*昔の話。中学生。


「あら、妖一くん…?」

すっかり辺りが暗くなった頃チャイムが一つ。不思議に思ったがとりあえず母が玄関に向かった。私はと言えばこの前、蛭魔から借りたアメフトの本を読んでいたのでそのまま読み続けていたが扉の開く音と共に聞こえたその名前に驚き慌てて玄関へと向かう。そこには何時ものあの挑発的な彼はいなかった。

「ひ、蛭魔…どうしたの」
「…とりあえずここは寒いから中に入りなさい。何か暖かいものでも入れるわ」
「ありがとうございます」

頭が下がっており顔は見えない、こんな姿を見るのは初めてで狼狽するしかない私に母が落ち着きなさい、と声をかけはっとした。重い足取りで中に入ってきた蛭魔を後ろから追いかける。

「ひるま」
「……なまえ」

何か言いた気な風に1度開いた口を閉じてその後で私の名前を呟いた。何時ものあの饒舌はどこへやら、物静かなその姿に私は心臓がきゅっとなる。私は止まったままの蛭魔に駆け寄り手を握り、その手の冷たさに驚いていると握り返された。

「いこっか。お母さんが待ってる」
「あぁ」



***



家を出た、蛭魔はそれだけを言った。それが余りにも飄々とした態度で私は飲んでいたホットミルクを吹き出しかけた。とりあえず今日はうちに泊まる事になり、その事に張り切る母はキッチンにこもって絶賛料理中だ。その間私の部屋で蛭魔と二人きり、そんな彼の態度は打って変わり其処に居るのはいつも通りの姿、先程のまるで捨てられた子犬のような様子は微塵も感じなかった。

「蛭魔態度変わりすぎ…」
「あぁした方が連絡もされねぇから都合がいいんだよ」
「…うわぁ」
「ケケケ」

さっきのほうが可愛いのに、と言うとばしんと叩かれた。隣に座る彼をちらりと横目で見れば思いっきり目が合い慌ててそらした。別に私は何もしていないのにまるで悪い事をしたみたいにばくばくと心臓が動く。

「中学生で家出とか不良だね」
「うるせーよ」
「金髪にピアスだし」
「関係ねぇだろそれ」
「…これからどうすんの」
「生きる」
「そうじゃなくて…!」

いい加減な返答しか帰ってこない事に思わずカッとなり立ち上がりかけるも未遂に終わる、蛭魔が私の手首を掴んだからだ。物言いた気な目線に捕らわれ動けない私に先程と同じ様に何かを言おうとした口が閉じられる。そしてそれとほぼ当時に目戦は外された。

「明日には出てくっから心配すんな」
「…いいよ、別に、そんなこと」
「…、」
「お母さんも言ってたじゃん。何日居てもいいって」

思い沈黙。まだまだ私は子供だから大人びた蛭魔の事なんてさっぱりわからない、でも今握っているこの手は離しちゃいけない、何と無くそんな気はしていた。

「お前には迷惑かけねぇから」

そっぽを向いて言われたその言葉はひどく遠くに感じた。隣に居る筈なのにずっとずっと彼方にいるような、そんな感じ。そして私が彼の頬を叩いた事に気付くのには少しのタイムラグがあった。

「ってぇな!何すんだよ!!」
「…迷惑かけないって、なに」
「はぁ?…そのまんまの意味に決まってんだろ」
「わ、わけわかんない」
「お前…って、何で泣いてんだよ」

瞳からはぽろぽろと涙が落ちていて、そんな姿を困った様に見た後蛭魔は何を思ったのかぐっと私を引き寄せた。まさかこんな事をされるなんて予想していなかった私は驚きで一瞬涙が止まるも、蛭魔の少し早い鼓動を刻む心音にまた再び涙が溢れ出してきた。

「…ば、バッカじゃないの。迷惑かけないとか、…何なの」
「…」
「かけろよ、迷惑ぐらい…私に。他人じゃ、ないんだから…」

後頭部に回されていた手がぴくっと反応する。少しだけ息を呑んだのが分かった。どんな顔をしてるのだろうかそう思ったが頭のてっぺんには彼の顎が置かれており上を向くことはほとんど不可能に近かくて、変わりに視界の隅に入った蛭魔のもう片方の手にそっと手を重ねてみた。その手はもう冷たくなくて暖かい。

「なまえ…テメー相変わらず馬鹿だな」
「家出なんかする、蛭魔の方が馬鹿でしょ」
「うるせー…、とにかく家には戻らねぇ」
「…うん」
「けどお前の母さんの手料理美味ぇし、お前んちは今まで通り来っから」
「うん、」

それ以上蛭魔は何も言わなかったが、もう先程の距離感の様な物は感じなかった。変わりにふと、あることに気付く。身長こんなに差があったっけ、とかもう私の手じゃ包めなくなっている手とか、そう言えば声も少し低くなったようなとか、色々。そう思うと何故か急に恥ずかしさが込み上げてきた。頬が熱い。

「…ったく、これじゃあどっちが年上かわかんねぇな」
「う、…うるさい」

確かに中学に入ってから蛭魔の身長はグンと伸びた、弟のように過ごして来た彼の成長をひしひしと感じどうも落ち着かなかった。そこにまるで追い打ちをかけるように、重ねていた手を退けられ今度は彼の手が私の手を包み込む。いと簡単にその長く骨張った手に包まれたがそれだけでは終わらず、終いには指を絡ませてきてもう何が何だか分からずパニックになっていると呟くように名前を呼ばれた。
変な空気が流れている、ここには今2人しかいない、そんななんとも言えない雰囲気に私の心臓は今までに無いくらい脈打っていた。

「ひ、蛭魔…」

と、まさにその時だった。勇気を出して何とか平静を保っているフリをして名前を呼んだその時、ノックとほぼ同時に扉が開いた。

「もー、さっきからご飯出来たって……あら、…あらあらあら?お邪魔しちゃったみたい?」
「っ!ち、ちが!こ、これは、そのっ」

慌てて弁解すると共に蛭魔から跳ねる様に離れた。が、手だけはどうしても振りほどけなかった。するすると扉の向こうへニヤニヤしながら戻っていく母を恨めしそうに見る。

「相変わらず仲が良いのねぇ…ご飯冷めないうちに降りてきなさいよ」
「だっだから!」

弁解も虚しくぱたんと扉は閉じた。はぁとため息を吐けばようやく隣の蛭魔が口を開く。

「相変わらず嵐みてーな母さんだな」
「そんな事より蛭魔…!」
「早く行くぞ、飯冷める」
「話聞こうよ…!」
「…大体テメーみたいな年上なのにちんちくりんな奴こっちから願い下げだっつーの」

何時ものようにその尖った犬歯を覗かせながら笑う蛭魔に違う意味で頬が熱くなる。そこに先程みたいな空気はもうない。一人リビングへと先に降りて行ってしまった蛭魔を追いかけながら一発お見舞いしてやろうと密かに計画を立てる。だから部屋を出る時に彼が楽しそうに笑っていた事を私は知らない、そしてあの胸の高鳴りの正体を知るのはきっとそう遠くない。


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