満月


人事部長の尾形は同じ人事部の鬼頭夏也乃に気がある。
広報部の正蔵寺がそう勘付いたのは、いつのことだったか。
いつわかったかはさておき、そう思える理由ははっきりしていた。

鬼頭夏也乃は正蔵寺祐季の友人である。普段から昼休みや終業後に一緒に食べに行ったり飲みに行ったりする仲だ。
しかし、尾形人事部長と正蔵寺は然程仲が良いわけではなく、全く話すことがないと言っても良いくらい、接点のない組み合わせである。
そんな尾形がある日、接点のない平行線な相手である正蔵寺に、声をかけてきたのだ。

「鬼頭夏也乃は何が好きなんだ。」

何の前置きもなくそう話しかけられた正蔵寺が少しの間フリーズし、ようやく放った言葉は、

「同じ人事部ですしご本人に聞かれてみてはいかがでしょう……。」

だった。
正論。まさに正論である。同じ人事部、同じ部屋にいるのだから、本人に直接聞けば良いような内容だ。
しかし正論が通用しないのが、人事部長・尾形百之助であった。

「聞けたら聞いている。」
「デスヨネ〜。」

「どうして聞けないんだよ思いの外シャイボーイであらせられるよこのツーブロックちょっと誰かこの威圧感がものすごい根暗マンサーから私を助けてくれ」と脳内で言葉を並べながら祐季は周囲に視線をやったが、気付いているのかいないのか、誰一人として足を止めてはくれず。
見ていないフリを決め込んでいるのかスタスタと、心なしか普段の倍速で通り過ぎている気がする。
ここは適当にやり過ごそう、と開き直った祐季が、

「パンケーキとかパクチーとかですかね。」

と、取り敢えず巷でちょっと前に話題になったものを挙げたのだが、

「お前……適当に言っているだろ。」

と睨まれ、しまいには

「俺が人事部長であることを理解している上で嘘をついているのか? 広報部の正蔵寺祐季。」

と半ば脅される始末である。
秒で友人の好物に関する正しい情報を教えると、祐季はそのまま後ろ歩きで素早くその場を立ち去った。

それからも尾形は週2の頻度で祐季の元へ来ては夏也乃の好物やら贈ると喜ぶものやら、夏也乃についての情報をあれこれと要求するようになり、祐季への報酬は社内の自販機でミルクティーやいちごミルクを買ってくれるくらいのもので、尾形と夏也乃はあっという間に距離を縮めて式を挙げた。









「祐季さんは誰かいい人いないんです?」
「ん?」

昼休憩の時間、中庭が見える社内のベンチで並んでお昼ご飯を食べていつものように他愛ない話をしていると、ふと思い出したように夏也乃が言った。

「『ん?』じゃないですよ〜。誰か気になる人はいないのかなーって。」
「気になる人…………あー、杉元くんの髪型って毎日整えてるのか自然にああなるのか、気になるかなー。」
「そーじゃなくてぇ! 彼氏とか旦那にしたい人はいないのかって話ですー!」

はぐらかしが失敗し、口を尖らせる夏也乃に苦笑する祐季。

「…あ、そういえば最近、やたらと月島常務がこの辺りぶらついてません?
杉元くんたちとよくつるんでる鯉登専務にくっついて飲みに行くことはあっても、忘年会や歓迎会以外の仕事してる時はあまり会わないのに。」
「そうなの? 月島さんならポスターとか広告のデザイン決める会議でよく会うけど……。」
「あら、いつの間に月島常務のことを『月島"さん"』って呼ぶようになったんです?」
「ああ〜、何だか意気投合しちゃったみたいで、最近月島さんから食事に誘われるようになって、『常務だと堅苦しいから普通に呼んで欲しい』って言われたの。」

シュピーン!と、某眼鏡の小学生探偵の如く、夏也乃は一瞬で理解した。
なるほどね〜と一人、笑みを深める。

「へぇ〜? それは良かったですぅ〜。ふぅ〜ん?」
「……?」







夏也乃が「いい人いないのか」と祐季に聞いてから数日が経ったある日のこと。
月島常務は、またもや夏也乃の視界に入って来た。
もう帰る時間だし、いつもならそのままスルーしているのだが、今の夏也乃はスルーはしない。スススと近寄って、話しかけてみた。

「祐季さんなら鯉登専務に誘われて一緒にお買い物に行きましたよ?」
「! ああ、鬼頭か。鯉登専務と買い物……?」

「どうして探している人がわかるんだ」などと問うことなく、祐季と鯉登専務が一緒に買い物に行くことに対して何か思うところがあるのか、月島常務の眉間のシワが深くなる。それを確認すると夏也乃は畳み掛けた。

「ええ。鯉登専務の方は訛りがすごくて何言ってるかわからなかったんですけど、何だか2人して楽しそうに出て行かれましたよ。」
「どこに行ったかわかるか?」
「銀座に行くみたいでした。」
「……そうか。助かった。」

少し思案顔を見せてから、月島常務は行ってしまった。
フロアに残された夏也乃は笑みを深めると、丁度トイレから戻って来た尾形と一緒に家路についた。







尾形夫婦が仲睦まじく駅から自宅までの道を歩いている時、1人で銀座に来た月島は気が気ではなかった。
先程から頭の中では、自分の上司と想い人が高級レストランで食事をしている光景がずっと流れている。その後の展開まで流れそうになるのをダイナマイトで爆破するイメージで何とか阻止している月島だが、それもそろそろ限界だ。

(取り敢えず時計店の前に出てみたが……。)

銀座、という情報しか持っていないため、どこに向かえば良いのかわからない。
鯉登専務は祐季と、銀座の一体どこに行くつもりなのか。
こんなことなら多少気持ち悪がられても、鯉登専務に今日の夜の予定を聞いておくべきだった、と月島が後悔の念に駆られているその時だった。
見覚えのある2人組が、通りの向こうから歩いて来るのが見える。
2人は段々と近づいて来て、隣の鯉登と笑顔で話していた祐季がこちらに気づいた。

「月島さん! お疲れ様です。」

小走りで寄って来て笑顔で名前を呼ぶ彼女に笑みを返す月島だが、その表情はぎこちない。
少ししてから鯉登が追いつき、声をかける。

「おお月島ぁ! こんなところで1人でどうした? 待ち合わせか?」
「あ、いえ……。」

2人を直視することができずにやや俯く月島。鯉登の手には、林檎のマークでお馴染みのあのブランドの紙袋がある。

「お2人こそ、今日はお買い物ですか。」
「ああ! 仕事で使いやすくてプライベートで動画も見ることもできる何かいいタブレット端末がないかと、普段よくタブレットで絵を描いている正蔵寺に相談したらな、良いものを紹介してくれたのだ!」
「使いやすさや容量で考えれば、Ap◯le一択です! 鯉登さんなら予算の余裕もありますし! A◯ple製品を一括払いする人、初めて見ました。」
「そうなのか?」

何やら仲良さげに会話している鯉登と祐季。
「やけに仲がよろしいですが、お2人はお付き合いされているのですか。」
「正蔵寺は、鯉登専務のことも“さん”付けなんだな。」
「俺は30代ですがお2人は20代同士ですし、同じ九州ご出身ですし、似合いだと思いますよ。」
…などと色々な言葉が月島の中で浮かんでは消え、浮かんでは消え……。
この場で一緒にいる筈なのに、自分だけ別の世界にいるような感じだった。

「月島。」

呼ばれたので視線をやると、鯉登専務が祐季の両肩に手を置いて、彼女をこちらに押し出している。
どういうつもりなのかと月島が疑問符を浮かべていると、申し訳なさそうに鯉登専務は言った。

「私はこの後父と食事の予定が入っていてな……。すまんが、正蔵寺を送って行ってくれないか。2人のタクシー代は私が持つ。」
「…わかりました。」

鯉登と別れ、祐季と2人タクシーに乗る月島。
複雑な心境の月島に対し、祐季の方は窓から銀座の街並みを呑気に眺めている。

「銀座なんて普段来ないので、歩いていて新鮮でとても面白かったです。」
「そうか。」

「今日は金曜ですけど、他の平日もこんなに人が多いんですかね〜」と問いかけでない問いかけをしたりと、何とも無邪気な彼女をしばらく見ているうちに、段々月島はピリピリしているのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。

「そういえば腹が減ったな……。夕食は済ませたのか?」
「いえ、まだ食べてないです……。色々お店を見て回って、鯉登さんは奢ると言ってくれたのですが、それは何だか悪くて丁重に断りました。」

「家に帰ってからパパッと作って食べます」と言って笑う祐季に、月島は少し長い間を置くと、

「……お前で良ければ、うち寄るか?」

と、ぎこちない表情で提案した。
予想外の提案に一瞬不思議そうな顔をされたので、これは失敗だったかと月島は心配したが、数秒間ぱちぱちと瞬きを繰り返してから、徐々に彼女の表情は笑顔に変わった。

「え、いいんですか? 月島さんのお家?」
「ああ。家といっても狭いけどな。」
「他の人の家はやのちゃんの家しか普段行かないので嬉しいです!」

断られなかったなら脈なしではないのだろう、と胸の内で喜ぶ月島。
しばらくして、月島の自宅付近に着いたのでタクシーを降りる。せっかくなので何か作りますよと祐季が言うので、そのままスーパーに立ち寄って食材を買い、2階建アパートの階段を上がる。

「お邪魔します。」
「少し散らかってるが、遠慮なく寛いでくれ。」

散らかっていると言うが2DKの部屋は綺麗に整頓されており、いや、綺麗というよりは、必要な家具以外の余計な物がなく、殺風景とも言えるそんな部屋である。
荷物を置いて、祐季は簡単にサラダと卵焼きと炒めたベーコンを用意して、食卓を囲む。
家でこうして誰かと一緒に食事をするのはいつぶりだろうか、と、月島はすっかり疎遠になった親との思い出を辿るも、そういえば実家でも親と一緒に食事をしたことがなかったな、と自嘲してかぶりを振った。

食事を済ませて後片付けも済み、他愛ない会話を楽しんだ2人。ふと時計を見た祐季は、すっかり長居してしまったと慌てて帰り支度をし始めた。

「帰るのか。」
「はい、そろそろ行かないと終電逃しちゃいますし。それにあまり長居しちゃうと、月島さんに悪いです。」
「……正蔵寺。」
「? はい。」
「今夜は泊まって行け。…俺は、もう少しお前と一緒にいたい。」

その言葉の意味がわからない程、祐季は鈍感ではない。月島の頬は赤くなっており、その瞳が妙に熱っぽいのはきっと気のせいじゃないし、自分の顔もきっと赤いんだろうと祐季は俯いた。
泊まって行くかと問われ、祐季が真っ赤な顔で小さく頷いたのを確認すると、月島は彼女を抱きかかえてベッドへ運んだ。
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