episode 21
死を告げる看護婦 母の想い@


五時間目の開始を告げるチャイムが鳴った頃、悠は教室ではなく保健室にいた。一番隅のベッドに横になりながら窓に目をやると、少しだけ開けられた窓からホイッスルの規則正しい音が室内に入ってくる。あぁ、体育か、羨ましい。なんてことを考えながら準備運動の様子をぼーっと眺めていると、保険室の先生が扉を押し開けて「ごめんごめん」と慌て気味に入ってきた。持っていたファイルをデスクに置くと、棚から体温計を取り出し悠の元へ駆け寄って来た。 そもそも何故悠が保健室に居るのかという話だが、ここに来て朝から我慢していた腹痛に身体が悲鳴を上げたからなのだ。何か悪いものでも食べただろうか。いや、姉の料理に間違いは無い。普段滅多に体調を崩さない健康体なだけあって、言いようのない悔しさが込み上げてくる。 そんな念が篭った溜息を僅かに鼻から放出させると同時に、脇に挟んだ体温計が高い音で計測の終了を知らせた。悠はごそごそと体温計を取り出し、先生に手渡す。数値を見た先生はひとつ頷いて悠を見下ろした。

「熱は無いから、少し横になってれば大丈夫よ。担任の先生に言ってくるから休んでて」

安堵を含んだ笑みを浮かべる先生に、悠は言葉少なに礼を言った。キュッと床を鳴らして保健室から出て行く背を見送ると、目線を再び天井に戻した。薬品の独特な匂いが鼻に通り、違和感が募る。それ程保健室には縁が無かったということを思い知れば、再び自責の念が悠の頭を渦巻いていく。

「…なっさけねぇ」

吐き捨てるように呟くが、これ以上悔やんでも仕方ない。とにかく今は早く治すことに集中しなければいけない。そう結論付けた悠は、仰向けの姿勢を崩して窓に身体を向けた。保健室を出る前に先生がカーテンと窓を閉めていったせいで外の様子は窺えず、賑やかな足音と声だけが聞こえてくる。寝やすいように配慮してくれたのだろうが、腹部のキリキリとした痛みのせいであまり眠る気にはなれなかった。 と、そのときカーテンが微かに揺れていることに気がついた。
――おかしい。窓は全て閉められている筈だ。風が入ってくる隙間など微塵もない。悠はゆっくりと上半身を起こし、緊張を全身に張り巡らせて注視した。そんな彼とは対照的に、カーテンは穏やかに揺れ続けている。込み上げる恐怖を無理矢理押さえ込み、正体をこの目で確かめてやると半ば捨て鉢な思いでベッドから立ち上がろうとすれば、それまで小さく揺れていたカーテンが大きな波を描いて捲れ上がった。
――その間、僅か数秒。だが、悠の目に映る光景はスローモーションのように緩徐していた。捲れたカーテン裏の窓からは、片目が隠れる程の長い黒髪を持った看護婦姿の女が、無表情でこちらをじっと見つめていたのだ。青白い肌と濁った目、薄紫色の唇、まるで生気を持たない情調。それらの要素は、彼女がこの世の人間ではないということを証するのに充分な妥当性を持っていた。 カーテンが窓を再び覆い隠す時まで、看護婦は瞬きもせず真っ直ぐに視線を悠に注ぎ続けていた。彼女の視線から逃れられ緊張が弛緩した悠は、咄嗟に窓際へ駆け寄りカーテンを勢い良くを開けたが、そこに看護婦の姿は無かった。

「なんだ…今の…」

自分の顔だけが映っている窓をそっとなぞり、悠はその場に立ち尽くした。あの看護婦は一体何の目的で現れたのか。まさか、自分はあの看護婦に命を狙われているのではないだろうか。今もどこからか見ているのかもしれない。確証のない不安に押しつぶされそうになった悠は、乱暴にカーテンを閉めて早々とベッドに戻った。頭から布団をかぶっても、ギュッと目を閉じても、あの看護婦の姿が脳裏にこびりついて離れない。いつの間にか消えていた腹痛の代償は、あまりにも大きすぎた。


* * * *


電灯がぽつぽつと点き始めた暮れ方。まだ子供が疎らにいる公園には悠と由美、それに桃井と青峰の姿があった。 年季の入ったベンチには悠と青峰が座っており、俯く悠を三人が心配そうに見つめている。子供達の陽気な笑い声とは正反対の雰囲気に、悠は唇を噛み締めた。とにかくあの看護婦のことを達にも知ってもらいたく、この公園まで呼び出したのだ。「それで、何があったの?」という由美の言葉を聞き、悠は皆を一瞥した後に訥々と話し始めた。由美達は静かに耳を傾ける。

「――んー…誰かが悪戯したとかじゃねーの?」

事の顛末を話し終え、暫く沈黙に支配されていたこの空気を青峰が破った。彼にしては珍しく考え込んでいるような顔付きだが、出てきた答えは別段ヒネられたものでもない一般論だった。 悠は俯いたまま大きくかぶりを振り、反論すべく口を開く。

「違う。大人の女の人だったし…」
「…それ、きっと呪いの看護婦じゃない?」 「呪いの看護婦?」

桃井から出た悍ましい単語に、由美は思わずその名を繰り返した。 安易に信じるべきではないということは判っているが、“呪い”や“看護婦”という個人的にあまりいい思いがしない単語の組合せは冷静な思考を麻痺させる力を持っているような気がする。悠と青峰も眉根を寄せて桃井を見上げ、呪いの看護婦の詳細が語られるのを待った。

「そう。病気の人に取り憑いて、そのままあの世に連れて行ってしまうんだって。昔、帝光小で急病になって保健室に運ばれた児童がいて、そこに呪いの看護婦が現れて…その子はそのまま…」

尻窄みな終わらせ方が余計恐怖感を掻き立てる。その児童の最期を想像した三人は、時折木々を揺らす風とは違うゾッとするような寒さを身体中に感じていた。 眉間の皺をより深く刻んだ青峰は、隣に座る悠を暫く横目で見た後に再び桃井を見上げる。悠を指す親指が些か震えているが、青峰はそれが恐怖からの震えだということを断固として認める気はないようだ。

「で、でも、コイツピンピンしてるぞ」
「まぁ、古い話だけどね」

言い淀む青峰に桃井は苦笑した。由美は黙ったままひっそりと立っていたが、どこか虚ろな表情を浮かべている。気が付いた悠は、由美の制服の裾を軽く引いた。

「姉ちゃん、どうしたの?」
「…あ、ごめんね。なんでもないよ」

由美 は少しばかり後悔した。いつの間にか表情に出してしまうというこの悪い癖。前々から厄介だと思っていたが、そう簡単に直すことができないのが歯がゆい。相談してきた悠を逆に心配させてどうする、と心裏で自身の失態を嘲笑する。由美はいつも通りの笑顔を浮かべて答えたが、貼り付けたようなその表情に心の奥の黒い水が波打つのを感じた。 もう六年も経ったというのに、未だ切り離すことができない。



「――“親子で給食を食べる会、保護者の皆様是非ともご参加ください。日時は来週の金曜日”…あぁ、これ平日なのか」

夕飯の席で、幹久がプリントの文字を追って声に出した。悠が持ってきた一枚の紙は、給食の試食会を知らせるものだった。平日だということに少々難しそうな顔をした幹久に、悠は持っていた茶碗を静かに置いた。由美はそんな悠にふとした違和感を覚え、動かしていた口と箸を止める。

「うん。だから無理しなくていいよ父さん」
「いや、有給が溜まってるからなんとかなるよ」
「…いいよ、来なくて」
「悠、何言ってるの」

幹久の顔を見ずに淡々と低い声で話す悠。体調があまり良くないのは判っているが、こんな態度を取っていい理由にはならない。由美は強めに口を挟んだが悠には届いていないらしく、彼は一点を見つめたままその視線をピクリとも動かそうとしない。 部屋は重苦しい空気に包まれるが、悠は更に追い討ちをかけるような言葉を吐く。

「他所はみんな母さんが来るんだ。だから父さん、来づらいだろうし…来なくていいよ」

悠が茶碗を重ねる音が妙に響いている。最後に小さく「ご馳走様」とだけ言うと、悠は席を立って歩き始める。

「悠、ちょっと待ちなさい!」

もう我慢の限界だった。箸をバシンとテーブルに叩きつけて立ち上がる由美だったが、幹久に「いいよ」と優しく宥められる。しかしその表情にはうら寂しさが滲んでいる気がして、鼻の奥がツンとした。唇を噛みしめて静かに座る由美を見て、幹久は微笑みながらプリントを畳んだ。

「いくらしっかりしてるとはいえ、悠はまだママのことを分かっているようでいて、そうじゃないのさ。…それにしても由美の餃子は旨いなぁ!ママの餃子と同じ味がするよ」

幹久は箸で餃子を二つつまんで頬張った。そう言ってもらえるのは純粋に嬉しい。母――百合子に教えて貰った料理の一つだから、思い入れが強い。由美もまた箸を動かし、最後の餃子を口に入れた。咀嚼することで口内にじわりと染み渡る肉の味をあまり感じないのは、深く考え事をしているせいなのかもしれない。頭に浮かぶのは、悠。 突然、母がひょっこり帰ってくる。心のどこかで、弟はそう思っているのだろうか。母との思い出がたった四年しかない悠にとって、その願いは切っても切っても再び生えてくるトカゲの尻尾のようなものだろう。そういう由美自身も、百合子の死を未だに処理しきれていなかった。今も目を閉じれば蘇る――走る医者、看護婦、鼻につく薬品の匂い。病室の扉の隙間から見えた、呆然とする父の姿。


* * * *


その晩、悠は夢を見た。病院のロビーで百合子と二人並んで座っている。落ち着いたワインレッドの皮で覆われた固めの椅子からぶらぶらと足を揺らし、紙パックのりんごジュースを啜る四歳の悠。母の見舞いに来る度、こうしてりんごジュースを買ってもらって飲んでいた。酷く懐かしい、記憶の一部。

『美味しい?』
『うん』
『悠はりんごジュース好きねぇ。赤ちゃんの頃から好きだったもんね』

赤ちゃんの頃、と言われても覚えてはいない。ただ、百合子の温かい腕の中で、ふわふわと浮かぶように抱かれていたのは何となく覚えている。 小さなパックなだけに、ジュースはもう悠の喉を通り終えていた。ストローから口を離し、母を見上げてじっと視線を注いだ。その視線に気付いた百合子は、笑みを絶やさず疑問符を浮かべるように首を傾げた。

『…ねぇお母さん』
『なぁに?』
『どっか行っちゃう?』

幼い悠から出た素朴な疑問は、百合子の心を大きく揺さぶった。言葉が出ないのは、もう自分の残された時間を知ってしまったから。「どこにも行かない」「もうすぐ行かなきゃいけない」どちらも、この口からは伝えられない。悲痛な表情を浮かべる百合子をよそに、悠は陽だまりのような満面の笑みで小指を差し出した。

『どこにも行っちゃダメだよ、約束しよう!』

ちっぽけでまだ頼りない。けれど、しっかり伸びたその手に百合子も自らの指を悠に向けた。パッと顔を明るめた悠だったが、その表情は一瞬で消え去った。小指は結ばれることなく、それどころか百合子自身が悠から離れていく。紗幕が降りたように辺りが暗闇に覆われ、母はゆっくりと空へ昇っていく。その両脇には、あの長髪の看護婦が冷たい目で悠を見下ろしていた。

『お母さんどこ行くの…!待って、待ってってば…!』

震える足で遠ざかっていく母を追いかけるが、何かに足を掴まれ床に叩きつけられた。振り向けば、まるで沼から這い上がっているように看護婦の上半身が床から突き出しており、青白く伸びた左腕は悠の足にしっかりと絡みついていた。剥ぎ取ろうとすればする程腕の力は強まる。やがて看護婦はずるりと音を立てて床から這い上がった。悠は恐怖のあまり叫び声もあげられず、ただわなわなと震えているだけだった。顔を半分も覆う髪の毛が悠の身体に触れ、看護婦はどんどん近づいてくる。やめろやめろ、来るな。

「――っ、やめろ!!」

逼迫した叫びと共に、布団を弾き飛ばすように起き上がった。身体中が汗まみれで、息も荒い。あの看護婦の腕の感触がまだ脚に残っている気がして、悠がパジャマの裾で乱暴にひっかくように拭った。

「どうしたの!?」

二段ベッドの下に寝ていた由美が、叫びを聞いて梯子から顔を出した。その声で悠は擦る手を止めたが、顔は俯かせたままだった。パジャマの下の脚は、きっと赤くなっているだろう。摩擦で熱を持った手が、悠を現実に引き戻してくれた。しかし、夢の中の、看護婦に連れ去られる母の姿は一向に消える気配を見せない。 悠は重い口を開いた。

「母さんが、いなくなったんだ…あの幽霊が、連れて行って…」
「しっかりしなさい。夢を見ただけでしょ」



「――あの後暫くして落ち着いたから、何とか寝れたみたいだけど…最近の悠、お母さんのことでちょっと不安定になってるみたいなの」 「なら、由美もあまり寝れなかったんじゃないか?」
「私は平気。…ねぇお父さん、悠に…何て言ってあげればいいのかな」



「また見たの?」
「確かに見た。ベランダに立って、俺の方をじっと見てたんだ」
「悠、昨日あんまり寝てなかったでしょ。だからきっと気のせいだよ」
「…何で、信じてくれないんだよ」
「もう、いい」


《後書きスペース》


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