単なる好奇心が転換したのはいつだったのだろうか。じわじわと、じわじわと気付いた時には普段蓋をしている筈の心の奥底にいつ落としたのかも分からないテーブルクロスの小さなワインのシミのような、そんな異変。らしくないと思いつつでも、それを求めずには居られないのはきっと人間の性なのだろう。テーブル1つぶんくらいしかない距離がひどく深く感じた。
「私、彼らがうらやましいの」
「彼らって?」
わざわざ言葉にしなくてもその何もかもを見透かしたかのような視線で博士は私の言わんとすることを理解するのだろう。だから私はその質問には何も答えなかった。すると決まって博士は薄っすらと綺麗な笑みを浮かべてまた別の質問をしてくれるのだ。
「名前君は聡明だ」
「そうだったら私は博士にこうして出会うことは無いと思うの」
「人の縁とはかくも不思議なものだよ。何か違う形で出会っていたかも、…医者と患者以外の関係でね」
「……その時、博士は変わらず私に興味を持ってくれるかしら」
意味ありげに笑う博士の何とにくらしい事か。徐々に心拍数が上がっているのだろう、呼吸が少し浅くなってきたような気がして大きく息を吸った。この気持ちは誰にも言わず口にも出さず自分の底に沈めておこうと決めていたのに湖に小石を投げたようにゆっくりと私の中に確かな変化をもたらしてゆく。そしてじわじわと私を蝕んでいくのだ、確実に、少しずつ。
「ねぇ…」
「なんだい」
「博士にとってのウィルって?…友達?それとも……」
「その答えは君がよく知ってるんじゃないのかい?」
そうだ。確かに私は知っている、知らないフリをしているだけで本当は気付いてる。ふとそらした視線の先にはもう随分と藍色が橙色の空を侵食している景色が広がっていた。血のように赤い夕日が飲み込まれていくような光景をただ見つめていると何となく落ち着くような気がするのだ。
「空が…」
「最近は陽が沈むのが随分と早くなった…今日はこのくらいにしておこう。…夕食を食べて行くかい?」
「ねぇ博士」
窓の外を眺めたまま私は目の前にいるのだろう博士を呼んだ。立ち上がりかけた音が一瞬だけ止まってその後ゆっくり、一歩一歩確かめるように、それでいてまるで私が開けようとした距離感を埋めんとする様なそんな足音が耳を通して奥深くに響く。ぴたりと足音がやんだ。
「私が博士に食べてもらえる日は来るのかしら」
空が生々しく混じり合う中鈍く一番星が光っている。それを追おうとした私の視界は背後から伸ばされた手によって暗転。私はきっと欲しい玩具を目の前に駄々をこねる子供のようにただ彼の愛を欲したのだ。自分の欲望にただ純粋に、正直に。
「名前」
背後から響く声の何と耳触りのいいことか。名前を呼ばれるだけでこんなに満たされる私は十分過ぎるくらい人並みだ。差し込んでいた夕日はすっかりその色をなくして、綺麗に磨かれた床に伸びる濃い黒い影が1つに重なった時、チクリと唇に痛みが走って口内にじわっと鉄の味が広がった。綺麗な顔で笑う博士の薄い唇からちらりと覗いた舌がいやに赤くて、何とも艶味を駆り立てた。
「…君に合うワインは探すのに骨が折れそうだ」
だから奇異な点をどんなに探ろうともそれはなきに等しいに違いない。
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