ハロー、昭和の皆さま

地上にでると、そこには一面の昭和風景画広がっていた。

21世紀。先進国として発展した日本のど真ん中、東京。
私はそこで大勢いる社畜の1人として働いていた。そう、はずだったのだ。
何時もの通り満員電車から押し出され、地下鉄から地上へと階段を上ると、見慣れた高層ビルはなく、突き刺さるは懐疑的な視線、視線、視線。
私は脱兎のごとく逃げ出した。

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「おかえりなさいませ、風戸さん」
「ああ。何か変わったことは」
「特に何も。訪問者もいらっしゃいませんでした。夕食を用意していますが、もうお済ですか?」
「いや、用意してくれ。一人連れがいるがそいつの分も用意できるか?」
「承知しました、すぐに」

何やかんやあり、私は風戸哲正なる人物の屋敷に住み込みで働いている。
成り行きは簡単。某ジブリ映画のように「ここで働かせてください」と頑として譲らなかった結果である。当初の私は明日を生きることすらできない身だった。本当に申し訳ない。

「失礼します。お食事をお持ちしました」
「ああ、すみません。急な訪問ですのに…」

風戸さんの連れてきた男は、すまなそうに眉を下げながら私の運んできた膳を受け取った。
中々聡い人のようで、私の食事を代わりに出したのではと思っているようだ。まあ、その通りなのだが。

「名前、こいつは蒲生次郎だ。俺の部下として働くことになった。しばらくはウチで生活することになる」
「蒲生です。よろしくお願いします」
「ご丁寧に…。私は名字名前です。よろしくお願いします」

丁寧に頭を下げた後、もう一度じっくりと男、蒲生の顔を観察した。
なるほど、ウチに住み込む風戸さんの部下と言うことは、例の諜報員養成所の候補生と言うことなのだろうか?
いつか「怪しい奴め!」と後ろから刺されないように気をつけなければ…。

「名字さんは、風戸さんの奥方ではないのですか?」
「え、いやいや、まさか」
「よく観察しろ。こいつはただの使用人だ」

素知らぬ顔でそう返しながら、風戸さんは既に酒を煽っていた。
さりげない仕草で杯に酒をつぎ足す。こういうところは社会人経験の賜物だ。

「そうですか。とても可愛らしい方なので、てっきり風戸さんの良い人かと」
「あはは、お世辞がお上手ですね」

さわやかスマイルを浮かべる蒲生さんの言葉を、社会人経験が脊髄反射で応えた。
蒲生さんは気にしたそぶりもなく「振られてしまいましたね」と肩をすくめた。
軍人さんと言うのはもっとお堅い人かと思っていたが、存外気安い人なのかもしれない。

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名字名前。
ここ最近で風戸中佐の元に住み込みで働き始めた女。
いくら軍人精神が抜けないとはいえ、諜報機関の必要性に気付く程度には頭の切れる男が、いったいどうしてこの女を使用人として迎え入れたのか。
これは「風機関」の蒲生次郎としても、「D機関」の蒲生次郎としても気になる所であった。

「おはようございます、名字さん。お手伝いしますよ」
「蒲生さん、おはようございます」

彼女は丁度、俺たちの朝餉を運ぶところだった。
昨日も思ったが、料亭の仲居でもないのによくもまあバランスよく運ぶものだ。

「すみません。それではこれを運んでくださいますか?私は風戸さんの背広を用意に行きますので」
「分かりました。いってらっしゃい」

服の用意まで任せられるとは、中々信頼を得ているようだ。
手元の配膳に視線を落とす。昨日もそうだが、毒も入っていないだろう。
膳を運びしばらくすると、名前を連れだって風戸が姿を現す。その背広も彼女に選ばせたのかと思うと、何だか妙な心地が胸に広がった。

__________

それから俺は、彼女の素性を徹底的に調査した。
後ろ暗いことがあって他国の協力者にされるなど、冗談ではないと判断したためだ。
だが、それは意外な形で裏切られた。何もない。文字通り経歴が真っ白、何もないのだ。

「いったいどうなっている…。周囲の住民を改めても名字の苗字で最近家から出た女などどこにも…」

陸軍が保有する住民台帳を片っ端から調べながら、俺は独りごちた。
風戸から指令された偽名か?だとすれば彼女も風戸が指導する諜報員の1人と言うことになる。
だがあの天保銭信者の風戸が女を真っ先に起用するとは考えずらい。

「全く…、こうなれば本人から攻めるしかないか」

女を協力者に仕立てるのも、チェスと同様。
少しずつ追い詰め、最後に王手をかければそれで終了だ。
住民台帳を元の棚に戻すと、蒲生はわずかに口角を上げた。自らのサディスティックな部分が火をつけられるのを感じた。

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「この花、名字さんにと思って。受け取ってくれますか?」
「今日のお料理もおいしいです」
「あの、良ければ名前さんとお呼びしてもいいですか?俺のことも次郎と呼んでくれると嬉しいです」
「俺の背広も名前さんが選んでくれませんか。ね?」
「週末…もしお時間あれば映画でも、どうですか」

何だかおかしなことになってきた。
営業スマイルで毎度躱しているが、何が心の琴線に触れたのか、蒲生さん、―ああ、次郎さんか。から熱烈なアプローチを受けている。
ここで舞い上がってはいけない。何というか、営業時の本能と言うか、どうにもそれが本心でないように感じてならないのだ。
かといって狙いも分からないので頭を悩ませる毎日を過ごしている。彼は一体どうしてしまったのか…。

「名前さん、ここに居たんですね。洗濯物なら俺も手伝いますよ」
「次郎さん…、そんな、せっかくのお休みなんですから、いいんですよ。私の仕事ですし」
「俺が名前さんと一緒に居たいからです。終わったら一緒に喫茶に生きませんか?最近美味しいと評判のケーキを出すお店を聞いたんです」

私の返事など気にしないで、背の高い次郎さんはさっさとシーツを干してしまった。
腕まくりをしているせいで、筋肉質な腕が太陽の光で一層まぶしく見える。

「2人ですると早いですね」
「結局お手伝いしていただいて、ありがとうございます」
「とんでもない。貴女とデートするためですから」
「そういうことを軽はずみに言わない方がよろしいですよ」

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俺の意に反して、女は全く俺に落ちる気配がなかった。
商売女でもない限り、女は大抵男遊びなどしていないので、甘い言葉をかければ多少なりとも心を傾けるものだ。
だが、一向になびかない彼女に、最近はあからさまに言い寄っているにもかかわらず、結局毎回はぐらかされてしまう。
初めこそ余裕な態度であったが、絶対に落として見せるという意地が蒲生を突き動かしていた。

「美味しい!次郎さん、苺ですよ!わぁ…まさかこの時代で食べられるなんて…」
「それは良かった」

本当にそれは良かった。
こんなにあからさまに破顔してくれれば、思わず達成感さえ感じると言うものだ。
自身の賢明なアプローチよりもケーキ一つが軍配を上げ、些か屈辱を感じなくはない。しかし、名前のおそらくは風戸にも見せていない笑顔を独り占めできている優越感に、自然と蒲生の口角は上がった。

「良ければ俺のも上げますよ」
「え?いや、それは…うーん」
「遠慮しなくていいのに」

彼女が最後まで迷っていたケーキを選んで注文したんだ。まさか気づいていなかったのだろうか…。
誘惑には逆らえない様子で考えていた彼女は、ふと閃いたようにこう言った」

「そうだ、一口ずつ交換しましょう!」

やはり彼女は少しおかしい気がする。
名案だとばかりに、さっそく彼女は自分のケーキをフォークに刺してこちらに差し出してくる。
人前でこんな破廉恥なことが許されるのか?なぜ彼女は全く疑問を持っていないんだ?
駄目だ。ここで時間を食って周りに気付かれれば不要な注目を集める。スパイは目立たないことが鉄則だ。断るのも負けた気がして却下だ。

「これも美味しいですね」

俺の明晰な頭脳はとっさの判断を正確に下し、ケーキを口に仕舞い込んだ。
味は良く分からなかった。

「ふふっ、じゃあ次郎さんのも一口ください」

そうだ、そうだよな。俺もするのか。そうか。

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大東亜文化協会。結城中佐の執務室には、中佐、蒲生、そして風機関に潜入中の神永が揃っていた。

「報告しろ」
「風戸中佐率いる風機関は間もなく設立されるでしょう。近日中にもウチとこぜり合わせることが予想されます。また名字名前の調査は難航中。親族情報など一切出てこないことから、裏があることは確かです」
「本人からの収穫もなしか」
「すみません」
「休日に外出する仲じゃないのか。俺の教えた喫茶に行ったんだろ〜?」
「……チッ、店のケーキは美味しかったです」
「馬鹿か貴様ら」


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