episode 12
鏡に盗まれた魂 うつしみ@
ひとたび桃井がその手の話をし始めれば、その場の空気はふっと冷たくなる。もう何度も経験している筈なのに、由美は未だそれに慣れないでいた。彼女の話し方は上手いと思う。怖がりな人間でも、こうして先に先にと自ら進んで行ってしまう器用な誘導の仕方をしている気がするのだ。そして今日もまた桃井の口から語られる怪談は、ひっそりとした教室内で始まる――
「それで…それで、どうなっちゃったの?」
いつもより濃い夕焼けに包まれた室内は、どこか寂しげな雰囲気を醸し出していた。一番隅の机にじっと座る桃井を囲んだ形で話を聞いていた赤司達は、鬼胎を含んだ由美の言葉に心中で頷きながら桃井の顔をチラリと見た。
「その用務員さんが振り返ったら、鏡の中の顔が…」
「ひっ…!」
まだ話の途中だというのに、口元を抑えて目を見開かせ酷く驚いた様子の面々を見た桃井は一瞬きょとんとするが、自分の話がそれほど怖いのかという結論に至れば、語り手として冥利に尽きると頷く。しかし、由美達はある一点を見つめたまま動こうとしない。糊で固められたように驚いた表情を崩さない が、ゆっくりと桃井の後ろを指差して小さく「う、うしろ」と呟いた。
「え…?」
振り向けばそこには、逆光で眼鏡の奥が見えない帝光中の用務員がじっと佇んでいた。まるで気配がなかったその男の登場に、桃井は大きな音を立てて椅子から立ち上がる。
「もう下校時刻過ぎてるよ。早く帰りなさい」
「は、はーい…」
引きつった笑顔で愛想よく答えると、用務員はそれ以上何も言うことなく眼鏡をクッと上げて去っていった。
「もー…タイミングよく用務員さん出てくるんだから」
「ホント、びっくりしちゃった」
学校を出てぞろぞろと歩きながら桃井がぼやく。それには も素直に同意した。物音ひとつ立てずに桃井の背後に現れたことだけでもゾッとするのに、おまけに逆光で表情が見えないときたら誰でも思わず悲鳴を上げてしまうだろう。
「あんまり面白おかしく幽霊の話してると、今度はさっちんのところに出るかもしれないよー?」
「やだ、やめてよムッくーん!」
その言葉があまり冗談に聞こえないのが恐ろしい。桃井はぎくりとした様子で紫原を振り返った。教室で桃井がしていた話とは、旧校舎の大鏡の中から出た手に引きずり込まれる、という内容だった。身近な物が恐怖の対象になるのは、その分余計に想像力が働いてしまうせいか普段の桃井の話よりも妙に悍ましく思えた。
「ったく、夜中に鏡見られなくなったらさつきのせいだぞ」
「それなら心配ないっスよー!青峰っちの顔見たら鏡の方がびっくりして割れるんじゃないスか?」
「そういうこと言うのはこの口か!え!?この口かあああああ!!」
「いだいいだいいだいっスー!それ以上伸ばしたら取れる、ギブギブ、いででででで!!」
爽やかに笑い飛ばした黄瀬の頬は、青峰によってグイグイとこれ以上は無理だというくらいに伸ばされた。少々激しい気もするが、中学生らしいそのやり取りに由美は思わず吹き出してしまった。黒子と緑間は呆れ果てているが、これはもう日常茶飯事と言える故、止めに入ることはしなかった。この光景を見ると、由美はああ今日も平和だと感じるようにまでなっていて。ふとすぐ横に止まっていた車のサイドミラーに映った自分と目が合っても、さほど気にするようなことなく視線を流した。
――その中で、何かが蠢き始めているとも知らずに。
夕食後自室に戻った由美は、開けたままのカーテンを締めようと手をかける。しかし、暗い中でも目立つ赤い髪を見つけると、自然とその手はバルコニーへの扉を開いていた。赤司はざわざわと風に揺られながら、難しい顔をしている。何か考え事でもしているのだろうか。
「赤司くん?」
「…由美」
控えめに声をかけると、赤司は少し驚いた表情になった。彼がここまで気づかないなんて珍しい。
「どうしたの、何かあった?」
「あぁ……真太郎が、ちょっとね」
「緑間くんが?」
彼の口からあがった意外な人物に目を丸くした。普段から二人は仲が良い、というよりも気が合うと言った方が正しいかもしれないが、あまり仲違いするような関係だとは思っていなかった。赤司のその深く危惧した顔を見ると、心配せずにはいられない。かける言葉を探していると、ふいに赤司が口を開いた。
「母親がおかしいって…電話がかかってきたんだ、真太郎から。なんだかただ事じゃない様子だったから心配になって自宅に行ってみたんだけど、出てきた真太郎は“何でもない”の一点張りでね。そのまま、追い返されてしまったんだ」
奇妙な話しだ。赤司に電話したということは、彼が相当困惑していたと考えられる。赤司が家を訪ねるほんの数分の間に解決した、なんて結論に至るのはどうも腑に落ちなかった。
互いに沈思黙考し始めて、何分経っただろうか。月が雲に隠され、フッと影が落ちる。赤司と由美の心には、それと同様に次々と暗雲が垂れ込めていった。
* * * *
「緑間っち、なんか今日おかしくないスか?」
冷たい空気が広がる学校の廊下。窓を背に赤司、由美 、黄瀬が横一列で並んでいた。緑間の変化はやはり確かなもので、青峰や桃井も口を揃えて黄瀬と同じことを言っていた。
「…いや、昨夜からおかしいんだ。今日だって全く口をきかないし」
「うん、話しかけても無視されちゃう」
「俺ら、なーんか気に障るようなことしちゃったんスかね」
黄瀬が頭上で腕を組み、ぽつんと呟いたが、赤司と由美はそれは違うということだけは分かっていた。けれど、広がりを見せる違和感が何なのか分からず未だ燻ったままなのだ。由美はなんとなく赤司を見ると、その鋭い目を細め沈黙を保っていた。赤司がなぜこんな表情をしているのか分からない黄瀬は、時間が解決してくれるのを待とうと、とにかく場を和ますように微笑んだ。由美はそれに浅く頷いた。黄瀬の言うように、時間が解決できるような問題であればどれほど良かったか。全てが杞憂に終わるそんな結末などないと、耳元で誰かが囁いている気がした。
黄瀬と別れ、赤司と由美は昇降口を出た。外界の空気を含んだガラス扉に手を預ければ、指先を伝ってその冷たさが一気に入り込んでくる。トントンとローファーのつま先を鳴らし、ちゃんと履けたことを確認した。
「見た目は緑間くんなんだけど、どこか違う気がするんだよなぁ…」
やはり考えるのは緑間のことで。由美は懸命に頭を絞りながらブツブツと言葉をこぼす。するとそれを聞いた赤司がハッとして足を止めた。
「赤司くん?」
「真太郎も同じことを言っていた。“まるで別人のようだ”って。これは、ひょっとすると…」
「霊の仕業、ってこと?」
赤司の言いたいことが分かってしまった由美は、自然とその単語を口にする。やっと糸口を掴んだのだ。
するとそんな二人にまとわりつくように突如として霧が立ち込め、中から黒い影が姿を現した。
「あまのじゃく…」
「やっと気づいたか。…霊眠は破られた。あいつが目覚めたからには、もう誰も逃げられない。お前達全員お仕舞いさ」
くつくつと笑うあまのじゃくに由美は強気な表情を見せるが、その心中は錯綜としており、大きな波に飲み込まれてしまうかのような不安に襲われた。
しかし、既にその魔の手が背後ににじり寄って来ていることに気づくことはできなかった。
《後書きスペース》
ALICE+