百合ちゃんと誉くん


「お前、全っ然可愛くねえな!!」
「まあっ、年上のレディーに対して礼儀がなってないのね」
「なーにが年上のレディーだよ! たったひとつ年違うだけの、ただのおすまし人形のくせに!」
「っ……!」

尾形家長女・百合と、月島家長男・誉は、喧嘩した。
いつもの涼しい顔を崩し、目に涙をためて赤い顔で口をキュッとさせた百合に、誉は反射的にギョッとする。

「あ……」

そのまま彼女は背中を向けて走り去ってしまい、伸ばした手は届かなかった。


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「あれっ、お帰りなさい。今日は早いねぇ」

息子がいつもよりかなり早く帰って来たので、少し驚いた顔で祐季が出迎えると、誉はうつむいたまま、勢い良く正面からしがみつく。

「……百合ちゃんと何かあった?」
「…………喧嘩した」
「あらまあ」

こののんびりした母親が自分を滅多に怒らないことをわかってるため、誉は何か困ったことになると、こうして母に甘える。

「にーちゃ、おかえいー!!」

リビングからトタトタと長女の糸が駆け寄って来たところで、祐季はとりあえず、甘えん坊な誉に手を洗うよう促した。

「俺、結婚するなら母さんがいい」
「お父さんが悔しがっちゃうねぇ」

おやつの手作りホットケーキを食べる誉から突然告白され、祐季は洗濯物を畳みながら苦笑する。

「百合ちゃんはどう? お母さん、あの子は絶対美人になると思うんだけどな〜」
「やだよあんな可愛くない女!」

百合、と聞いた途端、誉は仏頂面で抗議した。

「母さんは怒らないし威張らないし、優しいから好きだけど、あいつ、会ったらいつもあーしろこーしろって偉そうでムカつく!」

ブリブリ怒る息子に、祐季は尾形家の、色白で長い黒髪が美しい娘を思い浮かべる。
「清らかに美しく育って欲しい」という父親の願いで「百合」と名づけられた、誉よりひとつ年上の彼女は、誉に対してはお姉さんぶりたいお年頃のようだった。
ボタンが取れかけていれば「繕ってあげる」と言ってボタンを縫いつけ、顔に汚れがついていれば、ハンカチを取り出して拭ってあげていた。

誉は、父親の基によれば「ガキの頃の俺そっくりだ」とのことで、とにかく元気で喧嘩っ早い直情型だ。何かやらかす度に、怒る父親から逃げようとして母親を頼る。
妹の糸はまだ3歳だが、明らかに母親似だった。しかし、怒られても転んでもヘラヘラ笑う能天気なところを見ると、母親の性格を数倍濃くした感じだと思われる。

「……そういえば、なんで百合ちゃんと喧嘩になったの?」
「…………母さんの自慢してたら、あいつが俺のこと『マザコン』って馬鹿にしたから、それで……」
「おおぅ……」

若干の嬉しさを感じるために、叱ろうにも叱りにくい理由だった。


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一方、尾形家。
いつもより早く帰った娘を見て、夏也乃は「ははーん」と勘づいた。勘づいた上で、娘に問う。

「いつもは6時前まで月島誉くんとの時間を過ごすのに、今日は早いのね?」
「あんなマザコン野郎、もう私の手には負えない……」
("マザコン野郎"……)

「明日からは何もしてあげないんだから!」と、涙で赤くなった目を険しくさせる百合。
喧嘩したことは明らかだが、どんな内容のものだったのか興味がないとは言えない夏也乃は、出来るだけ傷つけないよう注意し、聞いてみる。

「あんなに仲良しだったのに、なんで喧嘩になっちゃったの?」
「だって……だってあの子、私という絶世の美女を差し置いて、『母さんの作るご飯が美味しい』『父さんに怒られても守ってくれる母さんが好き』『お嫁にするなら母さんがいい』……って、ずーーーーーっと母さん母さん母さんしか言わないんだもの!」
「可愛い」
「挙げ句の果てに『お前は母さんと違って全然優しくないから、嫁になんか行けねぇな』って笑うしもう嫌い!」

やわらかほっぺをぷくーっと膨らませて怒る8歳の娘を見た夏也乃は、写真を撮りたいのを頑張って我慢した。

「そうねぇ……百合ちゃん。どんな男でも落とせる籠絡テクニック、お母さんが伝授してあげましょうか?」
「ろうらく?」
「誉くんをモノに出来ちゃうテクニック、よ」
「知りたい!」

「すぐ食いつく辺り、流石は私の、いえ、私たちの娘だわ……」と、夏也乃は感動と喜びを感じた。


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翌日、月島少年は足取り重く、学校へ行った。
昨日の夜、百合に会うのが嫌だから学校には行きたくないと、誉は母親にしがみついて訴えたのだが、たくましい腕を組んで険しい表情で仁王立ちする父親から、「行きなさい」と静かなトーンで言われたのが怖くて、己の無力さを思い知った。
けど、別にいいのだ。今日は学校から帰ったらギューッてして、その上お風呂に一緒に入ると、昨夜母親が約束してくれたのだから!
(その約束を母親が提案した際、父親は「甘やかしすぎだ」と笑って呆れていた。)

この日、いつも以上にすごく長く感じた時間が過ぎ、ようやく放課後になり、普段なら百合と一緒に歩いている通学路を、月島少年は一人で歩く。

「誉くん!」

いきなり呼ばれて振り返ると、そこには百合がいた。

「な、なんだよ。なんか用かよ、おすまし人形」

戸惑いを見せながらも、誉は突き放すような言葉を投げつける。
しかし百合は昨日のように涙を見せることはなく、それどころか優しげに微笑みながら、誉に近づく。
いつもと違う妖しい雰囲気を纏う少女に魅入られてしまった誉は動けず、二人の距離は1メートルもない。

「……昨日はごめんなさい、誉くん」
「いや、別に……」
「私の方がお姉さんなのに、私……誉くんをいっぱい困らせちゃった」

百合は誉の右手をそっと両手で包むと、そのまま自分の頬に当てた。

「なっ!?」
「誉くん……私を許してくれる?」

どこか憂いを秘めた表情で見つめられ、右手で感じる、少女のやわらかな手や頬の感触と温度。
今まで経験したことがない状況に置かれ、月島少年は真っ赤な顔で金魚のように口をパクパクさせながら、けれどなぜか目の前の少女から目が離せず、しばらくしてから、

「許しまふ」

という言葉をなんとか喉の奥から絞り出した。
許すと言われた百合は、パァッと花が咲くような笑みを見せると、

「嬉しいっ……!」

と言って誉に抱きついた。
まだ少女である百合に、誉の母親ほどの弾力はないものの、年の近い女の子からハグされているというシチュエーションに、誉のキャパは限界を迎えようとしていた。

「優しいのね、誉くん。……好き」

そしてここで耳元への囁きを受け、誉は落ちた。


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「父さん」
「誉……出迎えは嬉しいが、もう何時だと思ってるんだ」
「母さんが父さんと結婚したのって、やっぱ父さんがムキムキで強いからなのか?」
「は?」

その日の晩、約束通り母親と風呂に入り、誉は夜遅くに仕事から帰った父親を問い詰めた。
上着を脱ぎ、ネクタイを緩め、冷蔵庫から缶ビールを出してグラスと共にテーブルに置き、テーブルに置いてあったラップのかかったおかずをレンジで温める。
その間ずっと、誉は父親の後ろをついて回った。

「百合の父さんは白いけどムキムキだし、俺もムキムキにならねぇと、嫁にすんの無理かな……」
「……あー」

父親はなんとなく察した。息子は、尾形の娘に惚れているのだ、と。
それと同時に、もし自分の息子と尾形の娘が夫婦になった場合、自分と尾形は親族という関係になり、今以上に躊躇いなく向こうから絡まれる、常軌を逸した面倒くささに苛まれるのだろう、とも考えた。


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「もっとテクニックを教えてお母さん、いえ、お母様!」
「ふふふいいわよ百合ちゃん! あなたはきっと、私や百之助さん以上のテクニシャンになれるわ……!」

ベッドの上でエキサイトしている妻と娘の会話を、尾形は背中越しに聞かされていた。そんな尾形の目の前では、百合の弟・和馬が呑気に寝ている。
娘を想う父親の立場で言わせてもらえば、これ以上可愛い自慢の娘を"野郎ホイホイ"に育ててくれるなと、妻に頼みたい。なんなら土下座で懇願してもいい。

はあ、とため息をついた瞬間、尾形は突然仰向けに寝かされた。

「えっ」

なんだなんだと混乱しているうちに、自分の上に妻が跨っていた。

「おい、ちょっと待て! 娘と息子がいるんだ勘弁してくれ」
「いい? 百合ちゃん。よーく見てるのよ」
「はい! お母様!」
(おいおいマジかよ……)

尾形は割と必死に祈った。どうか自分が、【子供のすぐそばで妻と致すことに興奮する】という新たな扉を開くことが起こりませんように、と。
そんな父親に構うことなく、母と娘の籠絡レッスンは続けられる。

「こうやって、相手が寝ているところにまず跨ります」
「はい!」
「相手の上半身を手で撫でながら、口を耳元に寄せます」
「はい!」

俺は一体何をさせられているんだ、こんな時間に嫁は娘に何を教えているんだ、娘は何をそんなに真剣にメモしているんだ、などなど、尾形はやれる限りのツッコミを脳内でしたが、夏也乃から耳に息をフッと吹きかけられたことで、全ての思考が停止した。

「お父さんがピクッて動いたわ!」
「私は左耳を吹くので、百合ちゃんは右耳でやってみて」
「はい!」
「やめろ〜」

尾形はその晩、全く寝かせてもらえなかった。

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