序
重く垂れこめた雲の下、しとどに降る雨の元。
太陽が姿を隠し、ただでさえ光がないのに、鬱蒼と繁る木々に囲まれた山道は夜のように暗い。
そんな中、たった一人で歩む少女がいた。
服装は軽装で荷物も無く、登山目的には見えない。
その瞳は虚ろで、人形のように無表情だった。
何かをしきりに呟きながら、どこかへ向かおうとしている。
「行かなきゃ……行かなきゃ……」
雨足は強まる一方で、舗装されていない獣道は泥だらけ。
それでも彼女は何かに駆り立てられるかのように歩みを止めない。
"……"
彼女の耳に、届くものがあった。
それが何なのか、いつからなのか、どこから聞こえているのかは分からない。
その音は、彼女の意識を奪うように繰り返し鳴り響き、彼女が歩を進めるたびに大きくなった。
周囲に響くのは雨音と湿った足音だけ。
それは、彼女にしか聞こえない音だった。
"……"
その音は、声のようであった。
しきりに彼女に届けられる声は、虚ろな彼女に何かを示さんとしているようでもある。
"……れ"
その音は、言葉のようであった。
言葉は彼女の意識を奪い続け、ひらすらに足を進ませる。
声の方へ、目的の場所へ誘おうとしている。
虚ろな少女は、それが誰の声か、なんの目的なのかも考ることなく、ただ行かなくてはと歩む。
"来てくれ"
「――え?」
声が、言葉が、はっきりと聞こえた瞬間、虚ろだった少女の瞳に光が宿る。
何処を見ていたのかも分からない視線は正面を捉え、周囲を、自分の足元を、ずぶぬれになった全身を見回した。
「え?今のは……どうしてこんなところに、わたし――」
雨が降っているのも、獣道を歩いているのも、今気付いたかのようだった。
動転した頭で、今まで歩いていた道を振り返る。
しかし、注意する余裕もない状況では、不運にも事故が起こってしまう。
ずるりと、あえなく足を滑らせた。
「えっ」
バランスを崩した体は吸い込まれるように坂道の向こうへ消える。
仄暗い暗闇の、奥深くへと。