episode 8
死者からの鎮魂歌 エリーゼ@


放課後。由美は狭い音楽準備室内で、音楽担当教師の佐原と片付けをしていた。転校してきた由美は委員会に所属していない為、担任から教科係を任されることとなったのだ。課題のノートやワークを集めたりプリントを配ったりする、いわば雑用係である。この度佐原から由美に与えられた任務は、音楽準備室のいらなくなった物を整理し、旧校舎の音楽室に持っていくというものだった。
旧校舎の音楽室。あまり心地良い響きのしないその場所に由美は少し憂鬱な気分になったが、先生と一緒なら大丈夫であろうと、すっかり狂ってしまったメトロノームをそっとダンボールに入れた。

「先生、こっちの荷造り終わりました」
「あぁ、ありがとう白戸さん。じゃあ行きましょうか」

少し重くなったダンボールを抱え、佐原と旧校舎へ向かう。これが終わったら買い物をしてすぐに帰ろう。今日の夕食は何にしようかなどと考えつつ歩いた。
旧校舎の昇降口の鍵を開け佐原が扉を開けたとき、新校舎から校内放送のチャイムが聞こえた。生徒の呼び出しかなにかだろう。聞き流そうとした由美の耳に入ってきたのは、目の前にいる佐原を呼び出す内容だった。彼女は「あら」と一言こぼすと、由美を振り返り申し訳なさそうに口を開いた。

「ごめんね白戸さん。呼ばれちゃったからちょっと行ってくるわね。その荷物持って先に行っててくれる?」

まるで処刑宣告されたような気分だ。にこやかに新校舎へと走り去っていった佐原を、由美はただ呆然と見つめていた。数羽のカラスがバサバサと旧校舎の屋根にとまり、こちらを見ながら大きく羽根を広げ、鳴き声をあげる。
やめておけ。危険だ。今に恐ろしいことが起こる。由美の耳には、カラスがそんな言葉を発しているように感じた。

「音楽室、音楽室…」

やはり旧校舎はどこか冷たい。昔、ここに両親をはじめとするたくさんの生徒がいたなんて信じられない。今はもう幽霊の住処でしかないここに、あと何度入ることになるのだろうと、由美は長嘆した。
途中背後から大きな物音がしたが、気のせいだ気のせいだと頭で処理をし、なるべく離れようと足を早める。物音ひとつでビクビクしていたら、この先やっていけるはずがない。霊と対峙するのは判っているのだから少しでも精神を強固なものにせねば。そう意気込むも、由美の表情は完全に引きつっていた。
二階への階段を上って踊り場に差し掛かったとき、由美の耳に誰もが知っているベートーヴェンの曲「エリーゼのために」が流れてきた。思わず足を止めてその場に立ち竦む。ここが新校舎なら、美しいメロディに耳をすませていたであろうが、ここは旧校舎だ。誰かが好き好んでこんな場所でピアノを演奏するとは思えない。こみ上げる恐怖をぐっと堪え、由美はまたゆっくり歩みを進めた。
なぜ、よりによって自分が音楽室に行かなければいけないときにこんなことが起こるのか。これを「運が悪い」などと一言で片付けられる強者がいたら見てみたい。
次第に音が鮮明になってくる。音楽室に近づいている証拠だ。未だ止まない演奏に心臓が早鐘を打つのを感じていれば、「音楽室」と掠れた文字の室名札が下がる部屋の前にたどり着いていた。
躊躇いがちに引き戸を開けると、ピアノの音がダイレクトに伝わってくる。譜面台の向こうには誰も座っていない。どうなっているのか確かめようと、意を決して近づいていった。ピアノの目先に立ったときに丁度演奏が終わり、それに同調するように由美の足も止まった。
鍵盤を覗き込んで押してみるが、黒鍵も白鍵も何の音を出そうとはしない。

「うそ……なんで?」

では、あれは誰がどうやって弾いていたのか。ぞわっと背中が冷水をかけられたように強張り、首を振りながら後ずさりする。踵を返し、急いでその場から走り去った。

由美のいなくなった音楽室には、何度押しても出なかった鍵盤の音が響く。

…あと三回

黒光りする鍵盤蓋にカッと見開く目が映り込む。不気味な笑い声と共に、いくつかの鍵盤が不協和音を轟かせた。


* * * *


新校舎の昇降口までたどり着くと、由美は息を整えながら自分の靴箱の前で立ち止まった。ぐらつく頭を落ち着かせようと、靴箱に身体を押し付けてズルズルと蹲った。まだ校内で活動する生徒達の声が、由美の頭に鐘を打ち付けるように飛んでくる。

「あれ、由美ちゃん?」
「え、あ…さつきちゃ…」
「どうしたの…真っ青だよ?」

丁度良くそこに現れたのは、まだ部活中らしく黒いTシャツにジャージという格好の桃井だった。青ざめた顔の由美を見るなり、心配そうな表情でこちらに駆け寄ってきた。桃井が背中をさすってくれたおかげで、少し落ち着いた。それからゆっくりと息を吐く。桃井と目を合わせた由美は、ふにゃりと力ない笑みを浮かべた。

「…ピアノ」
「え?」
「旧校舎の音楽室で、ピアノの演奏聞いて…びっくりしただけ」
「それ…本当なの?」

桃井の顔つきが変わった。そのただならぬ様子に、由美は当惑気味に頷く。

「由美ちゃん!もうすぐ部活終わるから、それまで教室で待ってて!帰っちゃだめだからね!」

酷く慌てた様子の桃井は、由美の両手を掴むと至近距離でそう言い聞かせた。返事も聞かずに体育館へ戻ってしまった桃井に、由美は暫く口を開けて座り込んでいた。

教室に入った由美は、席に座らず外のグラウンドを眺めていた。ただ座っていても、ピアノのことを思い出してしまいそうで嫌だった。グラウンドで楽しそうに駆け回るサッカー部を見て気を紛らわせる。時計の針が六時を回ったところで、いつのまにかシンとしていた廊下から賑やかな声が聞こえてきた。振り向いて待っていれば、扉を開けた桃井を筆頭に、ぞろぞろといつものメンバーが入ってきた。

「ごめんね由美ちゃん、遅くなっちゃって」
「ううん、大丈夫」
「一体なんなのだよ桃井。突然俺達を引きずって」

緑間のぼやきに、桃井は「あまり良くない話」と憂慮を滲ませた表情で言うと、その場の空気が変わった。昇降口で会ったときといい、桃井は由美が体験してしまった現象になにか心当たりがあるようだ。口元に手を当て、じっと考えている彼女から出る次の言葉を待った。

「音楽室のピアノ霊の話…知ってる?」
「ピアノ霊?」
「その霊の弾くピアノを聞いた人は死んでしまう、という話でしたよね」

桃井が黒子の言葉に頷いた影で、由美は身を硬直させた。サーッと床に体温を持っていかれるような感覚に、顔が青くなるのが分かった。由美を一瞥した赤司はそれを見逃さなかったが、そのまま視線を落とし、紡がれていく話に耳を傾ける。

「正確に言うと、その霊の演奏するエリーゼのためにを四回、最後まで全部聞いてしまうと…その人は必ず死んでしまうの」
「確か、回数を追うごとに演奏のテンポは変わっていくって聞きましたよ」
「うん。四回目の演奏は、これでもかっていうくらいゆっくり演奏するんだって」
「…で、その話が一体どうしたってんだよ」

各々が霊を想像している間のささやかな沈黙をやぶったのは、手近な机に腰掛ける青峰。そのとき、赤司が再び由美を見る。常に一歩先を見ているその鮮やかな二色の双眸に由美が映った。

「…その演奏を由美が聞いてしまった、ということか」
「なっ…!」
「マジ、っスか?」

一斉に由美に視線が注がれた。緩やかに揺れていた草木が突風にさらわれたようなざわつきに由美は目を伏せたくなったが、少し俯かせていた顔を勢い良く上げる。由美の身を案ずる顔が目に入ってくるが、そんな空気を一蹴させる笑顔を見せた。

「だ、大丈夫だよ!私にはアレがあるもん!」

思い出した、というように由美は鞄からお化け日記を取り出した。期待しつつページを捲っていくが、それと思しき霊はどこにもいない。次第に引きつっていく由美の顔に、桃井達も肩を落とす。

「どうしてないの…」
「由美ちんのお母さんが日記を書いた頃には、そいつはいなかったってことじゃない?」
「紫原くん…普通に解説しないで」
「でも、どうする。このままではまずいぞ」

眼鏡のブリッジを上げながら緑間が阻喪気味に言った。

「…あっ、なんだ!要は、演奏を聞かなければいいんだよね?だったら楽勝だよ」
「どうするんですか?」
「旧校舎に近づかなければ、ピアノの演奏は聞こえないじゃない!ね?」
「うーん…」
「それも、そうだな」

単純明快な由美の答え。それで事が防げるならいいが。由美以外の面々は、どこか訝しげな様子で彼女を見ていた。


* * * *


午後九時半、由美は台所で食器の後片付けをしていた。悠はもう就寝し、幹久は遅くなると言っていた。二人分の食器は五分もあれば片付け終わる。エプロンで手を拭き、ふと向かいの張り出窓に映った自分の顔を見た。その顔は些か沈んでいる。

「…大丈夫大丈夫。旧校舎に近づかなければ心配する事なんてないんだから」

そう言い聞かせ、ぱちんと両頬を軽く叩く。部屋に戻って宿題に取り掛かろうと台所から出れば、電気の点いていないリビングの暗闇からあまのじゃくが顔を出した。何やら足元で意味深な笑みを浮かべている。

「本当に大丈夫なのか?」
「あまのじゃく…どういう意味よ」
「お化けはそんなに甘くないってことだよ」

忠告のつもりなのか、ただ単に楽しんでいるだけなのか。あまのじゃくのことだから、きっと後者なのだろう。一言だけ告げると、音も立てずに再び闇に紛れていった。あの手の脅かしにももう慣れるべきだ。一人でそう頷いていると、リビングに置いている電話が鳴った。はいはいと口にしながら子機を取る。

「はい、白戸です」

受話器の向こうからは、何も聞こえない。首を傾げた由美は、間違い電話だろうと通話を切った。そのまま二階へ戻ろうと足を踏み出したとき、再び電話が鳴る。

「もしもし?」

またしても声は聞こえない。苛立ち気味に受話器を置くと、また電話がかかってこないかその場で待ち構える。するとすぐに響く呼び出し音。これはもう、悪戯電話確定なのではないだろうか。文句でも言ってやろうと意気込んで受話器を取り、口を開いた。

「あの、さっきから何……」

由美は、思わず言葉を切った。ドクンと心臓が大きく跳ねるのを感じた。何故、この曲が聞こえてくるのだろう。右耳には、今日旧校舎で聞いたあの曲が悠然と流れている。ハッとした由美が急いで子機を置いたのも束の間、今確かに通話が切れている筈の子機から、再びエリーゼのためにが流れ始めた。

「なんでっ…どうしてよ…!」

由美は何度も通話終了ボタンを押すが、曲は止まない。これではダメだと、由美は電話線を掴み勢い良く引っ張った。ブツンと音を立てて外れ、その反動で尻餅をつく。まるで走り回ったかのように息があがった。そんな由美の恐怖を更に波立たせるように、今度は主電源を消していた筈のテレビが砂嵐を映し出し、演奏を始めた。砂嵐からピアノの映像に変わる。恐慌状態の由美は、覚束ない足を必死に動かし二階へ駆け上がった。
部屋の扉を閉め、音が聞こえなくなったのを確認する。じわりと浮かぶ汗を拭おうと顔を上げた瞬間、由美の机の上にあった音楽プレーヤーから、ノイズと共にまたしてもエリーゼのためにが流れ出す。すぐさま駆け寄ってプレーヤーを鷲掴みにすると、窓を開けて地面に勢い良く叩きつけた。異常なまでの連鎖。その魔の手は、由美を尚追い続ける。

「ひっ…!」

その音は、高い棚の上から飛んできた。戯けた表情の陶器製ピエロが乗るディスクオルゴールから奏でられる音楽は、今の由美には耳障りなものでしかなかった。ゆっくりと回り続けるそれをどうにかしようと手を伸ばすが、ピンとさせた指でも届かない。

「なんでよ…いやっ……やめて…!!」

惑乱しきった由美はこの方法しか見出せず、つま先立ちで懸命に手を伸ばし続ける。その努力も虚しく、無情に音を鳴らすそれは、曲を最後まで演奏して止まった。
由美は身体を吊るす糸を切られたように床に崩れ落ちた。エプロンを握る手の震えが止まらない。

「どうしよう…聞いちゃった…」

絞り出すような声で言う由美に、オルゴールのピエロはキリキリと動くはずのない首を正面に向けた。その戯けた顔からは、由美の心を蝕むような狂気が滲んでいる。

あと二回…

前、後ろ、横。一体どこから見ているというのだ。ピエロから発せられたゆっくりと地を這うような声が、由美をじわじわと支配していった。


《後書きスペース》


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