いつか来るさよならのために

ぐちゃぐちゃで今にも消えてしまいそうな呪霊を前に、かやのちゃんは「やってしまったー!」と頭を抱えて天を仰いだ。

「捕獲の依頼なのに……! もうこれ無理じゃない!?」
「そう、ですね……。ここまで原型留めてないと、家入さんでも厳しいかと」
「またゆきねえに怒られるー!!」

フォローが難しすぎて、どんな言葉を選んでも今回の任務が失敗だという結果は変わらない。
ああ……今すぐ頭を撫でて労いたい!
けど他の人もいる手前、いくら夫婦だからと言って公然イチャイチャなんてそんな恥ずかしすぎて私、耐えられない……!

「いじっちゃんも一緒に謝ってくれる……?」

そんな涙目でお願いされて、私が断るはずがないじゃないですか。
頷いたらそれだけでニッコリ笑うかやのちゃん、アナタの笑顔は1000万ボルトです。

「ありがとう!!」とお礼を言いながら手を握られてついついだらしのない顔を浮かべそうになったところで、かやのちゃんの手首がふと目に留まる。

「……しめ縄が」

両手首、腰、両足首を締めている、夜蛾学長お手製の特殊なしめ縄。
かやのちゃんの体を人の形に留めておくために必要な、箍〈たが〉。
右手首のしめ縄の一部が、焦げたように黒くすすけている。

「あー、最近すぐ汚れちゃうの。やっぱ激しく動くから消耗が激しいのかな。また夜蛾学長に頼まないと」

なんでもないかのようにかやのちゃんは笑うけど、家にいてもいつの間にか黒くなってるのを、私は何回か確認している。

「かやのちゃん」
「そんな不安そうな顔しないで! 私、いじっちゃんの笑ってる顔が好きだな〜」

笑ってあげたいのに、上手く、笑えない。







処置室で謝り倒すかやのちゃんと私を、正蔵寺さんは怒らなかった。
「せめてこれの倍の大きさで残してて欲しいですけどね〜」と、小言は頂いてしまいましたが。

「……それで」

呪霊をあちこち調べる手元と視線はそのままに、正蔵寺さんは普段よりも落ち着いた声で言う。

「やのちゃんは、いつまでもちそうなんですか」
「ッ……!」

この場にいる誰よりも、私が一番反応した。考えたくなかったことなのに、正蔵寺さんの言葉はまるで鋭利な刃物のようだ。
……いや、この人は仲間と認めている相手には優しいからきっと、見ないフリはしたくないんだ。
大切だからこそ、こういうことははっきりさせておきたいんだと思う。

「右手首のしめ縄がもう、限界みたい。だから多分…………一年もてば、いい方かも」
「…………そっか」

背中を向けて淡々と作業を続けるその顔は、どんな風になっているのだろう。

「任務、お疲れ様です。あとはこちらでやっておくんで、伊地知さん」
「あ、はい……」

理解した私は、かやのちゃんを連れて処置室を後にした。
扉が閉まると同時に、何かを蹴るか殴るかしたような物音が扉の向こうから聞こえた。







「潔高くん、さっきから全然笑ってくれない」

自分が作ったポトフを口に運んでいると、正面に座るかやのちゃんが、不満そうに言った。
頬を風船みたいに膨らませてて、可愛いなぁと思うのに、幸せだなぁとも思うのに、どうも胸がスッキリしない。

「ポ、ポトフ、我ながら上手く作れたなーと思って……」
「だったら流れ作業みたいに食べるのやめて」
「…………ごめん」

せっかく一緒にご飯食べてるのに、楽しめない自分がいる。
怒らせたいわけじゃない。なんでもないように普段通りに振る舞いたい。余裕を見せたいのに、こういうところが呪術師になれなかった理由なんだよなぁと、情けなくなる。

「私と結婚したこと、後悔してる?」

上からバケツで水をかけられるような感じで、突然言われた。
ハッと顔を上げると、困り顔で苦しそうにぎこちなく笑っている妻がいて、鼻がツンとした。

「後悔なんて、そんな……。ただ、心が整理出来ないだけで。情けないですよね、全部わかった上で夫になったのに。七海さんに怒られてしまうなぁ……」

七海さん。高専時代、私たちのひとつ上の先輩だった人。
教室や外出先で、一緒にいてかやのちゃんが話題にするのは大体いつも七海さんだったから、彼のことを好きなのは、痛いほど伝わっていた。
私は今も昔も頼りなくて情けなくて、五条さんからいじられてばかりだったし、まああの七海さんなら最初から敵うはずがないよなーと諦めていた。
大好きな先輩の話をするかやのちゃんは、キラキラ輝いていて、ただただ私は焦がれた。

《渋谷事変》で七海さんが死んだと知ったのは、病室だった。
刺されて動けない私を助け出してくれたのは七海さんだ。あの後に死んでしまったというのかと、放心状態で過ごす中、かやのちゃんがお見舞いに来てくれて。
せっかく来てもらえたのに、あまり会話らしい会話は出来てなかったと思う。
でも、「そろそろ帰るね」と言って椅子から立ち上がった彼女の手を思わず掴んでしまって、自分でも困惑してしまったけど、言わなきゃと思って。

「……かやのちゃんは、いなくならないで下さいね」

カラカラに渇いた喉から発した、想い。
それを聞いたかやのちゃんは、見たことない表情をしてて、口は半開きのままだし徐々に全身の肌が赤く染まっていくしで、それを見たらなんだか妙に安心して、吹き出したところで抱き締められて。

それからあっという間にかやのちゃんからプロポーズされて、私はそれに応えた。
今思い返せば、七海さんは私の気持ちに気づいていたのかもしれない。
かやのちゃんはわかりやすいから、彼女が自分を慕ってることも気づいていたはず。それでも七海さんは、かやのちゃんの想いに応えることはしなかった。
何か一言でも言ってくれれば良かったのに、本当に、七海さんは優しすぎて、呪術師なのに呪術師らしくないところがある。

かやのちゃんと結婚すると聞いたら七海さんはきっと、「おめでとうございます」という、なんとも七海さんらしい短い祝福の言葉をくれたんだろうな、多分……。
何かについて説明する時以外は長々と話さない人だから。

七海さんの分も、七海さんに負けないくらい、私はかやのちゃんと幸せになりたいと思っていたのに、別れというものはどうしていつも突然なんだろう。

「ポトフの塩分、増しちゃうよ」
「すみません」

涙が止まらなくて、俯きながら、顎に溜まった涙がボタボタとポトフに落ちていくのを見ていた。

「潔高くんは泣き虫だなー」

かけられる声も、眼鏡を外してハンカチで涙を拭ってくれる手つきも優しい。
かやのちゃんは昔から私に優しいな、と思うと益々涙が止まらなくて、せっかくの食事が冷めてしまったと申し訳ない気持ちになる。






「私、潔高くんと一緒になれて後悔したことないよ。今もこれからもずっと幸せ!」

サイドテーブルの照明だけが明るい寝室で、かやのちゃんはそう言って笑った。

「かやのちゃん、は」
「うん?」
「どうしてそんな、笑っていられるの……?」
「だって、不幸な気持ちのまま別れるのは嫌だし。楽しい嬉しい気持ちのままで最期を迎えられたら、それが一番幸せでしょ」

……私は補助監督だから、色んな人たちの最期を見てきた。
死にたくないと言いながら死んだ人。
助かる目前で殺された人。
仲間を守り切ったと安心しながら死んだ人。
…………本当に、たくさん見てきた。
今度は、最愛の妻の死を経験しなければならない。

どうせお別れの時が来るのなら、

嫌だと思うことで避けられるものではないのだから、

「私も、かやのちゃんが不幸を感じながらいなくなるのは嫌だなぁ……」
「でしょー? 潔高くん、責任重大なんだからー!」
「ふふっ……ほんとですね。夫として、奥さんに不甲斐ない姿は見せられませんよね」

いつか来る日のために、少しでも後悔しないように、私たち伊地知夫婦はたくさん笑ってたくさん一緒に過ごして、祝福のまま「さよなら」と言えるように手を取り合おう。
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