二十一時、予定は逢瀬
誰だって、他人に言えない秘密のひとつやふたつを胸に抱えて生きている。
黄瀬も例外ではなく、そのうちの一人だった。もし誰かに知られたら生きていけないという程のものではないが、こうしてひた隠しにするのはこの秘め事が自分一人だけのものではないからだ。
八時四十五分。海常高校の体育館には、黄瀬一人だけが残っていた。ボールが床を叩く音が浮き彫りになって聞こえる。流れる汗をTシャツの裾で拭うと、キュッとバッシュを鳴らして構えを取り、ゴール目掛けてボールを投げ込んだ。吸い寄せられるように真っ直ぐと入ったボールはゴールネットを大きく揺らして落ちた。ボールは何度かバウンドした後、黄瀬の手によって掬い上げられる。
唇の僅かな隙間から小さく息を吐いた黄瀬は、体育館備え付けのシャワールームに足を運んだ。
お湯はいつも温め。熱いのはあまり好きではない。メッキのシャワーヘッドの下に立ち、コックを捻ればザーッと雨のようにお湯が流れ出る。身体から汗が追い出される感覚が気持ちいい。髪をかきあげて額を晒し、暫く天井を仰いだまま動かなかった。全身が洗われていく中で、黄瀬は頭の片隅に佇んでいた一人の少女を瞼の裏に映し出す。彼女に触れられた感触を思い出すと、心がざわつく。ドクドクと脈打つそれは興奮剤となって黄瀬の双眸を獣のような鋭い眼光に変えていった。
コックを締めてお湯の流れを止める。顔を振り上げることによって飛び散った雫が、シャワーヘッドから滴るお湯と混ざり合って排水口に流れていった。
「…そろそろっスかね」
部室のベンチに腰掛けて、壁に掛けてある丸時計を見上げた。持っていたミネラルウォーターを飲み干し、空になったペットボトルを足元に置いた。
時刻は九時を回ろうとしている。そろそろ待ち人が来る頃だ。時計の針が動く音だけを感じながら、そっと目を伏せた。ただ待っているだけの、この時間さえも至極愛おしく感じる。この秘密の恋に燃え上がる心がそうさせているのは判りきったことだが、純粋に彼女を想う強い気持ちもあるのだと思うと、どうしてか擽ったい。長い睫毛に乗った水滴が流れて黄瀬の手の甲に触れた時、パタパタと小さく駆ける音が耳に届いた。ハッとして顔を上げ、ベンチから立ち上がる。
「りょーたー…?」
控えめに開けられた部室の扉からひょっこり顔を出した、愛しい人。
黄瀬はすぐにその手を引いて自身の腕の中に名前を閉じ込めた。隙間をくまなく埋めるように密着させれば、名前が少し苦しそうに身じろぎする。可哀想だけれどすぐに離してはやれそうにない、と言いたげに彼女の腰に置いていた腕に力を込めた。そんな黄瀬の思わんとすることが伝わったのか、名前の体からするすると力が抜けるのを感じた。
――この恋は、秘密だ。
黄瀬涼太と苗字名前。二人は普段の学校生活上では一切接点がないのだ。それは名前が黄瀬に告白された際に出した条件だった。「付き合っていることは誰にも打ち明けない」。親しい友人にも家族にも、誰にも話さない二人だけの秘密にしておきたいと名前は言ったのだ。当然、黄瀬は理由を問うが、彼女の口から出てきた答えは「そのほうが燃えるでしょ?」という予想の斜め上を行くものだった。
しかしそれは全くの嘘なのだと、こうして逢瀬を重ねていくうちになんとなくだが理解していた。
「…名前っち」
「なに?」
「今日も寂しかった?」
「そりゃあ…うん。涼太は?」
「寂しくて死にそうだった」
黄瀬はぐずる子供のような声で名前の肩に顔を埋めた。
苗字名前という人間は、至極臆病だ。奥手、とはまた違うのかもしれない。寂しさにも勝る不安が名前の中に蠢いているのは感じ取れるが、黄瀬はそれに触れようとはしなかった。その脆い精神に触れてしまえば、彼女を内から崩してしまうことになりそうで、なんだか恐ろしかったのだ。そう考えると、自分も名前と同じ臆病な人間なのかもしれない。あっさりと出た結論に黄瀬は喉の奥で自嘲気味に笑った。
「涼太、髪乾かしてないの?」
「あ…忘れてた」
小さく呟く声で、黄瀬は髪から滴る雫が名前に当たっていることに気がついた。謝りながら咄嗟に身体を離すと、名前はふふ、と笑いながら鞄に入っていたタオルを取り出した。爪先立ちでタオルを被せようとする前に、黄瀬が屈む体勢を取った。
ふわりとかけられたタオルからは、ほんのりと彼女と似た甘い香りがする。名前は黄瀬の手を引いてベンチに座るよう促した。これでやっと名前が黄瀬を少し見下ろせるようになる。
「今日もお疲れ様」
「ん…」
タオル越しに感じる心地いい指の感触に、黄瀬は思わず目を閉じた。これは自惚れなのか、指先から特別な恩愛が伝わってくる。こうして触れられていると、もしかして彼女の前世は女神かなにかだったのではないか、という他人が聞いたら笑い飛ばすような想像をしてしまう。自分がこんな妄想をするとは思っていなかった。普段の学校生活で彼女と触れ合っていないせいで、溜まった感情が爆発してしまったのだろうか。それにしても可笑しいだろう、と思えば黄瀬の口元は自然と釣り上がっていた。
ふと顔を上げれば、タオルの隙間から の暖かい眼差しが覗く。
「…名前」
「なにー?」
髪を拭く手は止めず、名前は黄瀬の顔を覗き込みながらふにゃりと緩い笑みを浮かべた。
この数時間だけが、自分と彼女を繋ぎ留める唯一のもの。本当はいつでも触れていたい、見つめていたい、言葉を交わしていたい。けれど彼女はそれを望まない。だから、こうして与えられた僅かな時間の中で溜まった愛を注ぎ込むのだ。
黄瀬は名前の手を掴み、タオルを払い落とした。もう一方の手で彼女の腰を引き寄せ、その柔らかな唇に噛み付くようなキスをした。小さな息遣いも、この何も纏わない静寂の中では一層際立つ。込み上げる熱に身体中を支配され、脳はどろどろに溶けていくだけだった。名前はされるがまま黄瀬の身体に凭れ、その小さい唇で懸命に愛情を受け取った。
薄く目を開けると、黄瀬が切なげに顔を歪めている。交わった視線に互いの動きが止まり、黄瀬は名残惜しそうに名前の下唇に吸いつくと、ちゅっと控えめな音を立てて離れた。
「何か言いたそうな顔っスね」
くすくす笑いながら言う黄瀬は、やはりどこか寂しそうで。名前は心の奥にちくりと刺すような痛みを感じた。ぐっと唇を噛んで項垂れる。
「………ごめんね、わがままで」
「どうしたんスか急に」
「だって、涼太にそんな顔させてる原因は…やっぱり私にあるでしょ」
「どうしてそう思うんスか?」
「よく分からない条件押し付けて、制限して、窮屈な思いさせて…涼太にばっか我慢させてるんだよ。私、最低じゃんか」
黄瀬の肩に顔を埋め、真っ青なジャージを握り締める。
今初めて気がついたのではない。告白されたときからずっと考えていた。けれど彼は嫌な顔ひとつせず、この条件を呑んでくれた。名前にとっては嬉しいことの筈なのに、不安に付き纏われるのは黄瀬が心裏で負担に感じている可能性があったからだ。
よくよく考えれば、こんなわけの分からない条件を素直に受け止める人間などそうそういないだろう。名前の頭の中では、後悔と心苦しさが混じり合って渦を巻いていた。
「…確かに、こうして隠れて会うことしかできないのはやっぱりどっか物足りないし寂しいっスけど、その分よーく分かったことがあるんスよ。なんだと思う?」
「わ、かんない」
すっかり立場が逆転してしまい、黄瀬は小さな子供をあやすように名前の背中を優しく二、三度叩いた。肩口からはずず、と鼻をすする音が聞こえる。
「こうやって抱きしめ合ったりできることがどれだけ幸せなのかってこと。普通に付き合ってたら気づくのはもっと先だったと思うんス。当たり前のことがものすごく幸せに感じるなんて、ね。むしろ俺は名前に感謝してるんスよ?だから、最低なんて言わないで」
言葉が進むにつれて、名前の嗚咽がひどくなっていった。黄瀬はそんな彼女を愛おしそうに見つめながら背中を擦り続けた。
じわりと冷たいものが溶けていくような感覚だった。黄瀬の方が不安感は大きいというのに、気がつけばいつも助けられているのは名前の方で。その太陽のような笑顔とあたたかさでずっと守られていたのだと思うと、目尻から流れる熱い涙がどんどん勢いを増していく。きっとひどい顔をしているだろうが、今そんなことはどうでも良かった。名前は顔を上げ、黄瀬と目を合わせる。名前のぐしゃぐしゃになった顔を見た瞬間、黄瀬は白い歯をこぼして笑った。大きな両の手で名前の頬を包み、親指で目尻を拭う。その手つきがあまりにも優しくて、我慢できずに再び涙が溢れ出てきてしまった。「泣き止むはずが、逆効果だったね」と言いたかった名前の口は、上手く開かなかった。
秘密の恋というものも、どうやら悪くはないらしい。《後書き》テキスト
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