中流家庭育ちの知識人

鯉登少尉が「ユキの笑った顔を見たぞ!」と得意げに触れ回ったため、かなり早い段階で鶴見中尉の耳にもその噂が届くこととなった。

「そうか。ユキくんは笑顔を見せたのだな?」
「**!! ************!! *****!!」
「わからんッ!」
「月島ァ!!」

鯉登少尉を執務室に呼んで噂の真相を確かめようとした鶴見中尉だが、いつもの如く興奮した鯉登に早口の薩摩弁で返される。
上官に言葉が伝わらず、困った鯉登少尉は隣に控える部下の月島軍曹に顔を寄せ、ひそひそと小声で耳打ちした。

「……えっ、それを私が口にするんですか。」
「そうだ。さっさと鶴見中尉殿にお伝えしろ、月島軍曹。」

年下の上官に睨まれ、月島軍曹は渋々といった感じだが顔は無表情のまま言葉を伝える。

「……それはもう可憐な一輪の花のように愛らしく、この世のどんな宝石よりも美しかった、とのことです。」
「ほほぉ、そうか! それは私も早く彼女の笑顔を見たいものだ。
ここのところ毎日のようにユキくんの部屋に通っているということは、その愛らしく美しい笑顔を鯉登少尉は連日見ているのだな?」

羨ましいなと鶴見中尉が微笑みながら言うと、途端に鯉登少尉の顔色がズーンといった感じで悪くなった。
どよんとした雰囲気をまとったまま、鯉登少尉は月島軍曹に耳打ちする。

「…どうも、ユキさんは毎日笑顔を見せるわけではないようです。
……まだどこか警戒されているような気がして、私には心を開いてくれたのだと嬉しかったのに、気のせいだったのだと思うととても悲しい…と。」

伝え終わるやいなや、へなへなと床に崩れ落ちる鯉登少尉。
鶴見中尉は少し考える素ぶりを見せると、ああ、と何か思い当たることがあるような声を出した。

「もしかすると……鯉登少尉が毎日のように来るものだから、しつこいと感じたのかもしれんぞ?
年頃の女性の部屋に男が連日押しかけるものじゃないな、鯉登少尉。」
「キエッ……!」

鶴見中尉は、ユキの部屋に行くのは週2にしろと鯉登少尉に命令した。
この命令は彼にとってかなりショックだったようで、彼女の部屋に行ける日になるといつもの4割増しくらいで仕事のスピードが上がっていることを、月島軍曹は鶴見中尉に報告している。







「…………。」

ユキの部屋の前に立ったまま、ため息が出そうになるのをグッと堪える。
鶴見中尉から「今日からお前も通うように!」と突然の命令が下され、鯉登少尉が行かない日は月島軍曹が行くこととなったのだ。

ずっとこうしていても仕方がない。午後からの仕事は鶴見中尉によって全てなくなってしまった。お陰で月島軍曹は、暇だ。
恐らく、この部屋に月島が行く日はいつもこうなるのだろう。
月島は腹を決めると、襖に手をかけた。

「〜♪」
「!」

入ってもいいかどうか声をかけようとしたその時だった。
中から、歌声が聴こえた。

「〜〜〜♪」
「…………。」

何の歌かはわからない。わからないが、澄んだ歌声がとても美しく、旋律はどこか悲しげだ。
しばし聴き入り、歌声が止んだところで月島が声をかける。

「……失礼します。入っても大丈夫ですか。」
「…どうぞ。」

ほんの少しの空白を置き、彼女からの許可が出る。
襖を開けると、明治時代ではまだまだ珍しい洋服に身を包んだユキがこちらをじっと見つめていた。
拾われた時に着ていた服は、見た目が斬新すぎて明治にはそぐわないものだったため、鶴見中尉がユキのために元の服を参考に、柄や色味を明治時代に合わせたものを新しく数着、仕立て屋にわざわざ作ってもらって彼女に贈った。
今日着ているものは、そのうちの1着だ。
最初は着物を贈るはずだったのだが、洋服に慣れているために着物を一人で着られないとユキが言ったため、それを聞いた時はその場にいた鶴見中尉や鯉登少尉、月島軍曹と、全員がそれは驚いたものだった。

用意された座布団に座り、月島は目の前でお茶の支度をしているユキを見る。
ワンピース、と呼ぶらしい洋服に身を包んだ彼女。
着物と違って腰のくびれや、大きめでやわらかそうな胸の膨らみがはっきりわかる。着物ではあまり見えることのない足元が丸見えで、彼女の白い足首が見える。
何だかいけないものを見ている気持ちになり、月島は気まずそうに視線を逸らした。

しばらくして、お茶とお茶菓子の饅頭が用意された。

「どうぞ。」
「いただきます。」

月島がお茶とお茶菓子を堪能している間、ユキは黙って本を見ながら何か描いている。
彼女は部屋から出ることを許されていないので、本は誰かに持って来てもらったのだろう。

「…………。」
「…………。」
「…………。」

何か会話をしなければ、鶴見中尉が何のために自分を派遣したかわからない。
月島は思い切って声をかける。

「……あの。」
「はい。」
「さっきの歌は、未来で流行っているものですか。」
「…………やっぱり聴いてたんですね。」
「申し訳ない。」
「いいですよ。怒ってません。」

話しながらも作業を続けているユキを見て、器用なもんだと感心する月島。

「さっきの歌は流行ったといえば流行ったのですが、日本人全員が知っているようなものじゃなくて、知っている人は知っている、くらいの歌です。」
「綺麗な歌声だと思いました。」
「ありがとうございます。」

特には照れることもなく、ユキはシャッシャッと描き続ける。
表情が変わらないのを見て、お世辞だと思われただろうかと月島は少々心配した。

「随分と歌が上手ですが、学ばれたことが?」
「はい。楽器や音楽を習っていたことがあるんで、音の高さに声の高さを合わせることは得意です。」
「ユキさんのご家庭は裕福なんですか。」
「私のいた時代では中流家庭でした。」

スラスラと敬語を話し、文字の読み書きが出来て、食事作法が綺麗で、ナイフとフォークの使い方もわかっていて、絵が描けて、加えて音楽を習っていた、中流家庭育ちの娘。
一体彼女がいた時代の生活水準はどれだけ高かったのかと考えると、月島は目眩がしそうだ。

「…あの、ところで先程から何をされているのですか。」
「文字が読めるなら読書などどうだね、と鶴見さんが本を貸してくれたので、挿絵の軍服を模写しています。」
「隣で見ても?」
「どうぞ。」

許しが出たので膝歩きで隣に移動して手元を覗き込むと、そこには月島の想像以上に見事な軍服の絵があった。
よく見ると、階級を示す袖章に関する説明や、所属している隊を示す肩章の簡単な説明まで描かれてある。
参考にしているこの本の挿絵を見る限りだと、内容は恐らく、男女の色恋について書かれている本だろう。そんな本に袖章や肩章についての描写が登場するのだろうか。
しかも紙の端の方には、三十年式歩兵銃と三八式歩兵銃の槓桿(こうかん)部分と思われる図まで描いてあった。

「この本には袖章や肩章まで載ってあるのですか?」
「いえ、せっかく軍服を描くので、自分の持っている袖章や肩章についての情報も描き加えておこうかと。」
「ユキさんのいた未来では、あなたのような一般の女性でもそういう情報を知っているものなんですか。」
「うーん…………多分、私は珍しい類ですよ。
同じ年頃の女性なら、化粧品や服や装飾品に興味があるもんです。
そんな女の子相手に、軍服の生地の素材がどうの、帯革を締める位置がどうの袖章がどうの、弾薬盒の使い方だとか、小銃の槓桿の形が〜とか有効射程距離が何メートルあるだなんて語っても、面白いって言ってくれる子はいないですね。」

物騒なものでも知識を蓄えることが好きなんです、と話すユキの表情は横顔であっても、今迄で一番イキイキして見えた。









「ユキくんは笑ったかね? 月島軍曹。」

翌日の午前中に鶴見中尉からそう尋ねられた月島は、少し考えた後、

「……笑顔は見られませんでしたが、彼女の色々な面を見ることが出来ました。」

とだけ答えた。