オイルと鉄と塗料の匂い。少し遠くの規則的な機械音と手元からする金属のぶつかり合う音。額を流れる汗を服で拭い鼻歌交じりで手を動かし続ける私の耳に聞き慣れたエンジン音が届いた。あぁこの音は、と思い地面を蹴って車体の下から出たクリーパーに寝そべる私を上から見ていたのはダリル・ディクソン、その人。彼は"よう、今日もオイルまみれだな"と小馬鹿にしたような台詞を呆れたと言わんばかりの視線ごとに真っ直ぐ下ろしてきた。

「……見下ろされると腹立つんだけど」
「ハッ!俺の知ったこっちゃねぇ」
「…で?なに?ご自慢の彼女の調子がおかしいの?」
「あぁ…お前は話が早くて助かる」

子供っぽく笑った彼の差し伸べた手を取り起き上がると今度は目の前に真っ白い何かが顔に押し付けられ、それをタオルだと思うのも束の間ぐりぐりと力任せに顔を拭く…と言うかもう、うん。痛い。

「ちょ、…ちょっと!痛い!痛いってダリル!!」
「うっせえよ……ほら、少しだけましになった」

ちょっとだけ頬がひりりとしたが確かに先程までの顔のベタつきはいくらか改善された気がする。まだ仕事は残ってたし、別にいつもの事なので気に求めていないがどこか満足げな彼の表情にそれは黙っておく事にした。

「はいはい、ありがとう。……さて今度はどんな無茶な乗り方されたのやら…」
「俺じゃねぇ…兄貴が乗って、それで…」
「2人とも十分荒いと思うわ」

くるりと振り返ると苦々しい顔をしたダリルがいたので私はわざとらしく肩を竦めてやった。そしてそれから前に停められていたバイクの元へ行って様子を見ると擦り傷がやたらと目立つ。つい1ヶ月前にピッカピカにしたのが嘘みたいだ。

「多分、エンジンがいかれてる」
「う〜ん…そうかも。あとラジエター」
「チッ」
「こりゃ高く付きそうだよ」
「…金がねぇ。ツケといてくれ」
「ここは行きつけのバーじゃないのよ」

はぁと大きなため息が背後から聞こえてきてちょっとだけ笑えた。その後でどこかへ向かう足音がしたので多分店の中へ話をつけにでも行ったのだろう。実の祖父である社長はこの時間必ず奥の部屋でコーヒーを片手に、祖母お手製のサンドイッチに舌鼓している。きっとそんな彼を何とか言いくるめてまたあの自慢げな顔でやってくるに違いないと思った私はよっと立ち上がり工具箱を片手に持った。

それからしばらくして案の定どこかげんなりしたダリルがバイク越しに見えた。何となく重い足取りで私の隣に座り込んではぁとわざとらしい大きなため息をついて、それから無言で缶コーヒーを差し出した。

「ジジイの話はどいつもこいつもなげぇ。うんざりだ」
「彼の奥さん自慢は今に始まった事じゃないでしょ?」
「延々50分だ。終いには結婚はいいぞなんて言いやがった」
「あはは…はは…っ」

苦虫を噛み潰したような顔でそう言ったダリルのその顔と言ったら。それが面白くてついつい腹を抱え笑い続けた私に眉間のしわを更に増やした彼から後ろ頭に鉄槌が。随分と軽い音がした。

「笑ってんじゃねぇ」
「はぁ…だって、ダ、ダリルに…」
「…………」
「いたたっ…ごめんって」

子供のように拗ねたままのダリルはむすくれた顔で缶コーヒーをあおった。また笑いそうになったのを堪えてるのに気付いたのかは定かではないが、ふんっと鼻を鳴らす音がした。

「どのくらいで直せそうだ?」
「運が良いよ、ダリル。パーツが昨日入ったの」

私のその言葉にダリルはぐっと距離を縮めて口角を上げる。見慣れた表情だ。

「それで…?」
「1週間ってとこ」
「名前」
「ん?」

何かを言いたげに彼は頬を指でかいてそれからその指を口元に持っていき数回閉じたり開いたりした後、意を決した風に開かれた。

「その日も仕事か?」
「えぇ、そうだけど……どうしたの?今日は随分と饒舌ね?」
「……朝一で取りに来る。から、そのまま何処か連れてってやる」
「……は…?」

余りにも唐突すぎるダリルの提案に思わず間抜けな返事をしてしまった。怪訝そうにしてそれから片眉を上げ嫌か?と彼はさっきより小さい声でそう私に問いかける。目が子犬みたいだ。

「嫌じゃないけど…びっくりしたの」
「ジジイならさっきついでに話してきた。兄貴は昨日金持ってどっか行っちまった、…多分暫く戻って来ねぇ」
「また?」

彼の最後の言葉に思い思わず頭を抱えた。本当にどうしようもない奴だ。いつもの事だろ、と返すその目からなんとなく寂しさみたいなの物が見えたのは気のせいではないはず。

「…分かった…!行こう!連れてって、ダリル」
「お前行きたいところは?」
「え、私が決めて良いの?」

声はないけど頭が一回だけ縦に動いた。照れ臭そうにしながら。

「なら海…海に行きたい」
「この時期にかよ?」
「この時期だから」

呆れた顔をするダリルの頭をわざとぐしゃぐしゃに撫でると止めろと制止された。ここのところ珍しく仕事が立て込んでいて遠出する事自体しばらくぶりで、柄にもなく心が踊る。

「とんだ我儘女だ」
「言い出したのはダリルでしょ?」
「チッ……」
「決まりね!さーて、そうと決まったらばっちり修理しないとね」
「当たり前だ」

悪態をつきつつもその機嫌はすっかり良くなったようだ。伊達に長い付き合いがある訳ではない、その固く閉ざされ簡単に読ませてくれない感情をゆっくり解明していくのが実は少し楽しかったりする。

「ダリル」
「?」
「ありがとう」

ちゅっとわざとリップ音が立つように額にキスをした。するとどうだろうか、驚きかぴたりとダリルは固まってしまった。良いものが見れたと思いながら立ち上がり作業を再開する私を呼ぶ声が背後からしたが敢えて振り返らなかった。見なくても大体彼がどんな顔をしているのかは分かるからだ。

「おい!名前!!」
「じゃたまた、1週間後に、ね」

だからこの際わたしの名前を呼んで引き止めるその声が徐々にいつも通りの汚い言葉になっていってる事には目を瞑ろうか。


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