episode 9
死者からの鎮魂歌 エリーゼA
あれから一睡もできず朝を迎えた。部屋に差す朝日は、由美の苦悶などお構いなしといった清々しさを見せる。太陽にそんなことを思っても仕方がないのだが、それほどまでに心は憔悴しきっているということらしい。いつもより光が眩しく感じる。吸血鬼にでもなってしまったかのようだ。重い身体を引き摺りながら、今日も学校へ向かう。
「え!?」
昨夜のことを話せば、桃井が喫驚した声をあげ、他の面々も動揺を隠しきれないようだった。もう思い出したくもないが、未だ耳に残るあの音が由美を縛り付けて離さない。執拗に追いかけてくる足音が鳴り止むとき、それはすなわち由美が死ぬときだ。常に神経を尖らせているが、何の解決策もない丸腰の状態。盾すらも持つことを許されない絶望感に苛まれながら、どうしようと呟いた。
「あと二回、エリーゼのためにを聞いてしまったら…」
「ホントに、どうするんスか…旧校舎に近づかなければ済むって問題でもなくなったっスよ」
「いつどこから聞こえてくるか分からないのなら、対策のしようもないのだよ」
日記にもヒントになりそうなことは書かれていない。皆懸命に対策を考えるが、相手が霊となるとそう簡単に思い浮かぶ筈もなく。重苦しい空気が沈黙に変わり、由美達の心から余裕を奪っていく。
「いっそのこと耳に粘土でも詰めちまったら」
「大輝」
「ジョウダンデス…」
耐え切れなくなった青峰が耳をほじくるジェスチャーをしながら言うが、赤司に威圧的な物言いで遮られ、おとなしく引き下がった。すると何を思ったのか、桃井が突然座っていた椅子から大きな音を立てて立ち上がった。まるで天啓にうたれたような表情で皆を見回す。
「そっか!それだよ!なんでこんなことに気がつかなかったんだろ!」
そう言って、桃井は持っていたポーチからあるものを取り出し由美に差し出した。
「さつきちゃん、これは?」
「世に云う耳栓ってやつよ。これでピアノ霊もお手上げじゃない?」
確かに、自分の聴覚を意図的に遮断してしまえば演奏は聞こえない。最後まで聞かなければいいのだから、演奏が始まってからつけてしまえばいい。霊眠方法が分かるまでの一時凌ぎにしかならないが、頼れるものに頼っていかなければ命がいくつあっても足りない。由美はありがとうと耳栓を受け取るが、心の奥底にある深憂が霞むことはなかった。
午後の授業中、由美は先生の声など全く入らないというように、耳栓をシャーペンで転がしながらため息を吐いていた。そんな彼女の背を、黒子はじっともの思わしげな顔で見ていた。他のクラスにいる赤司達も、きっと同じ気持ちだろう。ただならない感情に心を乱されながら、時間だけが刻々と過ぎていった。
「――由美」
放課後。解放された生徒達で賑わう廊下に出た由美は、後ろからかかった声に振り向いた。
「赤司くん、これから部活?」
「あぁ、由美は帰るのか?」
「うん、悠が早く帰って来いって」
今朝、悠に言われたことを思い出した。顔色が悪い、元気がないなどと耳にたこができるほどだ。しかし原因が原因であるため、詳しいことは悠に言えなかった。大事な弟をあまり危険に晒したくない。できるだけ自分の手で解決したいのだ。
少し気落ちしている由美の目尻に、赤司の手がそっと触れた。そのまま指で優しく撫でられる。じっと見つめてくるその双眸には、由美を心配する色が見えた。
「…赤司くん?」
「隈ができてる。眠れなかったのか…まぁ、無理もないか」
「平気だよ、これくらい。今日は耳栓もあるし、ぐっすり寝られると思う」
「そうか。でも、不安になったらいつでも僕の家へおいで」
その言葉だけで、由美は肩の荷が軽くなったような気がした。赤司だけではない、桃井達も、由美のことを親身になって考えてくれている。そこに個性は出るものの、助けになりたいという根底の気持ちは変わらない。皆、由美を大切に思ってくれているのだ。旧校舎で初めて出会ってからまだ一ヶ月程だというのに、まるで幼い頃から一緒にいたような、そんな雰囲気を由美はいつも感じていた。
頷いてみせると、赤司は微笑んでまた目尻を撫でた。するりと頬を伝って下ろされた手が、彼の右肩に下がるエナメルバックに戻った。体育館までの道を一緒に歩き、彼に「いってらっしゃい」と控えめに言えば、赤司は一瞬意表を突かれたような表情を見せた。すぐに返ってきた「いってきます」に、なんだかくすぐったいような気持ちになった。
* * * *
夜。机の上には、昨日由美を散々に追い詰めたピエロのオルゴールが横たわっていた。またいつ鳴り出すか分からないこのオルゴールを放置しておくわけにもいかず、金槌で叩き割ったのだ。そうすればこの部屋には音の鳴るものがなくなる。少しばかり安心して、学校で桃井から貰った耳栓を取り出した。曲が始まってからつければいいと思っていたが、安眠の為にもうつけておこうとそれを耳に運ぶ。そのとき、ドアがノックされる音に身体が大きく反応した。勢い良く振り返ると、きょとんとした顔の幹久と目が合った。
「どうした?電話だぞ、桃井さんから」
音に敏感になってしまっている自分にうんざりしながらも、電話を取りに一階へ下りた。こんな時間に電話とは、何かあったのだろうか。
「もしもし、さつきちゃん?」
『由美ちゃん、実はピアノ霊について調べてたら新しい事実が判明したの』
「新しい事実って?」
『電話じゃなんだから…由美ちゃんちの坂、おりたところの電話ボックスまで来てもらってもいい?一刻を争うから急いでね』
「あ、ちょっと、さつきちゃん…!」
こちらの話すタイミングが掴めないまま、通話は切れてしまった。それにしても、今の桃井の声は、普段とはどこか違う気がする。いつもの精彩が感じられなかった。つまりはそれほど深刻だということなのか。新しい不安が心を纏い始める中、由美は指定された場所へ向かうために外へ出た。
――その背中を、じっとあまのじゃくが見つめていたことに気づくことはなかった。
「…まだ来てないのかな」
電話ボックスの灯りと、ポツポツ見える住宅の灯りだけが暗闇にぼんやりと浮かんでいる。桃井はまだ来ていないらしく、広い空き地の入口に由美だけが取り残されたように立っていた。奥で待っていようと歩みを進めれば、背後に気配を感じてハッとした。
桃井が来た?違う。キリキリ鳴るキャスターの音が微かに聞こえる。心臓が飛び出してしまいそうなくらいに早鐘を打つ。由美の足が止まると、後ろのキャスターも止まる。ゆっくりと振り返ろうとした刹那、忌まわしき旋律が始まった。後ろを見れば、旧校舎のピアノが由美の前で曲を奏でていた。再び動き出したキャスターは由美を追い詰めるように進んでいき、当然由美も後ずさる。ハッとした由美はポケットから耳栓を取り出して両耳に装着するが、何故か曲ははっきりと聞こえてしまう。
「どうして…なんで聞こえるの」
付けているはずの耳栓をすり抜け、エリーゼのためには由美の鼓膜を揺さぶり続ける。後ずさる足が転がるカラーコーンにぶつかったのを合図に由美は駆け出した。
ピアノの音が聞こえなくなるまで、必死になって足を動かす。周りに音のするものがなければ、きっと大丈夫だ。あと少し、あと少しと音が遠ざかっていくのを確かめながら、ただひたすらに行く宛もなく走る。
やっと完全に音が聞こえなくなるまでの場所に辿りついた。ここがどこなのか分からないが、今はそんなことなどどうでも良い。息を整えようとコンクリートの壁に手をつくが、聞こえなくなった筈のピアノの音が突如として耳に蘇る。目の前にはあのピアノがどっしりと構えており、由美の喉には声にならない悲鳴が通り抜けた。踵を返して走り出すが、ピアノはそんな由美を嘲笑うかのように行く先行く先に現れてくる。溢れる涙を拭う暇もなく、執拗に追う演奏から逸走し続けた。
「あっ…!」
行き止まりにぶち当たった。すぐに引き返そうと振り返ったが、既にピアノは追いついており、由美はついに逃げ場を失った。旋律は止むことなく、ピアノはどんどん迫って来る。どうすることもできない由美は、頭を抱えて蹲るしかなかった。
しかし何時までたってもぶつかる気配はなく、判ったのは演奏が終わったということだけ。そっと頭を上げると、ピアノは忽然と姿を消していた。力なく立ち上がり辺りを見回すと、ピアノが消えていったと思われる壁に、ぬらりと血文字が浮かび上がってきた。
「あと一回」。その文字に の心は一瞬にして凍りついた。壁伝いに流れる赤が、実に生々しい。
「いやああああああああ!!」
もう逃げられない。死神に足を掴まれてしまえば、あとは引きずられていくのみ。あの陰惨な笑い声が、頭の中でけたたましく響いている。
* * * *
あれからどうやって戻ってきたのか判らない。気がつけば自宅近くまで戻っており、自然と足は隣の赤司家に向かっていた。インターホンを押せば、まるで由美を待っていたかのようにドアが押し開けられる。
「由美?どうしたんだ?」
ラフな格好の赤司が俯いた由美の顔を覗く。その表情で全てを瞬時に理解した赤司はまさか、と小さく呟くと、由美はそれに頷いて答えた。瞬きをすれば、瞳に溜まった涙がまた溢れてくる。こんな情けない姿を赤司に晒してしまうのは忍びなかったが、あのときの言葉に縋らずにはいられなかったのだ。滴り落ちる涙が地面にシミを作る。赤司は由美をそっと引き寄せ、壊れ物を扱うように頭を撫でた。
「大丈夫。君は、僕が守るよ」
何故だろう。赤司の言葉で、こんなにも安心するのは。まるで魔法のようだ。彼の放つ言葉には、何者にも屈しない力がある気がした。赤司のシャツの裾をそっと掴めば、それに呼応するように力強く由美を抱きしめた。
「――お前達、準備はいいね?」
「はいっス!」
「うん、おっけー」
「私の真似する幽霊なんて、会って直接お説教してやらなきゃ!」
「白戸、大丈夫なのか?ピアノに追い回されたと聞いたが」
「…今はだいぶ落ち着いたよ。ありがとう緑間くん」
夜も深いというのに、旧校舎の前にはずらりと鮮やかな髪色の持ち主達が並んでいた。赤司の招集に応じ、皆が駆けつけてくれたのだ。特に、霊に利用された桃井は相当立腹しているらしく、腰に手を当て仁王立ちで旧校舎を睨みつけている。各自持ってきていた懐中電灯を照らし、一向は音楽室へと歩き出した。由美はいつどこから来るか分からない演奏に身を縮こませていた。
「…きた!」
音楽室前に着いた途端、最後の演奏が始まった。扉に手をかける桃井が目配せをし、赤司が頷く。勢い良く開かれた扉の先には、無人で演奏されているピアノがあった。初めて見るその光景に、由美以外の全員が息を呑む。
「…本当に、無人ですね」
「おい!今すぐ演奏をやめろ!」
「やめないってんなら…!」
青峰と黄瀬が手近にあった椅子をピアノに振り下ろしたが、それが触れることは叶わず、衝撃波のようなものに弾き飛ばされてしまった。二人は打ち付けた腰をさすりながら身を起こす。
「ってぇ…なんなんスかこれ!」
「結界よ!このままじゃ私達、あのピアノに触れることすらできないわ!」
「うそ…じゃぁ……私まだ死にたくない…!」
沈痛な面持ちで声をしぼり出す由美に、たまらず桃井が抱きしめる。あと数分でこの命の灯火が吹き消されてしまうと思うと、身体中に戦慄が走る。
「死なせるかよ!」
青峰の揺るぎない言葉に、黄瀬も大きく頷く。再びピアノに立ち向かう二人に、緑間達も続いた。しかし結界の威力は相当なもので、先程よりも強い重力のようなもなが身体にかかり、全員が床に叩きつけられた。
「くっ…もうかなり曲が進んでいるぞ…!」
「どうすりゃいいんだよ!誰かなんか知らねぇのか!?」
「大ちゃん、落ち着いて…!」
焦燥感に駆られ、冷静さを失いつつあった。目の前に元凶がいるのに、このまま指を咥えて見ていろというのか。言いようのない憤りを拳に込め、床に振り下ろす。
そのとき、ずっと行動を起こさなかった赤司が、静かになにかを指差し口を開いた。
「……あのピアノは違う。本物の霊はあそこだ」
「ベートーヴェンの肖像画、ですか?」
「じゃあ、あれをどうにかすれば演奏は止まるんスね!」
「メトロノーム…メトロノームを探してくれ」
目を閉じ両耳をおさえ、何かを聞き取っているような赤司が呟く。由美はその言葉にハッとし、音楽室前の廊下を指差す。廊下に置かれたダンボールは、由美が先生に頼まれて運んできたものだった。
「確か、この間私が運んだ中に…!」
「俺が取ってくるっス!」
「え、ピアノが止まった…?」
突然止んだ演奏に戸惑っていると、黄瀬の邪魔をするように肖像画の目が緩やかに動き、それに合わせ音楽室の扉がぴしゃりと閉じられてしまった。負けじと扉を引く黄瀬の背後に、ふわりと浮いた机が襲いかかった。
「黄瀬くん!危ない!」
黒子の叫びとほぼ同時に鋭い音がしたと思えば、紫原が素手で机を割っていた。その拳は黄瀬の顔のすぐ横をかすり、パラパラと小さな破片が彼の周りを舞っている。
「いってー」
「むむむ紫原っち、サンキュ、っス……」
「まいう棒三十本でいいよ。黄瀬ちん、どいてて」
机が飛んできたことよりも、それを素手で破壊した紫原に怯える黄瀬はよろよろと後ろへ下がる。引いてもビクともしなかった扉は、紫原の足蹴りによって壊された。黄瀬と紫原がメトロノーム探し始めると、肖像画からずるりと霊が這い出てくる。
「急いでください!またあいつがエリーゼを弾きだしてしまいます!」
あとワンフレーズ…!
完全な姿を露わにした霊は由美を見下ろし、低い声でそう告げた。椅子に腰を下ろし、生身の人間のように最後の旋律を弾き始める。
「やめてぇっ…!!」
「赤ちん、メトロノーム!」
紫原から放り投げられたメトロノームを片手でキャッチした赤司は、由美の耳元で大丈夫、とだけ囁くと、ピアノの前に立ち射るような目で霊を睨む。
「おとなしく眠っていればいいものを」
そう言い放ち、メトロノームがリズムを刻み始めた。それに焦りを見せた霊は、自由を奪われたように空中へ浮かぶ。しかしその間も演奏は止まない。
「止まらねぇぞ!」
「早く!演奏が終わっちゃう…!」
焦りきった桃井達とは対照的に、落ち着き払った赤司がもう一度鋭い睨みをきかせると、霊はどんどんメトロノームに吸い込まれていく。断末魔の叫びが全て吸い込まれるのを確認した赤司は、メトロノームの振子をすぐに止めた。演奏は、あと一音というところで止んだ。
「……私、助かった、の?」
「ゲームオーバーだよ」
「白戸、おいどうした!?」
赤司の一言で重圧から解放された由美は、崩れ落ちるように倒れた。
* * * *
「由美ちんってばなんでいきなり寝ちゃったんだろうねー」
帰り道、赤司に背負われる由美の顔を覗き込みながら紫原が言った。深い眠りに落ちている由美は、頬をつつかれても起きる気配を見せない。
「きっと昨日は怖くて眠れなかったんスよ」
「しかし赤司、何故あいつの霊眠方法を知っていたのだ?」
「…さぁね」
「は?」
いくらなんでもそのはぐらかしは納得できない。緑間の素っ頓狂な声に、赤司はくすりと笑った。
「嘘!赤司くん絶対何かと交信してたでしょ!どんな霊なの、教えて?」
「それは桃井でも教えられないな」
「えー!?気になるじゃなーい!」
「あーもーさつきやめろよ幽霊の話なんか」
「おなかすいたー。あ、黄瀬ちんまいう棒三十本忘れないでね」
「もちろん、紫原っちは命の恩人っスから!なんなら倍いっとく?」
「まじ?いいの?」
「じゃあ黄瀬くん、僕はバニラシェイク一年分でいいですよ」
「えぇ!?そりゃないっスよ黒子っちー!」
各々の愉しげな声が飛び交う河川敷を、白い月が淡く照らす。赤司の背中に揺られる由美の表情は、いつもの穏やかさを取り戻していた。
《後書きスペース》
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