過去で待ってる。


鬼頭夏也乃、という女の人は、とても不思議な人だ。
突然現れた俺を何も疑うことなく家に置き、着替えも用意してくれたし、いつもニコニコ笑って話す。

よくわからないけど美味しそうな匂いと見た目をした、見たことも聞いたこともない食べ物が食卓に並び、食事中にも関わらず、鬼頭夏也乃はよく話しかけてくる。
家族全員黙って食べる光景が普通だから、どういう顔をすればいいのかわからなくて、なんだか頭が破裂しそうになる。
冬の時期に、あんこう鍋以外の食事を食べるのも、生まれて初めてだった。

ある日の食事に嫌いなしいたけが入ってて、しいたけだけ残したら、それ以降、食事にしいたけが出なくなった。

あまりにも至れり尽くせりな生活だから、俺も何か渡した方がいいかと思い、一緒に持って来ていた猟銃で外の鳥を狙っていたら、かなり慌てた様子の鬼頭夏也乃に止められた。
「じゅうとうほう」がどうのと言っていたけど、よくわからない。

鬼頭夏也乃が言うには、ここは明治時代ではなく、150年も先の未来……らしい。
まあ、これだけ何もかもが異なっているのだから、明治時代じゃないのは確かだと思う。
台所に竈がないし、部屋の明かりは蝋燭やランプを使わない。
厠は汲み取り式ではなく、水で流す。しかも便器に直接座れて、しゃがんでは用を足さない。
風呂は竃に薪をくべない。「しゃわー」というらしい管から、ずっとお湯が流れ続ける。風呂に入る頻度は高く、鬼頭夏也乃はほぼ毎日風呂に入るようだ。
部屋には温度を一定に保つ「えあこん」があり、寒さに凍えることがない。

……本当に同じ日本なのだろうかと、なんだか頭が痛くなる。
これだけ便利なら時間がかなり余って、この時代の日本人たちは、さぞ毎日ゆっくり過ごせるんだろうと考えていたが、月曜日から金曜日までの5日間は朝から晩まで外に働きに出ている鬼頭夏也乃を見る限りでは、そうではないらしい。
「働かないと、月々の支払いがあるのよ」と言っていたけど、この時代では、女の人がそうまでしてお金を稼がなければならないのだろうか。

20歳を超えていると言っていたから、旦那さんが早くに病死したのか、と尋ねたら、ぽかんとしたあとに「まだ結婚してないよ!」と笑っていた。
鬼頭夏也乃が言うには、この時代では30歳を過ぎて結婚する女の人が割といて、しかもそれは特に珍しい話でもないらしい。
30を過ぎての結婚だなんて、子供はまず産めないし、残りの人生は20年くらいしかない。
そんな年増の女の人をわざわざ嫁にする男が、この時代の日本には数多く存在するのか。
価値観の違いを感じる。

夜はふかふかのお布団、ではなくて、「べっど」という寝具で寝る。
一人で寝られると何回も伝えたのに、「いいからいいから」と、鬼頭夏也乃が締まりのない顔で隣に俺を寝かせる。
誰かと一緒に寝るのも慣れてなくて、落ち着かない。

笑いもしない、怒りもしない、泣きもしない。それに、口数も少ない。

「俺みたいなのといて、気味が悪くないのか」

となんとなく聞いてみたら、鬼頭夏也乃は一瞬だけ驚いたような顔を見せたけど、すぐに笑って、

「百之助くんは可愛いし、優しいよ」

と言って、頭を撫でてきた。
……こんな大人、俺は知らない。

次の日も、また次の日も、その次の日も、鬼頭夏也乃は俺に優しい。優しいというか、甘いと思う。
なんでも一人で出来るのに、俺はそこまで子供じゃないのに、甲斐甲斐しく世話を焼く。

ある日俺は、なんとなく勝手に家を飛び出した。
その辺を歩いていたら、馬より速い、全部が鉄で出来ている何かが、とんでもない速さで道を横切る。
道を渡るのは難しいと判断したので、道沿いに歩いてみることにした。
歩いている人もいれば、二つの輪が並んだ謎の乗り物に乗って走る人もいた。

しばらく散歩をしていたら、後ろからかなりの速さで誰かが迫ってくる気配がしたから振り返ったら、とても焦っている様子の鬼頭夏也乃が全速力で走って来ていた。
いつもの笑顔はなくて、苦しそうな顔をしていると思ったら、勢い良く抱き締められた。
俺を抱く鬼頭夏也乃の体は震えていて、なぜ笑っていないのか、なぜ俺を追いかけて苦しそうな顔をしたのか、なぜ俺は抱き締められているのか、色々よくわからなかった。

「帰ったらどこにもいなくて心配した……! 無事で良かった……!」

そう言って俺を見た鬼頭夏也乃の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていて、けど笑っていた。
勝手に家を出て行ったのだから、俺を怒るか叩くかすればいいのに、「良かった」とただ繰り返して、笑うのだ。
……やっぱり、この人はよくわからない。

この日を境に、俺の体は少しずつ透けるようになった。
もうじき完全に消えると思われる日、鬼頭夏也乃は俺を抱き締めたまま、ずっと泣いていた。

「多分これは死ぬのではなくて、元いた時代に帰るだけだ」

と伝えたら、「いなくなるのは寂しい」と言ってまた泣く。
理由はわからないけど、鬼頭夏也乃の泣き顔を見ながら消えるのは嫌だと思ったから、

「今度はそっちが俺のところに来ればいい」

と言った。

……最後に見たのは、鬼頭夏也乃の笑顔じゃなくて、ぽかんとした間抜けな顔だった。


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「先日からわけあって第七師団で保護することとなった、鬼頭夏也乃くんだ。色々と面倒を見てやれ。尾形上等兵」

鶴見中尉から紹介された彼女は、あの笑顔で挨拶をした。

「これからよろしくお願いします。尾形さん」


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