早く目覚めさせて
これはもしや、試されているのか。
暖かい日差しが張り出窓から差し込んでいる午後。穏やかなひと時を過ごしているこの場所は、恋人である黄瀬が住むマンションである。
名前は先日買ったばかりの分厚い推理小説に浸かっており、ただでさえ静かなこの部屋に響く時計の秒針の音すらも耳に入らない、という程夢中になっていた。現在はちょうど真ん中、主人公が事件の内容を整理し始めたあたりだ。張り巡らされたいくつもの伏線を自身の頭の中でもまとめつつ、一息つこうとパウダーブルーの栞を挟み、パタンと本を閉じた。推理から意識を解放させれば、耳を通る微かな寝息。本をテーブルに置いて隣に視線を移すと、ソファーですうすう寝息をたてる黄瀬が目に入った。
今日はお互いに読書タイムを設けていたのだが、彼はソファに寝転がって読んでいたせいかいつの間にか眠りに落ちてしまったようで。胸に乗っていたフォトエッセイをそっとどかし、名前は黄瀬の顔を覗き込んだ。相変わらず睫毛が長く、肌も艶やかで見目麗しい。世の女性が羨む程の美貌をこんな間近で見ると、思わず息をするのも忘れてしまいそうだった。まじまじとその端正な顔立を眺めているうちに、名前の双眸はある場所へとたどり着く。
それは艶やかな唇。普段そこをじっと見るなんてことはしないけれど、完璧と言ってもいい彼のパーツのうちのひとつなのだから、当然綺麗なのだろうとは思っていた。
いつもこんな唇とキスをしているのかと思えば、ジワリと熱が込み上げてくるのを感じ、同時に自分の唇の手入れを怠らないようにせねばと心に言い聞かせた。
そういえば、今まで自分から彼にキスをしたことがあっただろうか。名前は足を崩して床に膝をついた。
勿論したくないわけではない。ただ、どうしようもない恥ずかしさと申し訳無さが相まってなかなか行動に移せないだけなのだ。彼は、考えたことがあるのだろうか。寂しいと思ってくれることがあるのだろうか。それとも、キスをしてこない恋人に物足りなさを覚えているのだろうか。
ぼうっと一点を見つめながら、名前はずんずんと掘り下げていく。虚心坦懐に向かっていくことができたなら、どんなに良かっただろう。けれど、どんな形であっても彼はいつだって太陽のような笑みで、大きな腕を広げて受け入れてくれるのだ。名前の知ってる黄瀬涼太は、そういう人だった。
眠っていて気づかないのをいいことに、名前は静かに黄瀬と距離を縮めていった。
「ごめんね、涼太」
今にも霞んで消えてしまいそうな声でポツリと呟き、そのままゆっくり唇を近づけていく。心の振動が、血管を経由して唇にも伝わる。
――今はこれで、許してください。そう胸中で繰り返した。
「…なんで謝るんスか」
寝ていたはずの黄瀬から突如飛び出した言葉に、名前は目を丸くした。そのタイミングの良さは、もしかして狸寝入りでもしていたのかと疑いを持ってしまう程だった。互いの顔の距離は僅か三センチほど。息がふれあい、瞳に散りばめられた光がはっきりと見える。溢れ出る羞恥に耐え切れず距離を取ろううとした名前だったが、その背中はいつの間にか黄瀬の左腕にガッチリと捕らわれており、今の体勢を維持する他なかった。観念した名前はこれ以上刺激を受けないよう、黄瀬の顔から目を逸らした。
「ねぇ」
「…いつから起きてたの」
「さっき」
「さっきっていつ?」
「秘密」
そう言って目を細め、柔らかい笑みを浮かべた黄瀬は、空いていた右手を名前の頬へと伸ばした。骨ばった男を感じるその手で優しく触れられてしまえば、全身にじわりと熱が浮き出てしまうのが分かる。
「俺に謝ったの、なんで?」
「そ、れは…私が自分から涼太にキスすることないから…その、いつも私ばっかり貰ってて申し訳ないというか…なんというか」
「名前っちってば、そんなこと考えてたんスか。可愛い」
「なによそれ…馬鹿にしてる?」
「馬鹿になんかしてないっスよ。てか、可愛いのはいつもッスけどね。ほら、そうやってすぐ顔真っ赤にするとことか。かーわいー」
「う…」
真っ赤なのは自分でも痛いほどに分かっていた。名前の羞恥心は様々なところから来ているが、根元を探れば原因は全てこの男なのだが、責めることができないのが悔しい。
名前の頬を至極愛おしそうに撫でる黄瀬の手に、ドクドクと脈打つ音が伝わってしまいそうだった。
「で、今日は名前の方からくれるんスか?」
「なにを?」
「なにって、キス」
「…涼太がそのまま寝てたらあげたのに」
「そんなこと言わないで、目ぇつむっとくから」
「そういう問題じゃない!」
「嫌?」
いかにも寂しいといった表情で言う黄瀬に、名前の良心にチクリと針が突かれる。この蠱惑的な表情は一体どこで身につけてきたのか。初めから名前の中に断るという選択肢などないということを分かっていて尚問いかけてくる彼のいやらしさに心をかき乱される。嫌だなんてとんでもない。こんなにも好きで好きで、今にも溢れ出しそうな思いが、心臓の鼓動に育てられていくというのに。
「…わかった。目、閉じて」
まさかこんなに緊張するとは思ってもみなかった。微かに震える手は黄瀬の大きな手にそっと包まれる。ハッとしながらも、綺麗な微笑みを浮かべた黄瀬が目を閉じたのを確かめた名前は、そっと彼に唇を寄せる。軽く合わせただけなのに、篭った熱に焦がされそうな感覚に襲われた。
やっと埋まった三センチは途方もない長さであったと、心の片隅で息をひとつ吐いた。《後書き》テキスト
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