大学に入ってすぐ、通学に時間がかかるのが嫌だと言って俺のマンションに乗り込んできたなまえとの暮らしが始まった。それまでも確かにお互いの家を行き来していたが改まって一緒に住んでいると言う事を、徐々に増えるなまえの私物とか、帰った時の「おかえり」だとか「ただいま」とかそんなやり取りに実感が湧いてどうにもくすぐったかったがそれも3ヶ月めに差し掛かるとだいぶ慣れて、何となくそれも悪くないとも思い始めていた6月の上旬。

「なぁ」
「あ?」
「お前さ、一緒に住んでんだろ?…なまえと」
「それがどうしたんだよ」

週末に練習試合をしようと話を持ちかけてきたのはムサシの方だった。丁度いいかと話を了承し詳しく予定を決めるためこうやって足を運んだのだが、肝心の話も決まってついでに近況報告的なことをしていた流れでそれは切り出された。なのでそのまま返事をしたのにパソコンに顔を向けたままの俺に目の前のムサシがあからさまな大きなため息をつくので、顔を上げると…何でそんな顔してんだと言いたくなるような顔をしたムサシがそこに。

「何が言いてぇのかはっきりしやがれ」
「…お前よりは短いが俺もあいつの事見てきたんだ……何つーか、妹的な…」

一瞬だけ指が止まった。何が言いたのか瞬間的に理解して同時に数日前に糞ゲジ眉毛にも似たようなことを言われたのを思い出す。何だどいつもこいつも。無性にむかっ腹が立ちガタッとわざとらしく音出し椅子を引いた。

「……ついに耄碌したか糞ジジイ」
「あぁ…かもな」

悟ったようなその表情がまたそれを駆り立てて週末は練習試合だろうが徹底的にやる、と密かに心に決め俺はその場を後にした。

***

苛立ちに似た違和感を抱えたまま玄関の扉を開けるとふわりといい香りが鼻を掠め空きっ腹を刺激する。元々あいつの作るモンは美味かったがこの生活が始まって一層胃袋を掴まれた、そんな自覚が脳の片隅の方に生まれていた。廊下を抜けるとなまえが居間のソファーに座りながらテレビをかじり付くように見ている。

「この前の試合か」
「え、あ、おかえり」

夢中だったのだろう俺に気付いてなかった彼女は驚いた顔をしながらこちらに振り返った。テレビからうるさいほど流れていた歓声はリモコンによって一時停止され部屋には静寂が流れ…だがそれも束の間で、すぐになまえが話を聞きました。

「ねぇ、どうだった?」
「週末にやる事になった」
「!!やった!バベルズの先月の試合見てからずっとうずうずしてて…よくやった!」

ばしばしと俺の脇腹を叩くなまえは本当に嬉しそうでさっそく戦術をぶつぶつと呟いている。最近は少し暴れ過ぎたのか地道に練習が続いていたのが紛れも無い事実。こいつも何だかんだ言いながらやっぱり試合がしたかった、と言う事を感じた気がして口角が上がるのを自分でも感じた。悪くない。

「あれ?蛭魔?」
「風呂」
「沸いてるよ」

そう言った俺になまえはごく自然とそれにそう返してきたので俺はおうと半端な返事だけ返し、居間を後に。丁度いい温度で張られた湯船に浸かりながらあいつの楽しそうな顔を思い出すと少しだけ突っかかりが軽くなった気がした。が、それでもまだ微かにそれは残っていて。腹をくくるしかねぇな、と呟いた言葉は風呂場ということもあってか妙に響いた。

風呂から上がってあいつの作った飯を食いを食って、先程の試合の映像を一緒に見ながら大まかな作戦を立てる事になった。ノートやら何やらを用意して準備万端ななまえの後ろ姿をキッチンから覗きつつ俺はグラスぎりぎりまで氷を入れてそちらへ向かった。

「ひ、っ!!?」
「ケケケ…」

背後からこっそり忍び寄り氷のおかげでキンキンに冷えたであろうグラスぴたりとなまえの頬に。すると思った通りの反応が返ってきて笑いがこぼれる俺に恨めしそうな視線が向けられる。睨んでいるがいつ見てもやはり微塵も怖くない。何方かと言えば毛を逆立てる猫みたいな、そんな感じ。

「…小学生みたいなことすんのね」
「お前の方が遠足前のガキみてぇにはしゃいでンだろ」

ちょっと言い合いをしたそのまま作戦会議へ突入したせいかそれは随分とは白熱し、目処が立った頃には23時をすっかり回っていて。それから慌てて風呂に入ったなまえが出てくるまで柄にもないタイプの心の準備というものをしていた。焚きつけられたとは言え最終的に決めたのは自分で、どうするかと随分と考え混んでいたらしい俺の意識は急にひやりと冷えた左頬によって再び浮上した。

「何やってんだ……」
「氷入ってないだけ可愛いもんでしょ?」

へらへらと笑いながらなまえは水の入ったグラスをあおった。当たり前のように隣に座るなまえからは同じ香りがする。

「おい、お前髪ぐらい乾かせよ」
「後で乾かすから」
「風邪引いてもしらねぇ」
「…蛭魔つめたいっ、ちょ、!」

首から下げていたタオルを引っ張りガシガシと容赦なく頭を拭く。神から滴る雫が気になったからで本気で風邪を引いたらとかはまんじりとも思っていない。ソファーに染みる水滴が気になったからだけ。

「いたい!て言うか髪、傷むからっ!!」
「洗い髪そのままにしておくやつの台詞かよ」
「う、るさいやい…」

返す言葉がないのかぐっと押し黙ってしまったなまえ。それから容赦なく髪を拭いていた手を止め、ぐしゃぐしゃになった前髪を寄せると風呂上がりの少し頬が染まったなまえと目があった。

「蛭魔?」
「…お前また面倒くせぇこと考えてるらしいな」
「!!……ムサシから聞いたの…?」
「糞ゲジ眉毛からもな」
「〜〜っ……はぁ…」

驚きに染まった目が見開かれそれから大きくため息をつき項垂れたなまえの顔は見えない。名前を幾度か呼んだが顔が上がる気配は微塵もない。仕方ないのでその下を向いたままの顔をすうっと撫でるとぴくりと肩が揺れる。

「……な、」
「…?」
「なにを、聞いたかはあえて聞かないけど…その、私は……」

全てを言い終わる前にするすると輪郭を撫でていた手を顎辺りで止め軽く掴みぐんと上を向かせた。だが俺は後悔をした、明らかになったなまえは風呂上がりだからじゃない別の熱で頬を赤く染め、その瞳には驚きと不安とが混じり合ったような色をしてうっすらと膜がはっていたからだ。

「っ!!!」
「……何すんだよ」
「…それは私の台詞」

だがそれも一瞬。なまえの両の手の平によって俺の視界は黒くなりなにも見えない。珍しく彼女に普段の余裕というか何というかそれがはないのは5月病をずるずると引きずっているからだろうか。

「なまえ」
「やだ」
「…なまえ」

再び明るくなった視界に観念したかのようななまえが映る。やはりどこからしくないなと思った。でも彼女をそうさせているのは他でもない俺なのだと思うと妙な気分に包まれて、何となく悪い気はしなくて。

「俺はお前が使える奴だからっつー理由だけで一緒にいるわけじゃねぇよ」
「……分かってる…けど、私ちゃんと、蛭魔の口から聞いたこと…ない」
「……、」
「理解はできても、言葉にしてくれないとわかんない…」
「面倒くせぇな」
「面倒くさいの」
「……一回しか言わねぇぞ」
「…、」

こくんと頷くなまえ。手持ち無沙汰で伸ばした手はそんな彼女の赤い唇をすっと撫でると、くすぐったかったのか少し身動ぎ頬が一段と朱に染まった。じわじわと下っ原の辺りから目の前の女がいとおしいと言う感情が湧き上がる。

「俺は、お前が好きだ…なまえ」

予想がついただろうに見開かれた瞳から静かに雫が落ちたそれを、綺麗だと思いつつ指で拭う。はにかんだように頬を緩ませる姿に何だか居た堪れなくなり俺は彼女を頭ごと抱き竦めた。

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