欠けたることも なしと思へば
あの月夜の邂逅から一変し、私の体調はまたさらに悪く転んでいった。
医者から出される薬は全く効く様子も見せず、妻は毎日心配そうに胸を痛めており、自分のどうしようもなく弱い体にいら立ちが募る。
「(私はこのまま死ぬのだろうか…名前になにもしてやれぬまま…)」
今日名前は名字邸にて宮仕えの弟の仕事を手伝いに行っているため、屋敷にはいない。
夫婦となってすぐに名前はこのことを私に伝えてきた。弟の仕事の難しい部分は名前が肩代わりしているのだと、なので月に一度は帳尻を合わせるために実家に帰らせてほしいと。
「そんなことは予想していたから気にするな」というと、名前は頬を染め「そうですよね」と嬉しそうに返事をした。
さて、そんな愛しい妻がいないのであれば、体調も悪いのに意識を保っている理由もない。
そのまま目を閉じようとしたとき、遠くで微かに声が聞こえた。下女達の声だ。
「奥方様はまた名字邸に行かれたらしいわよ」
「無理もありませんわ。せっかく嫁いで来ても、あのように床に伏してばかりでは」
「存外、奥方様も名字家では厄介者であったのかもしれませんわ」
「そうでなければ、このような所に嫁がされなどしないというもの」
「もっとましな男もいたでしょうに」
血が沸騰するような怒りにかられた。自分への侮辱も、名前への侮辱も、何より、自らが自覚してやまない柔らかい部分を切り裂かれたような、耐えがたい屈辱だった。
眠気などとうに覚めてしまった。私をこれほど不快にさせた下女達は、何の気もなくどこかへ行ってしまう。
赦せない、殺してやりたい、
「…っ、げほッ!、…げほっ!」
興奮したからか咳が止まらない。息が上がる。ヒューヒューと耳障りな音をたて、苦しいのに空気は体に取り込まれない。
苦しい、苦しい、私をこんな目に合わせて、赦せない。
ドタドタと騒がしい音と共に襖が開けられたのが視界の端で見えた。今日は検診の日だったのか、いつもの医者が慌てた様子で私に駆け寄る。
私の意識はそこで暗転した。
__________
ぼんやりと意識が覚醒していく。
薄く目を開くと既に夜に差し掛かろうとしているようだった。
「…、…ぁ」
「お気づきになりましたか。白湯を、ゆっくりお飲み下さい」
隣にいたのは期待した妻の姿ではなく、かかりつけの医者であった。
少しの落胆と、妻に心配をかけずに済んだことへの安堵に溜息をついた。
医者は何を勘違いしたのか、お気を落とさずにと見当違いな慰めを言いやる。
「鬼舞辻様、試作ではございますが新たな薬をお持ちいたしました」
「その言葉は聞き飽きた。何を試そうと一向に良くならんではないか」
「申し訳ありません」
「次はなんだ?高麗人参か、牛金か、それならば既に我が妻の進言で試しておるわ」
胸がチクりと痛む。
私のために必死で薬学を学び、入手困難な薬を何とか手に入れては、それでも私の身体は良くならず、そのたびに悲痛な面持ちを浮かべるのだ。ああ、名前。お前は何も悪くないのだ。だから笑っていておくれ。
「青の彼岸花さえ調合すれば完成するものなのですが」
「青の彼岸花?」
「はい、どうか、未完の薬ですが試しだけでもよいので」
渡された丸薬をしげしげと眺める。青の彼岸花など聞いたことがない。
もしかしたら、そう期待する自分もいる。期待するのは無駄だと思う一方、もしこれで健康体になれれば名前も喜ぶのではないか。
夫婦らしいことは何一つまだできていない。
共に春の桜を見て、夏の夜風を感じ、秋の紅葉を愛で、冬の寒さに身を寄せ合う。そんな当たり前を――。
得体の知れない薬を私は浚った。
これが運命の転機となる知る由もなく。
__________
乾いていた。
喉が、身体が、全身が乾いていた。
飢餓とはこういうものなのか。目の前に御馳走がある。あれは、何だ。
「よこせ」
口いっぱいに赤が広がった。こんな御馳走は初めて食べる。これが生きているということか。
目の前の食事が悲鳴を上げる。うるさいので喉を食いちぎった。今まで私の横たわっていた布団に赤い染みが広がる。まだ足りない、まだ、まだ、まだ。
「いかがなさい…ひっ!?きゃぁあ!!」
「騒ぐな、煩わしい」
異変に気付いた下女が瞠目し悲鳴を上げる。
耳障りな音にまたしても首を飛ばした。庭に首が転がり、不格好な体制で女は倒れた。
女の肉は男のそれよりも柔らかく、忌々しい女だったが初めて長所といえる部分を見つけた気がした。
「……そういえば、此奴のほかにも私を侮辱していた愚か者がいたな」
目を閉じ音に集中する。異変を感じてこちらに集まってくる足音が聞こえる。
その中に女のものと思われる足音が一つ、二つ。殺してやろう、全て喰らってこの乾きを満たしてしまおう。
「なんだっ、これは…無惨様よご乱心か!?」
「貴様は私が間違っているとでもいうのか」
「ひっ…血がっ、食べて」
「愚か者め、死に値する」
身体の使い方はなぜ分かっていた。武器を持った男たちを軽々といなし、恐怖にゆがんだ顔が何よりも愉快だった。
今まで私を見下してきた者たちが、今は私にひれ伏している。
逃げようとするものは足を砕き、叫ぶ者から食い殺した。屋敷中の全てを殺し終わったころ、ようやく私の渇きは癒えていた。
其の頃には空は白み始めており、朝日が屋敷を照らし始めていた。
「誰か、おりませんの?」
ドクリ――。
私は目を見開いた。妻が帰ってきた。周りには赤の死体、言い逃れのしようもない。
甘く、今しがたまで食い殺したどれよりも美味しそうな匂いがする。自然と牙が伸びる。きっと我が愛しの君は、だれよりも私の渇きを満たす味をしているのだろう。
ちょうどその時、足元に朝日が差し込んできた。本能的に身を引く、致命的なものであると途端に理解した。
光に促されるよう、私は自室である床の間に後退せざるを得なかった。
「ひっ…血、血が……無惨様…無惨様!どこにいるのですか!」
妻の足音がこちらへと向かってきた。
お前はこんな惨劇を見ても私を案じてくれるのか。
香しい匂いはどんどん濃くなって、脳髄の深いところが溶けるような錯覚を生む。
「無惨様!」
襖が開いてしまった。
光から身を隠すよう、私は布団の中へもぐりこんだ。
「…無惨、さま…返事を…」
「……すまないが、襖を閉めてはくれないか」
「良かったっ…生きてっ」
涙ぐんだような名前の声が聞こえる。光が遮られたのを感じ、私はゆっくりと布団の外へと出た。
流石の名前も気が動転しているのか、口元や手を血で染めた私を問いただすこともなく、私の頭を抱きかかえる。
「無惨様…っ、ご無事で…よかったっ」
我慢できないほど甘く誘惑する匂いが肺いっぱいに広がる。
名前の背中に回した腕に力が入る。
このまま欲に負けてはだめだ、早く食べたい、殺したくない、すべて私のものにしたい。
理性の糸が一本一本切れていくのが分かった。獣のように呼吸が上がり、私の牙は今にも噛みつこうと名前の首元へ吸い寄せられる。
「きゃっ、む、無惨様?…ゃっ」
何とか気を紛らわせようと首筋を舐めて、最後の理性の糸が切れてしまった。
「―――ごめんよ、名前」
ぶちり、肉の裂ける感触が牙越しに伝わった。
妻の声にならない悲鳴が耳朶を打つ。口内にはこの世の至極を思わせる甘美な味わいが広がった。
妻は抵抗しなかった。きつく、私の衣を握っていた手の力がだんだんと抜けていく。ゆっくり時間をかけて味わった血に勢いがなくなるころ、ようやく理性を取り戻した私は取り返しのつかないことをしてしまったと気づいた。
「…、む…ざ……さま」
「ち、ちがう、違う、違う!死なないでくれ、私はっ」
「……、…ぁ」
「血が…っ、ああ、」
段々と光を失っていく瞳に焦りが募る。
血が、私の血を与えれば…、
「赦してくれ…、どうか」
すがる気持ちで自らの腕を切り裂き、あふれ出た血を名前に口移した。
なぜそうすればいいと思ったのか、私自身も分からなかった。祈る気持ちで抱きしめる。
「グっ、ああっ…ぁっ、がっ」
「名前、名前!」
先ほどまで死に瀕していたとは思えな腕力で名前が暴れだした。
傷がみるみる再生していく。それと同時に爪が伸び、着物を切り裂いて私の背中を傷つけた。
近くに転がっていた医者の死体を引き寄せ、暴れる妻に馬乗りして無理やり口に押し付ける。迷うそぶりを見せたのは一瞬で、なされるままに名前は遺体を咀嚼し始めた。
「いい子だ…お前はこれで私と同じ存在となった。嬉しいよ、これからはずっと共にあれる」
私たちはようやく始まりに立てた。
私と名前は限りなく完璧に近い存在となった。
「あとは太陽か」
外ではもう太陽が昇っている。
これでは外に出ることができない。
「一緒に太陽も克服しよう。そうすれば私たちは永遠に一緒だ」
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
(この世界は、あの満月のように『完璧な私』のものだ)
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