episode 13
鏡に盗まれた魂 うつしみA
あれから、赤司と由美は「何か分かったらその都度連絡する」という約束を交わして帰宅した。この時間ならば悠はもう帰ってきていると思うが、室内に明かりは点いておらず薄暗いままだった。ただいま、と言っても返事がない。けれど鍵が開いているならば悠は家にいる筈だ。疑問に思いつつリビングに入ると、床に座りテレビに齧り付いてゲームをしている悠の姿が目に入った。
「なんだ、いるなら返事してよ。電気も点けないで。お風呂掃除やっといてくれた?」
ホッと一息ついた由美は鞄をソファーに置いてコートを脱ぐ。しかし悠から返事はなく、テレビから聞こえる音声だけが室内を支配していた。
――何かがおかしい。由美は鼓動が次第に早まっていくのを感じた。
ふと悠の背中をじっと見ていた目をテレビに移せば、そこにゲーム画面はなく、砂嵐が耳障りな音を立てて舞っているだけだった。それでも悠はコントローラーを動かす手を休めようとはしない。
「悠…どうしたの?」
恐る恐る近づいていくと、悠が由美を振り返った。その顔には見慣れない黒縁の眼鏡がかけてあり、由美はぎょっとした。
「あんた、なんで眼鏡なんか…」
徐に眼鏡に手をかけそれを外すと、目だけが無い悠の顔が現れ、外した眼鏡のレンズにはニタリと笑うように細められた悠の双眸がうっすらと浮かんでいた。ひゅっと喉を鳴らし後ずさる。踵を返して逃げようとすると、暗がりから現れた幹久にぶつかった。
「お父さん!大変なの!悠が、悠の顔が…!」
まだ由美を見続けている悠を振り返りながら幹久に助けを乞う。しかし由美が見上げた先にあったのは、悠と同じく、普段していない眼鏡をかけ虚ろな目でじっとこちらを見ている幹久だった。気付いたときにはもう遅く、由美は両肩を掴まれ軽々と持ち上げられた。
「いやあああああ!」
そのまま廊下へと向かい、幹久は壁に掛けていた鏡の前で立ち止まる。次に何をされるのかがはっきり分かった は必死の抵抗をするが、その異常なまでの力の前では無力でしかなかった。由美の身体はズルズルと鏡に飲み込まれていく。表情を変えることのない、まるでロボットのような幹久に由美は落涙した。
「やめてお父さん…!いや、離して!誰か…誰か助けて…!!」
他に誰もいない真っ暗な室内に由美のひきつれた叫びが上がる。身体が半分以上埋まったところで、もうダメだと諦めかけたそのとき、幹久が第三者によって蹴り飛ばされた。
「由美、大丈夫か!」
手を離されたことで鏡から滑り落ちた由美を受け止めたのは、少し息を切らせた赤司だった。
「あ、赤司、くん…悠が、お父さんが…」
「とにかく今は逃げるぞ」
落ち着かせるように由美の背中を優しくさすった後、彼女の手を引いて家を飛び出した。ただひたすらに走り続け、誰か手を貸してくれそうな人を探す為商店街に入った。しかしそこに広がっていたのは、眼鏡をかけた生気のない街の人々が練り歩いている光景だった。ここはもうダメだ、と踵を返し赤司は再び直走る。由美は繋がれたその手を決して離さんと力を込め、引かれるまま懸命に走り続けた。
二人が逃げ込んだ先は旧校舎だった。本当ならば新校舎にしたいところだが、どこもガッチリ施錠されており、入る術を見つけることができなかったのだ。すぐに扉が破られることのないように、校舎内の方々から瓦落多を寄せ集め即席にバリケードを築く。これである程度時間は稼げるだろうと安堵したところで、外からは低い唸り声と乱暴に扉を叩く音が轟いた。その半端でないざわめきに、由美は慄然とした。
「もしかして、街の人みんなああなっちゃたの…?」
「ここは危険だ、とにかく奥へ行こう」
いつ破られるか分からない扉を振り向きながら歩く。どうしようもない不安が駆け巡る中、由美は小走りで赤司の隣についた。時折耳に入る聞こえてはいけないような声にヒヤリとしながらも、奥へ奥へと進んだ。
二階へ続く階段の手前までやって来ると、上から聞き知った声が降ってきた。
「赤司、白戸。こっちだ」
「緑間くん…なんでこんなところに」
全ての始まりとも言えるその人物に、由美はぎょっとした。バスケ部のジャージに身を包んだ彼は、いつものように眼鏡のブリッジを左手の中指で上げ、由美と赤司を導こうとする。昨日の今日だ。様子がおかしい緑間に対する疑念はなくなるどころか増していく一方だというのに、さも普通に接してこられると戸惑いを隠せない。躊躇していた由美は思わず赤司を一瞥した。するとそんな由美の心を汲み取ったように、赤司は彼女の右手をするりと掴んで緑間のあとについた。
とりあえず話をしようと引き戸の開いていた家庭科室に入り、緑間と対座する。
「良かった、無事だったのだな二人共。てっきり“うつしみ”にやられてしまったのかと思っていたが」
「うつしみ?」
緑間の口から聞いたことのない名前が出た。由美は首を傾げ聞き返す。
「鏡に潜む霊のことなのだよ」
「用務員を鏡に引きずり込んだという桃井の話は本当だった、ということか」
「ああ。あいつらは鏡に映った人間と入れ替わって夜の街を歩き回るらしい」
「じゃあ、やっぱり街のみんなは…」
「既に入れ替わってしまったのだろう。残っているのはここにいる俺達三人だけのようだ」
なんということだ。一晩の内にこの街ひとつを飲み込んでしまう程の力を持つうつしみに、背筋が凍るのを感じた。
「由美、日記を見ればうつしみの霊眠方法が分かるかもしれない」
「そっか!…あ、ダメ、家に置いて来ちゃった」
赤司の言葉にハッとした だったが、鞄に入れたままだと気づきすぐに肩を落とす。外には入れ替わった人々が徘徊しているせいで、取りに戻ることもできない。由美達は袋小路にぶち当たってしまった。
「…とにかく、ここにいても仕方ない。奴らに対抗する方法を探すぞ」
すっかり気落ちしてしまった由美を横目にしながら緑間が言った。由美と赤司も頷いてそれぞれ立ち上がる。
「さぁ、こっちだ」
そう言って振り向いた緑間の背を、窓から差し込む月明かりが照らす。その後ろ姿を見た赤司は目を見開き、歩きだそうとしていた由美の前に腕を出し待ったをかけた。歩みを止められた由美は不思議そうに赤司を見る。その眼光は炯々と緑間の背を刺していた。
「どうしたの、赤司くん」
「今まで様子見をしていたが、この月明かりのおかげではっきりしたよ。――お前も偽物だな」
ピチョン、と落ちた雫が一気に場を凍らすような緊張感に覆い尽くされた。由美は赤司と緑間を交互に見て、把握を取り急ぐ。
「何を言っているのだ赤司」
「とぼけるな。お前のそのジャージの文字、鏡写しになっているよ」
目を凝らしてみると、確かに緑間の背にある「TEIKOU」の文字が正反対になっていた。つまりは緑間もうつしみに取り込まれた一人、ということになる。由美は無意識に一歩後ずさった。赤司の言葉をじっと聞いていた緑間は、ゆっくりと振り返った。
「…気づいたのなら仕方ない。俺の手でお前達も鏡の中に閉じ込めてやろうとしたのだがな」
緑間は冷たく笑いながら と赤司の後ろを指差した。すると突然影の色が変わり、次々と耳に飛び込んでくる人々の呻くような声。バッと振り向くと、窓ガラスに映り込んだ数多の人。阿鼻叫喚の巷と化したその中に悠を発見した は、咄嗟にその名を叫んだ。苦悶に満ちた顔がゆらゆらと揺れている。
「お前達が最後の人間だ…さぁ、鏡の世界に来い!」
緑間が手を差し出して言う。さっと身構えた瞬間、地響きのような轟音が辺りに響き渡った。何が起こったのかと見回す二人へ答えるように緑間が口を開く。
「外の連中が玄関を突き破ろうとしているのだよ。あいつらがここに来るのも時間の問題だ。…なに、少し苦しいが鏡の中も慣れてしまえば過ごしやすいぞ」
「っ、あんた達の思い通りになんかさせない!」
由美はじりじりと近づいてくる緑間を睨みつけながら、壁に立てかけてあったモップを手に取り、間髪容れずに力強くモップを窓ガラスに振り下ろそうとする。しかしそれは飛んできた黒い影によって遮られてしまった。手を弾かれ、モップは大きな音を立て床に落ちる。
「あまのじゃく…!邪魔しないで!」
「割ったら悠も砕けて死ぬ!」
由美を見上げるあまのじゃくの言葉にハッとして、窓に映る人々を見た。今すぐにでもその苦しみから解放してあげたいのに、割ったら死んでしまうなんて。じゃあどうすればいい?由美はあまのじゃくに詰問しようとするが、上から突然降ってきた物に意識を奪われ口を噤んだ。落ちてきたのは由美と赤司が望んでいたもの。そう、お化け日記だ。
「これ…持ってきてくれたの?」
「お前らがこいつにとっ捕まっちまうと、俺にも都合が悪いんでな。そいつを持って早いとこ行っちまいな!」
毛を逆立て、緑間と対立しようとあまのじゃくが前に出る。日記を抱えた由美と赤司は互いに顔を合わせ、あまのじゃくの言葉に頷いた。
「あまのじゃく、恩に着る」
「ありがとう!」
家庭科室から走り去る足音をバックに、苛立ちを含んだ顔で緑間が口を開く。
「貴様、霊のくせに人間の味方をするなどとはどういう…!」
その言葉を飲み込むようにあまのじゃくが牙を剥いて飛びかかった。緑間の眼鏡を器用に咥え、床に降り立つ。その後ろ姿からは抗し難い空気が溢れ出ている。緑間は顔を歪め唇を噛んだ。
「あいつらは俺の獲物なんだよ。横から出てきて勝手なことされちゃ困るんでな。そういうことさ、あばよ!!」
振り返って、咥えていた眼鏡を思いきり噛み砕く。緑間は走る激痛に耐えるように息を洩らし、両目を抑えてその場に崩れ落ちた。散っていくレンズの破片が、月の光を受けて異様な輝きを放っていた。
* * * *
「あった!うつしみを霊眠させる方法!大鏡にもう一枚鏡を向けて、合わせ鏡の結界を作れ、だって!」
「合わせ鏡は、昔から魔界に通じると信じられているからね。魔界の扉を開けば、鏡の中に閉じ込められた人達を呼び戻すことができる」
空き教室に身を潜めていた二人は、蝋燭の明かりを頼りにうつしみの霊眠方法を見つけ出した。丁度良くその教室には持ち運べそうな壁掛け鏡があった。鏡に積もった長年の埃を払いながら、探す手間が省けたとホッと安堵した表情を浮かべた。
「行くぞ、由美」
「うん!」
二人が大鏡を目指し廊下を駆け抜けていく中で、自分達がざわめきに近づいていることに気がついた。恐らく玄関のバリケードが破壊され、入れ替わった人々が旧校舎に入ってきているのだろう。「急ごう」と、囁くように言った赤司はぐんと加速する。由美も腕の中の鏡を大事そうに抱えそれに続いた。
しかし大鏡を眼下に捉えたとき、既に街の人々は階段を占拠しぞろぞろと二人に向かってきていた。
「うそ、みんな…!」
その中に黒子や桃井といったバスケ部の面々を発見し、身を竦ませた。虚ろな目で、皆それぞれの眼鏡をかけている。このままでは鏡に近づけないと判断した二人は、一旦逃げようと踵を返したが、その身体はなだれ込むように覆いかぶさってきた人々に捕まってしまった。必死に守ろうと由美が抱えていた鏡も、もみくちゃにされている内にその手から離れ落ち、無残に砕け散ってしまった。赤司と由美は人波に押される形で踊り場の大鏡の前に連れてこられる。
「いやっ…離して!離して!!」
「由美!」
幹久に鏡の中へ押し込まれそうになった時と同じく、大鏡が由美の身体を飲み込んでいく。助けようと身を乗り出した赤司だったが、身体を押さえ込まれてしまい、伸ばした手は虚空を掴んだだけだった。人波から由美の悲痛な表情が垣間見える。
「お母さん…!」
―――由美。
咄嗟に母を呼び、懐かしい声が鼓膜を撫でたその時由美の着ていたカーディガンのポケットから眩い光が放たれた。校舎全体を覆い尽くすその光に、由美と赤司を捕らえていた人々が身悶えし始める。鏡から抜け出した由美はポケットをまさぐり、光を放ち続ける物を取り出す。
「これは…」
由美の宝物の一つである、母の形見のコンパクトだった。白くて丸いフォルムに、金メッキで幾何学模様が施されている。暖かく優しい光に母の姿を思い出し、涙が出そうになるのを懸命に堪えた。これは母が与えてくれたチャンスだ、とコンパクトを開いて大鏡と向かい合わせた。
「お願い、元に戻って!」
由美の言葉を聞き取ったように、光がより一層強さを増した。入れ替わった人々の眼鏡が次々と音を立てて割れていく。破片から姿を現した鈍色の影は作り出された結界に勢い良く吸い寄せられていき、やがてそのもがき苦しむ声はかき消されるようにしてなくなった。校舎内は、いつもの静けさを取り戻した。
「……霊眠、成功したの?」
「行ってみよう」
赤司は呆然と立ち尽くしていた由美の手を取って言った。小走りで外に出ると、そこには入れ替わっていた人々が訝しげな顔で「ここはどこだ」などとあちこち視線を巡らせていた。
「な、なんとかなっちゃったみたいだね」
元に戻ったことにより安らぎを得た由美の肩から自然と力が抜けた。
「由美のおかげだよ、ありがとう」
「私は何も…お母さんが、助けてくれたんだよ」
あの優しい声を、忘れたことなんて一度もなかった。姿はなくとも、全てを包み込む百合子の愛情を由美はひしひしと感じ取っていた。コンパクトを撫で、両手で抱きしめるように包み込んだ。赤司の双眸には、由美の頭をそっと撫でる百合子の姿が見えていた。視線に気付いた百合子は柔らかく笑うと「この子をよろしくね」と告げ、星が散りばめられた夜の空に消えていった。
「姉ちゃーん!」
遠くから声がする。振り向けば、悠とバスケ部のメンバーがこちらに手を振って駆け寄ってきていた。改めて彼らの無事を確認できたことを喜んだ由美は、悠を引き寄せて思いきり抱きしめた。
「悠、みんな!良かった…!」
「由美ちゃん赤司くん!やっぱりやっぱり!鏡の霊はいたんだよ!あーもうカメラ持ってくれば良かったー!まだどこかにいないかな、ねぇ大ちゃん探すの手伝って!」
「あ?何で俺がんなことしなきゃいけねぇんだよ」
「あー、峰ちん怖いんだー」
「強がっても無駄っスよー」
「いちいちうるっせぇんだよテメェらは!なんならもっかい入れ替わってこい!手伝ってやる!」
「お前ら騒ぐな。今何時だと思っているのだよ」
「緑間くんの言う通りですよ。というか、僕達どうしてこんなところにいたんでしょうか」
皆が揃ったことでどっと騒がしくなる。由美にはそれがひどく懐かしいもののように思えた。
「…良かった、いつものみんなだ」
「前の方が静かで良かったかもしれないね」
「え!?赤司くんそれは…」
「冗談だよ。さ、帰ろう」
悪戯っぽく笑う赤司にドキリと心臓が跳ねる。由美は紅潮していくのを誤魔化すように両手で顔を扇いで歩き始めた。その後ろでは、未だ騒がしい声が飛び交っている。
ポツポツと人がいなくなっていく広場を眼下に眺めながら、旧校舎の屋根で寛ぐあまのじゃくは独り言をこぼす。
「…だが、もし全てが反対になっていたとしたら…鏡の世界とこっちの世界、どちらが本物ということになるのかな?」
もし全てが、既に反対になっていたとしたら――…
《後書きスペース》
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