月やこの世の鏡なるらむ
私は生まれた時から他人とは違った。
他人よりも早く読み書きができ、たいていの学問は直ぐに師範を追い越すありさまだった。
父は私が女であることを残念がっていたし、弟は私と比べられて幾ばくか肩身の狭い思いをしていた。
でも弟のことは大切だったので、少しだけ少しだけと宮廷仕えの仕事の手伝いを裏でしていたら、そのせいで出世してしまい後には引けない状態となってしまった。
つまるところ鬼舞辻家との縁談は、名字家と邸宅がちかく、夫となる無惨様が病死後は実家に帰ってこれるという名字家の思惑と、病気がちな息子の厄介払いをしたいという鬼舞辻家の、なんともはた迷惑な理由で持ち上がったものであった。
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「それに、何だこの文は。貴様の父からだというが、これはお前が書いたものだろう」
床に臥せたその方、私の夫となる男、鬼舞辻無惨は忌々し気にそう吐き捨てた。
憎々し気な無惨様とは相異なり、私の胸に溢れたのは「歓喜」に他ならなかった。初めて気づかれた。今までどんなに宮中で持て囃されている賢き方にもバレなかったのに。
初めての体験に胸がときめく。口角が上がるのを止められず、私は思わず下を向いた。
「はっ、何とか言ったらどうだ。大方、私のような病弱に手紙を書くのも惜しいと言われたのだろう。お前も運がないな」
「ああ、お機嫌を損ねて申し訳ありません…。今まで誰にも見破られなかったものですから、つい、嬉しくなってしまいまして」
「…なんだと」
「なんて素敵な殿方なのでしょう…右も左も阿保ばかりで見合いを断り続けてきましたのに…!こんなに頭の良い、しかも美丈夫の方にお会いできるなんて!」
女中が席を外していてよかった。そうでなければ私はとんだ痴女扱いだろう。
いきなり話し始めた私に呆気にとられていた無惨様を無視し、他人行儀にとられていた距離を一気に詰めた。
布団の上に置かれた手を握ると無惨様がギョッとしたのが見えた。予想外でしたか、可愛らしい。
「改めまして、私、名字名前と申します。どうぞ、貴方の妻にしてくださいまし」
困惑する無惨様の目をしっかり見つめ、自然と口がそうついていた。
勢いで抱きしめた無惨様の手に頬ずりすると、我に返ったように無惨様は手を引き抜いてしまった。
「貴様、私に触れることに抵抗がないのか」
「何故?…ああ、初めてお会いしたのにはしたないですね…申し訳ありません」
「違う!…チッ、病がうつるとは思わないのか」
「貴方のそれは感染るものではないでしょうに。何故そんなことを」
そこまで言って、ああ、女中が部屋に寄り付かないのはそういうことかと思い至った。
なに、良くある阿呆の思い込みだ。感染りもしない病を勝手にあれこれ想像して、まったく無意味な。
無惨様が信じられないものを見る目でこちらを見ている。
頭の良さに嬉しくなって遅れて気づいたが、お顔も本当に美しい。日に当たっていないために肌は青白いが、それが影をうつし、妖艶な美しさがある。
「信じられん、人はたやすく嘘をつく」
「私は本当に貴方と結婚したいと思ったのです。どうすれば信用頂けるのか…」
「ならば私に口づけてみよ。本気で病にかからっ」
女は度胸ですよ、無惨様!
触れた唇は存外柔らかく、やってしまってから途端に恥ずかしさで心臓が早鐘を打ち始めた。
しかし、ここで引いては説得力がなくなる。薄く目を開けると、無惨様は驚きで目を見開いていた。
なんだかそれが普通の人間のようで、この人の余裕を乱したのが自分なのだと思うとどんどん愛おしさがあふれていった。
時間にしては一瞬だったかもしれないが、私にとってはたっぷり時間をかけ、無惨様の唇を堪能してから距離を話した。
無惨様の唇に私の紅がうつっていて、それを見るとこの場にいることに耐えられなくなった。
「私よりも頭の良い方の妻となるのが夢でした。貴方様のような聡明な方と夫婦になりたいのです」
「な、」
「貴方の病も、私が薬学を学んで何とかしてみせます」
「……、」
「ですから、その、…良いお返事をお待ちしております!」
「おい、待て!」
いつもは良く回る頭がふわふわして限界だった。
後ろで無惨様の声が聞こえたが、追ってはこなかった。
鬼舞辻邸の前には既に帰りの牛車が到着しており、私は挨拶もそぞろにそれに乗り込んだ。
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それが今からちょうど一年前の出来事。私と無惨様の馴れ初めである。
あのあと、やきもきしながら返事を待っていると、意外にも次の日には結婚を求める文が届いたのだった。
「名前。何をぼんやりとしているんだい」
「無惨様!…うふふ、私たちの出会いを思い出しておりました」
「…ああ、ちょうど一年ほど前だったか」
縁側に腰かけていた私の隣に無惨様が座る。
今日はどうやら体調がいいようだ。そよ風に庭の木々の葉が揺らめき音色を奏でる。チラリと無惨様の方を見れば、彼もまた私のことを見ていたようだ。
「どうかなさいましたか?」
「いや、この一年、お前は良くも飽きもせず私の隣にいたものだと」
「無惨様の隣は楽しゅうございますよ」
「そうは言っても床に臥せてばかりで退屈だろう」
風に揺らめいていた私の髪を、無惨様が指で遊び、耳にかけた。そのまま無惨様の大きな手が私の頬を撫でる。
他人の前では常に厳しい顔を見せているお方が、私にだけ優しいまなざしを向けてくださる。
愛玩動物さながら、私はその手に頬を摺り寄せる。知れば知るほど無惨様は素晴らしい方で、私は日々、少女のように胸を高鳴らせるのだ。
「こうしてひと時触れ合えるだけで、心臓が壊れてしまいそうです」
「駄目だよ、私よりも先に逝くなんて許さない」
無惨様の胸の中に引き込まれる。
床に伏している時間が長いため一般的な男性より線は細いが、それでも十分私よりも大きな体にすっぽりと埋まってしまう。
耳元で低く心地よい声が「私を置いていくなんて許さないよ」と何度も繰り返す。
ここ最近体調が悪くあまり触れあっていなかったせいか、無惨様の匂いを肺いっぱいに吸い込み、彼の声で脳髄を揺さぶられる感覚にめまいを感じる。
大丈夫です、私も貴方が大好きです。置いてなど行かないし、置いていかせもしません。
「無惨様、私、この時間が永遠に続けばよいと、そう願ってやみません」
「私もだよ。早く健康な体を手に入れて、名前ともっと長く時を過ごしたい」
穏やかな声だが、私にだけ気づける悲しさを孕んだ音だった。
今日は具合が良いが明日は分からない。無惨様の体調は一向に回復しない。
薬学をどれだけ学んでも、今の薬では生まれつきの病弱さを回復させることはできない。
私も、それに無惨様もそのことは分かっている。だからこそ悲しい。
「名前、こちらを向きなさい」
「…?」
「目を閉じて」
言葉と共に無惨様の唇が降りてきた。風に吹かれて冷たくなっていた頬に一気に熱が集まる。
軽く一度離すと、唇を開くようにと促し無惨様の舌が入ってきた。
ゾクゾクと興奮が脊髄を這いあがてくる。無惨様の愛情が伝わってきて溢れそうだ。
舌同士がふれあい、いたずらに絡めとられ、くすぐられる。鼻に抜けるような甘えた声が自分とは別人のようで、時折漏れる無惨様の吐息に色があり、私で興奮してくれることがたまらなく嬉しい。
「…ん、……っ」
「………ちゅ」
最後に一度触れるだけの口づけをし、ようやく解放された。
熱をもった脳では考えることも億劫で、ただぼんやりと無惨様の美しい顔を見つめ返した。
「…くくっ、確かに、私の病がうつるのであれば、お前はとうの昔に私と共に床に臥せているか」
「はぁ…ん、だから、感染らないと言っているではないですか」
「然り、合理的で好ましいよ」
再び胸の中に引き込まれてしまった。
頭上からはクツクツと愉快そうに笑う声が聞こえてくるので、まあ良いかと考えるのをやめる。
「今宵は月がきれいだな」
「ええ、まるで無惨様のようです」
「望月のかけたる…お前と共にそのようにありたいものだ」
薄く弧を描いて無惨様が笑う。私の方を抱く手に少し力が入った。
無惨様の着物にすがり、私は首を持ち上げた。美しい月、そして愛おしい方。
無惨様の瞳に映る月が、私にとっては何よりも美しいものだと、そう思うのだ。
見る人に 物のあはれをしらすれば 月やこの世の鏡なるらむ
(月こそ、人間にこの世の美しさを知らしめる 鏡なのだろう)
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