土産…ソ連の追ってから逃げるためだ。
当時の無邪気な私は知らなくていいことを沢山知ってしまっていた。
「人使いが荒いのね」
逃げ延びる過程で手に入れたのが、他人の国籍を奪うもしくは偽装する能力。
そしてその能力のお陰で、この男に出会った。
「先日頼んだ日本人国籍はもう使わない。本人がいるなら返しておけ」
「あら、あれは一から作ったものよ」
「フン、なら問題ない」
黒曜の瞳が私を射抜く。瞳に映る私はまるで恋する少女のようだった。
私は魔術師の優秀さに心を奪われていた。
祖国を持たない私はただ自分が生き残るだけで十分だった。それなのに危険な橋を渡るのは、この男の優秀さを間近で見ていたいという、恋にも似た感情に囚われてしまったからだ。
「愛しているよ、first name」
先ほどまでの近い距離ではなく、魔術師は私を見つめてそう言った。
報告は終了、ここを立ち去るという意味だ。
なぜよりにもよって、こんな言葉を選ぶのかと思ったが、彼なりの私への飴なのかもしれない。
離れがたい気持ちと、彼から愛していると聞きたい気持ちで、私はいかようにも動けなくなってしまっているのだから。
「私も愛しているわ、結城さん」
これが最後かもしれない、いつもそう思いながら同じセリフを言葉にする。
次の逢引は、この場から帰る際の手のつなぎ方、指の絡め方で指定される。
彼が私の手を取り立ち上がった。ホッとする気持ちを抑えて私は自然な演技で彼の腕を組んだ。
__________
外は冬に差し掛かった季節に相応しく、少し肌寒かった。
絡め取っている腕から人肌の体温が伝わり、化け物じみたこの男も、実は人間なのだとなんだか不思議な気持ちがした。
何も言わず2人は黙って夜道を歩いた。街灯の明かりが照らす魔術師の横顔は、カバーを被っている時よりも一層格好いい気がする。
「そんなにジロジロ見るな」
「あら、そんな口調じゃ誰かに聞かれたら困るわよ」
「尾行者どころか、酔っ払い1人いない。問題ないさ」
普通協力者との接触はもっと素早く済ませるか、見知らぬ他人のふりをするのが定石だ。
こうやって時間を過ごし、カバーと違った一面を見せてくれるのは、私の優秀さを認めてくれているようでうれしかった。
「今日は何時もより長く構ってくれるのね、結城さん」
「フン、門限でも差し迫っているのか。お嬢さん?」
「…お嬢さんはやめてよ」
不意に彼は一件のアパートメントの前で立ち止まった。
まだ次回の接触方法についてサインがない。
さっきまで浮ついていた心が一気に冷え込んだ。
「…これが、最後なの?」
思ったよりも声が震えていた。
魔術師は何も応えない。沈黙の時間がずっと長く感じた。
早く応えて。そうでないと、みっともなく泣き出してしまいそうだ。
答えを聞くのが怖くて、私は彼に背を向けた。いや、向けようとした。
「…くくく」
「ちょっと、何、笑ってるのよ」
「いや、お前がそんなに俺のことを好きだとは予想していなくてな」
「…はあ?」
いかにもまだ笑いを堪えきれていない魔術師は、引き留めるために掴んだ私の手を強引に引き寄せた。
温かい体温が私を捕らえる。
他の誰かにこんな扱いをされれば戸籍事抹消してやる筈なのに、彼が相手だと私の心は酷く高揚するだけだ。
手持無沙汰になった両手を背中に回すと、彼は満足げに耳元で笑った。
「"恋人"をいつも家に帰すのは目立つと思わないか?」
「え…、それって」
「明日の朝、この国を発つ。さっきお前に用意させた国籍を使ってな」
事態が呑み込めず彼の顔を覗き込んだあと、文句を言おうと開いた唇は、彼の唇で塞がれてしまった。
いくら私が結城に惚れているからと言って、プライドは高いのだ。絆されるものかと抵抗するが、背中から結城に拘束されているためビクともしない。
「…っ、ちょっと、ん…、っ」
何だとばかりに結城が視線だけを送ってくる。
腹が立つが、全く抜け出せそうもないので仕方なく私は人睨みした後、結城のさせるがままに体を預けた。
満足そうに彼は舌を絡めて存分に蹂躙した後、バードキスを一度してようやく離してくれた。
「さあ、部屋に入ろう」
私への意思確認はない。
何て自信家な魔術師だろうか。今ここで頬の一つでも殴ってやればどんな顔をするだろう。
そう思う一方で、やはり私の心は温かい思い出溢れそうなのだ。
何時か分かれると覚悟していた彼が、自分を選んでくれた。そう、私は確かに彼に恋をしていたのだ。
novel top