誉くんのお母さん


うちに来いよと誘われた瞬間、百合は嬉しすぎて足が地面から浮いているかのような高揚感に包まれ、顔は熱くて湯気が出ているかもと思った。

(…………だけど)

彼の家に行くということは、その母親とも会わなければならないということ。

尾形百合は、月島誉の母親が苦手だ。
誉は大体いつも、母親のことを話題にする。

「昨日、母さんが作ったハンバーグが美味かったんだ!」
「こないだのテストは難しくて50点くらいしかとれなかったけど、母さんは合ってるところを褒めてくれたんだ。わからなかったところを母さんに教えてもらおうとしたら父さんに見つかって……」
「母さんは、なんで父さんみたいな怖い男と結婚したんだろうな〜。んー……けど父さん、母さんにはなんか優しい気がするし、母さんも父さんのことを怖がってないし……」

などなど、母親のネタが尽きることはない。
けど、ネタがどうであれ、百合は自分の前で他の女の話をされるのは、どうも我慢ならんのだ。彼の母親だろうと関係なく、自分以外の女は「他の女」なのだ。

「ただいまー!」
「……お邪魔します」
「お帰り〜。あ、百合ちゃん! いらっしゃい。今日も可愛い〜」
「…………どうも」

月島家に着くや否や、玄関にて歓迎される。
どれだけ百合がそっけなく、愛想のない挨拶しかしなくても、誉の母・祐季は「可愛い」と言って頬を染めてうっとりした表情を見せる。

いつも母親と一緒に出迎える可愛い妹の姿がないため、誉はキョロキョロと落ち着かない。

「あれ? 糸は?」
「糸はね、お昼過ぎに鶴見さんがうちに来て、デートに連れてっちゃった」
「またぁ? 今日はどこ行ってるんだよ」
「うーんとね……水族館に行くって言ってた」

誉の父親や、百合の両親が働く会社・金神コーポレーション第七支部の支部長(普段は「社長」と呼ばれている)の鶴見は、可愛い右腕である月島基の娘にデレデレであり、そこそこの頻度でデートに連れ出している。
今日は平日で、いつも通り業務はあるはず。「午後休とっちゃった!」と鶴見は明るく言っていたが……支部長不在の午後は、月島常務を始め、鯉登専務もその他社員も大忙しのてんてこまいだろう。

祐季が二人のおやつを用意している中、リビングにて、ランドセルから宿題のプリントを数枚引っ張り出し、「まずは国語からだな」と誉。
誉は勉強が苦手で、父親や杉元や明日子から教えてもらったりしてなんとか努力をし、30〜40点が主だった以前に比べれば、最近のテストでは50〜60点をとれるようになっている。
しかしそこからなかなか伸びず、今日は年が近くて勉強が得意な百合に来てもらって、教えてもらうことになった。

「一年生レベルの読み書きくらい完璧に出来ないと、この先困るわよ」
「あーもーわかってるよ! いいからこの漢字の読み方教えろよ」
「教えてあげてもいいけど……頼み方ってものがあるわよね?」
「ッ…………この漢字の読み方を教えて頂けますか」

悔しそうな顔を見せながら丁寧に頼む誉を、ふふんと笑って嬉しそうに眺める。
そしてわざと顔を近づけて耳元で答えを囁けば、「ばっ…近ぇよ!!」と動揺するのでとても愉快だ。

「百合ちゃんみたいな美人から教えてもらえるなんて、いいなぁ〜」

呑気な口調で、祐季がおやつをテーブルに置く。今回のおやつはキャラメルババロアで、飲み物は紅茶だ。

「げっ、紅茶……。サイダーが良かった」
「ババロアは甘いから、紅茶がいいよ。それともコーヒーが良かった?」
「……コウチャガイイデス」

前に父親が飲んでいるのをこっそり飲み、あまりの苦さに悶えたのを思い出す誉。
(「なんでわざわざ苦いものを飲むんだ」と言ったら、「この苦味の良さがわかるようになれば大人だ」と父が得意げに返し、コーヒーの苦味が苦手な母から「ということは、私はまだ子供だと言いたいんですね」と茶化され、慌ててフォローをつらつら述べ始める父が面白かった、と後に誉は語る。)

「誉くん、紅茶飲めないの?」
「…………飲める、けど……苦いから苦手だ」

大きな瞳で不思議そうに見つめられ、誉は気まずそうに目線を逸らす。
その様子を見て、フフッと母は微笑む。

「最近少しずつ飲めるようになったの。百合ちゃんが紅茶好きだから、自分も飲めるようになりたいんだって」
「え?」
「母さんっ……!」

顔を赤くしながらあわあわと両手を宙に泳がせている誉を見るに、本当のことらしい。

「ほ、ほんとに……?」
「だってお前、俺のお、およ……お嫁、さんになりたいっていつも言ってくるだろ。結婚するんなら、同じものを好きな方がいいかと思って……」
「……!」

思いもよらない発言を受け、今度は百合も赤くなっていく。

「けど俺、やっぱお嫁にするなら母さんがいいって思う。怒らなくて優しいし、褒めてくれてやわらかくて、ご飯が美味しくてお菓子も作れて、父さんのことが羨ましい」
「…………」

……マザコン発言を重ねられ、顔から赤みが引いていくのを感じる。
わなわなと口元を震えさせる少女を心配した祐季がそばに座ると、百合は思いっきりしがみついた。

「私だって怒りたくて怒ってるわけじゃないもん! せっかく二人になっても誉くんが母さん母さんって母さんのことしか話さないから怒っちゃうんだもん!!」
「あらまあ……」

小刻みに震える小さな背中に手を添えると、抱きつく力が強まる。

「お料理はお母さんから教わってるからすぐ上手になるし、お菓子作りは……今度から誉くんのお母さんに習うもん!! おっぱいは……頑張って大きくするもん!!」
「おっぱ……」
「おっぱいの話なんか俺してねーだろ!!」

誉の反論に、胸に顔を埋めた状態で百合も反論を投げつける。

「してるもん!! お母さんのやわらかいとこっていったらおっぱいのことだもん!! 私のお父さん、お母さんのおっぱいがやわらかいって前に話してたもん!! 時々揉んでるの見るもん!!」
(尾形さん……)

不可抗力とはいえ、子供の口から尾形夫婦の(性的な)諸事情を聞いてしまったことへの罪悪感を、祐季は覚える。

「おっぱいだけじゃなくて尻もやわらかいって、俺の父さんが言ってたぞ!! あと、太もももやわらかいって父さん言ってたぞ!!」
(基さん……)

その話を一体いつ、どういう状況下で聞いたのかを詳しく知りたいと、祐季は遠い目をする。

しがみついて泣きじゃくる百合を抱いたまま、しばらく背中を一定のリズムでトントンと優しく叩く。
誉はといえば、百合を泣かせて気まずく思ったのか、部屋に閉じこもってしまった。

少し落ち着いたところで百合は、涙でぐちゃぐちゃになった顔で祐季を見上げた。

「……服、汚してしまってごめんなさい」
「洗濯するから大丈夫。それより、せっかくの綺麗な顔が可哀想なことになってる」

目尻の涙を指ですくい、頬を撫でると、「ちょっと待っててね」と言って棚からハンカチを一枚出して、台所で水に濡らして絞り、それで百合の目元をポンポンと押さえた。

「……私はねぇ、百合ちゃんのことが大好き」
「へ……?」
「料理を教わったり、お嫁さんになりたいっていつも伝えたり、なんとか誉に合わせようと努力してるから、頑張り屋さんだから、好き」
「お……お母さんから、狙ったら外しちゃ駄目って教わったから……」

流石やのちゃんだ、と思わず笑みが溢れる。
膝上に座らせて、父親に似た大きな目と白い肌、8歳とは思えない母譲りの大人な雰囲気を持つ少女を見る。

「……楽しみだなぁ、百合ちゃんが娘になるの」
「っ!」

ぶわわわっと感情がせり上がり、恥ずかしくなって俯くと、ギュッと抱き締められた。

「可愛いっ……!」
「……ズルい人」
「え?」
「なんでもないです」

帰り際、部屋から出て来た誉は母親に抱きつきながらではあれど、「泣かせてごめん」と謝った。
祐季からは「お菓子、一緒に作ろうね」と誘われ、百合はその後、誉が家にいない時も月島家にてお菓子作りを教わることとなる。






「お母さん、誉くんのお母さんもお母さんに色々仕込まれてるの?」
「え? どういうこと?」
「誉くんのお母さんといると、不意打ち多すぎてドキドキする。心臓もたない」
「あー……あれは計算じゃなくて、素でやってることなのよ」

耐性がつくまで、百合は苦労したという。
そして後に、今度は祐季の方が百合からドキドキさせられることとなるのだが、それはまだ数年先の話である。



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