夫婦喧嘩は犬も食わない



昨晩、尾形人事部長は嫁と喧嘩した。
珍しく喧嘩した。
自分の言動の何が嫁をあんなに怒らせたのか、正直尾形にはまだ理解出来ていなかった。
けど今朝起きたら、先に出勤されてしまってはいたものの、リビングのテーブルには自分の分の弁当が用意されていたため、何だかんだそこまで怒ってはいないんだろうと考えていた。
昼休みまでは。

「…………。」

弁当の包みを開き、蓋を開けて中身が見えた瞬間、尾形はフリーズした。
メインになり得る肉や魚が一切歌詞に出てこない「お弁当箱の歌」のおかずがものすごく贅沢なものに思えるほど、今回の弁当は衝撃的であった。

「ん? どうした尾が……うっわ何その弁当!! 真っ黒じゃん!!」

尾形が目をかっ開いてフリーズしているので様子を見に来た営業の杉元だったが、尾形が見ているものを見て思わず驚いた。

「これまさか全部しいたけ? それも生の……。
前に得意げに自慢してたけど、お前の弁当っていつも夏也乃ちゃんが作ってくれてるんだろ? ……何したのお前。」
「……喧嘩した。」
「え、珍しい。」
「はー……。」

弁当箱を片付けて項垂れる尾形が流石に可哀想になったので、杉元は自分が飲もうと買った缶コーヒーを、黙って尾形の机に置いて立ち去った。

(コーヒーだけで午後をしのげるわけねぇだろ……。しかも微糖かよ。)

尾形には、杉元の優しさが一切伝わってはいなかったが……。






仕方がないのでコンビニで弁当を買い、会社に戻った尾形。
廊下で鯉登と月島に遭遇し、声をかけられる。

「む? 尾形。珍しくコンビニ弁当か? 杉元が言っていたが、いつもは嫁の愛妻弁当なのだろう?」
「…………。」
「ど、どうしたんだ尾形……。顔が恐ろしいことになってるぞ……。」

あまりにも尾形が睨むので、怖くなった鯉登専務は「キエッ」と言いながら月島常務の後ろに隠れた。
それを横目に見ながら、月島は尾形に声をかける。

「いつも以上に精気のない顔をしているが、何かあったのか?」
「……月島常務殿は、嫁と喧嘩したことがありますか。」
「は? 祐季とか? まぁ、なくはないが……。」
「なら今日仕事が終わってからでいいので少し相談させて下さい。」

一方的に約束をすると、尾形はそのままスタスタと早歩きでいなくなってしまった。

その日食べたコンビニ弁当は、味がしなかった。








「ああ、なるほど……。今迄嫁さんと喧嘩らしい喧嘩をしたことがなく、初めての大喧嘩でどうしたらいいのかわからないんだな?」

行きつけの飲み屋の個室で尾形が今回のことについて相談すれば、月島はようやく納得した。

「しかし、お前から相談される日が来るとはな。」
「……月島常務も嫁と喧嘩したことがあると言ってましたんで、それなら相談してみる価値はあるだろう、と思いましてね。
月島夫婦といえば、見ているこっちが恥ずかしくなるほどあんなにお熱いというのに、一体何がどうなって喧嘩に発展するんです。」
「……まぁ、男のプライドを傷つけられて…いや、あいつに悪気はないんだがな。」
「?」

口籠る月島を、説明を求めるように尾形がひたすら無言で見つめていれば、「絶対に祐季には言うなよ」と念を押してからようやく語った。

「……あいつが俺のことを『可愛い』と時々言うから、可愛いと言われても嬉しくないと伝えたんだが、そう言われても可愛いのは可愛いと返されてな。」
「はぁ。」
「俺が可愛くないとわからせようとムキになってそのまま寝室に連れ」
「あー、この唐揚げすごく美味しいなぁー。」
「は?」
「ビールも最高に旨いわー。」
「おい。」

月島の話を唐突に、菜切り包丁で上からズドンと勢い良く白菜を真っ二つにするかの如く、本当に唐突に尾形はぶった切った。
その表情は、明らかに月島の話に興味を抱いていなかった。

「なんだ尾形。これからだろ。」
「これからって月島常務……。それ最早喧嘩話じゃなくてただの惚気話じゃないですか。どーせそのあと嫁さんとしこたまやったんでしょわかりますよいいですねー月島じょーむは嫁さんと仲良しこよしでー!」
「尾形、」
「こっちは最愛の嫁さんと今夜やれるかも危うくて、喧嘩したせいで昨日の夜もやれてねーから欲求不満が爆発しそうなんですよ。
好きな女に触れられないこの苦しみは、好きな時にやれるムッツリスケベな月島じょーむには理解出来ないんでしょうよこのおっぱい星人!」
「…………。」
「………………すみません、言い過ぎました。」

怒ることも言い返すことも否定することも出来ず、苦虫を噛み潰したような顔でじっと見つめたままかたまる月島を見て我に返った尾形だったが、二人の間にはなんとなく居心地の悪い、嫌な空気が流れる。
ややあって月島が嫌な空気をごまかすように、枝豆の鞘の筋を手際良く無言で剥き始め、尾形もジョッキに半分残っているビールを無言でちびりちびりと飲んだ。

少しして二人は気まずいまま会計に進み、月島は早く済まそうと焦って財布から小銭を数枚床に転がしてしまってそれらを拾い集め、2、3枚尾形が拾ってくれたのもあってとにかく気まずかったし、尾形は尾形でLINE Payでサッと済まそうと焦るあまり某コンビニのと混同して「ファミンペイで」と言ってしまい、店員さんが笑いを堪えるのに必死で終始変な笑顔で応対するので気まずいのと恥ずかしいのとで尾形の脳内はいっぱいいっぱいであった。

気が進まないが帰らないわけにはいかないので尾形が恐る恐る鍵を開けて玄関の扉を開くと、そこには妻の夏也乃がいつものように笑顔で立っていた。
喧嘩していたのにと尾形が言うと、

「え? 喧嘩? ……百之助さんのこと大好きだからもういいかなって!」

と笑って返されたので、怖かったのと不安だったのと安心したのと嬉しいのとで、尾形は軽く涙目になった。
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