九
「主」と一言だけ呟いた白さんは、その後糸が切れたように倒れてしまった。
「あ、と……」
心ここに在らずといった姿に戸惑ったが、先の戦闘で白さんが怪我を負ったのを思い出した。
やはり無理をしていたのだろう。
傷の具合を確かめたいところだが、白さんの目蓋は固く閉ざされ開く様子はない。
成人男性一人分の体重は、私には持ち上げられない。
苦しげに眉を潜める白さんを見て、焦りが募る。
とはいえ、不用意に揺さぶって悪化させてはたまらない。
せめて体勢だけでも変えた方がいいのだろうか。
あたふたしていたところへ、第三者の声が届く。
「ものすごい音がしたと思ったら……随分激しくやり合ったんだね」
「青江さん!」
開け放たれた障子からひょっこりと姿を現したのは、長い髪の青年だった。
部屋の様相を一通り眺めてから、白さんと私へ視線を移した彼は、ふむと顎に手を当てる。
「まずは場所を変えようか。ここよりは綺麗なところがあったよ。何があったか聞くのはその後にしよう」
そう告げて、青江さんが白さんの傍に寄る。
その身を白さんの下に潜り込ませると、ひょいと背負い上げてしまった。
ほっそりとした体に見合わず意外と力持ちらしい。
いや、白さんも大概細身だが。
そのまま廊下へ出ていく青江さんに続いて部屋を後にする。
その直前、ふと振り返った。
暗雲立ち込める空からの光は僅かで、廊下から見た室内は一層暗い。
部屋中に散乱する黒い塵、破れた襖、割れた刀掛け。
先程懸命に盾にした鏡は床に投げ出してしまったが、いつの間にか不自然な程粉々に砕けていた。
大きな鏡、そこに何が映っていたのか、今となっては分からない。
***
「この部屋だよ」
案内されたのは、顕現の間から廊下伝いに進んだ先にあった角部屋。
白さんを背負って両手が塞がっている青江さんに代わり、おずおずと障子に手を掛ける。
「……?」
その時一瞬、ほんの少しだけ静電気のような痛みを感じた。
しかし本当に僅かな痛みだったので、気のせいかもしれない。
気を取り直して障子を滑らせると、こざっっぱりした室内が見えた。
軽く見渡しても、何かが動く気配はない。
大きめに開いた障子から身を滑り込ませ、続いて入室した青江さんを確認してから素早く閉じた。
「よいしょ」
青江さんが白さんを床に寝かせる横で、改めて室内を見回す。
静かな部屋だった。
湿っぽさはあるものの、壁も畳も目立った傷のない部屋だ。
これまで歩いていた廊下は泥と傷に塗れた惨状だったので、幾何かの清潔感すら感じる。
四方の内二辺は土の壁、入り口の障子を除いて残り一辺は襖だ。
壁には幾つか何かを掛けていた痕跡があるが、それが何か確かめるすべは残っていない。
白さんを降ろした青江さんが徐に口を開く。
「それで、何があったんだい?」
「……大きな鬼が現れました。"大太刀"と呼ばれていたものです」
"大太刀"との戦いで白さんが怪我を負ってしまったことを話すと、青江さんは納得するように頷いた。
「あの黒い塵は"大太刀"のものだったんだね。それにしても、君はよく無傷でいられたね」
「それは、白さんが庇ってくれたので……」
それと、あの大きな鏡を盾にしたお陰だ。
鏡を見た瞬間、"大太刀"の動きが止まった。
酷く狼狽していたように見えたが、鬼の目に映ったものが何だったのかは定かではない。
それと、白さんも"大太刀"を御した直後、鏡を見て何かに気付いたようだった。
"大太刀"と白さんが同じものを見たのかは分からない。
けれど、何かあったのは確実だろう。
何を見たのか、白さんに問うてみたい。
それには、白さんに目を覚ましてもらわなければいけないのだが……
白さんを介抱する青江さんの様子を伺うと、どこから見つけてきたのか布やら何やらを用意していた。
私も手伝うべきだ、けれど。
私の視線に気づいた青江さんが振り返る。
「君は休んでおきなよ。手当てなら心得があるから、心配ないさ」
そう言われ、中途半端に持ち上げた手を下ろして押し黙る。
先程も戸惑うだけだったように、私には正しい治療の知識はない。
変に手を出して、手際よく準備を終えてしまった青江さんの足を引っ張る羽目になりかねない。
「それに、君達が探索を始めてから一日は経っている。ずっと動き詰めで疲れてるだろう?」
「え、もう一日も?」
「もしかすると、それ以上ね」
そうだったのだろうか。
全く自覚していなかったが、言われてみれば急に体が重く感じる。
延々と続く薄暗い空間の中では、昼も夜も曖昧になるのだろうか。
まるで時間が停滞しているようで、絶えず落ち続ける雨音が、全てをけぶらせてしまう。
思い出したように溢れる気怠さに襲われて、気張っていた背中を丸めた。
けれど、ぐったりと項垂れている白さんの姿が目に映り、力を入れ直す。
白さんが心配だ。
何もせずに休むというのも落ち着かない。
知識がなくても、何かしら出来ることはないだろうか。
そわそわと所在無げにしていると、青江さんがぽろりと一言。
「脱がせたいの?」
と、とても良い笑顔で訊ねてきた。
その手元は、傷の具合を確かめるため白さんの衣服を寛げようとしている。
緩められた紐と、崩れた襟元。
覗く鎖骨に視線が滑り、カッと熱が昇った。
「へぁ!?いえ滅相もない!!」
飛び上がってそっぽを向いて、そのままずるずると体を壁に預ける。
「や、休ませていただきます」
も、盲点だった。
脱がせるとかそんな意図は断じて無かったが、確かに手当の過程でその必要はある。
というか青江さんの言い方も言い方ではないか。妙に意識してしまった。
くつくつと笑い声が背中に飛んでくる。
膝を抱えて頭を伏せて、聞こえないふりをした。
頬のほてりが早く静まるように、心の中で落ち着け落ち着けとひたすら言葉を繰り返す。
反応を返さない私に、やがて笑い声も止んだ。
ほっとして目蓋を閉じると、鼓膜に衣擦れの僅かな音と雨音が届く。
途切れることの無い雨は、この屋敷に訪れてからずっと降り続けている。
いったい何時から、そして何時まで。
日記の欠片で垣間見た過去の屋敷では、秋や初夏の景色を見た。
この屋敷が健在だった頃は、確かに季節が移ろいでいたのだろう。
では、屋敷が滅んだのと同時に、ここは永遠の雨模様になってしまったのだろうか。
永遠に、滅びた時を、繰り返して……
雨音に思考は溶け、意識が混濁してゆく。
何もかも空に溶けて、そして――
***
……
…………
なにか、夢を見ていたような、気がした。
どんな内容だったのか、思い出せない。
ただ、僅かな喪失感を覚えている。
重い目蓋を持ち上げる。
ぼやける視界に映るのは、木の板で出来た天井。
眠っていた……直前、何をしていたのだったか。
座って寝ていたはずだけれど、いつの間にか横になっていたらしい。
ゆっくりと体を起こすと、左手から声が掛かった。
「おはよう」
「……白さん」
向かい側の壁にもたれるように、白さんが座っていた。
片膝を立て、木刀を抱えるようにしている。
薄暗い部屋の中に溶け込むように佇む姿は、古い彫像のようにも見えてどきりとする。
先程の声もしっとりと落ち着いていたし、衣服は綺麗に直されていたが、その腕や頬に手当の跡が垣間見えた。
ああ、そうだ。白さんが"大太刀"に傷を負わされ、青江さんがここに運んで。
「白さん、怪我は……!」
慌てて近寄ると、彼は包帯の巻かれた腕を軽く動かして見せた。
「なあに心配いらんさ。この通り」
「ほ、本当に?」
こちらは目の前で軽く吹き飛ばされたのを見ているのだ。
特に腹部は念入りに包帯が巻かれているようで、痩せ我慢をしているのではと疑った。
訝しむ私に苦笑する白さん。
「なんだ、本当に大丈夫だぜ」
そう言って徐に私の手首を掴んだ彼は、そのまま着物の裏に滑り込ませ、自身の腹部に当てた。
「!!!」
「ほれ、大した傷もついちゃいないだろ?」
押し当てた手の平に、固く引き締まった筋肉の凹凸が包帯の上からでも伝わってくる。
白さんの呼吸に合わせて僅かに上下するのを、じっくり感じてしまった。
「わ……分かりました。分かりました!」
真っ赤になって手を引っこ抜くと、からからと笑う白さん。
悔しさと周知から唸り声を上げても、余計に笑うだけだった。
青江さんといい、私のことをからかいすぎではないか?
けれど今の白さんは、先程の沈んだ空気を纏っていなかった。
笑ったせいか頬が上気して、倒れる直前の青白い顔はどこにもない。
なにはともあれ、元気になったようでよかった。
「君の方こそ、怪我はなかったかい?」
「うん、お蔭様で……」
ほっと息をついたところで、障子が横にスライドされた。
「二人とも起きたかい?」
「青江さん!」
どうやら廊下で見張りをしてくれていたらしい。
疲れた顔をした青江さんがのっそりと室内に入る。
まさか私が起きるまでずっと見張っていてくれたのだろうか。途端に申し訳なく感じる。
「あの、ありがとうございました」
「これくらい構わないよ。けれどそろそろ僕も休みたいし、手早く済ませてしまおう」
「……何を?」
「情報交換、だな」
「あそっか……」
白さんの言葉に思い出す。
私も聞きたいことがあるのだ。
畳に腰を下ろした青江さんに合わせて、白さんと私も顔を突き合わせるように丸く座る。
最初に口を開いたのは、白さんだった。
「さて、改めてあの部屋で何があったか話しておこう」
刀装の間、顕現の間、それぞれの部屋にあったもの、起こった出来事を掻い摘んで説明する白さん、
その内容は私の認識とずれもなく、青江さんも何度か相槌を打つ。
「それで、"大太刀"が持っていた紙切れだが」
私が取り出した古びた紙を一瞥して、青江さんが応える。
「それも日記のようだね」
「ああ、"大太刀"の体が砕けたとき、塵に紛れてこいつも降ってきたんだろう。また記憶らしいものを見た」
白さんの話に合わせて、日記の記憶の中で見聞きしたものを思い返す。
あの場所は恐らく昔の顕現の間だ。
口ぶりからして、この屋敷の主と、日記の持ち主が初めて出会った時の記憶なのだと思う。
女性……審神者が口にしていた刀剣男士という言葉は、日記の持ち主に向けられたもの。
顕現の間は、刀剣男士と主が顔を合わす部屋らしい。
では、刀剣男士とは何者か。
審神者の言葉を思い返す。
刀剣男士とは――刀ではなく、人間でもなく、神様か、妖の類かもしれない。
はたと思い至る。
顕現の間にあったのは、大きな鏡と、刀掛け。
顕現の間は、刀剣男士を顕す場所なのか。
そして刀剣男士とは、刀より生まれし者。
写真に載っていた刀剣男士達の姿。
人間に限りなく近く、しかし人間ではない。
私とは、別種の存在なのだ。
「あ、し……」
思い至った瞬間、私は白さんの名を呼ぼうとした。
けれど喉の奥で閊えたように、急に声が出なくなった。
更に思い返してみる。
刀装の間に向かう時、白さんは少し落ち込んでいるように見えた。
"大太刀"が現れる直前、白さんは何かを言いかけていた。
それはもしかしたら、私が言いかけたことに関連しているのかもしれない。
もしそうならば、予想しているより早く、私と白さんの関係は終わってしまう。
――嫌だ。
まだ、終わりたくない。
「どうした?」
一瞬だけ声を上げた私に、白さんが声を掛ける。
「なんでもない……」
「……そうか」
歯切れ悪く答えた私を、白さんは追求しなかった。
白さんは覚えているのだろうか。
記憶を見た直後、自分が口走った言葉を。
疲弊した脳が誤認して、適当に声に出していたという可能性もなくはない。
けれど、あの様子は、そんな風には見えなかった。
まるで、ああそうだ。
まるで、白さんがあの記憶の――
私は、尋ねることが出来なかった。
なんでもないように、白さんは話を再開する。
「記憶の内容は君は聞きたがらないだろうから省くが……あとは知っての通り、俺が倒れて君が現れたわけだ」
「ふうん……じゃあ、収穫はその日記くらいかい?」
「そうだな……あ、いや待て、もう一つあったぞ。人だ。人影を見た!」
顎に手を当てた白さんが、弾けるように顔を上げた。
「人影?」
「そうだ、君は見えなかったかい?君が抱えていた鏡に映っていたのさ」
"大太刀"を倒した直後白さんが見たものは、その人影だったのか。
だが、私の視界はほぼ"大太刀"と白さんで埋まっていたので、その背後までは見えなかった。
「鏡に映った庭の向こうの廊下だ。何か被り物をしているようで分かり辛かったが、人の姿をしていたように思うぜ」
少なくとも、"打刀"や"太刀"のような異形の鬼ではなかったという白さん。
青江さんは意外そうに口を開く。
「人影……もしかして、僕達以外にも閉じ込められた人がいたのかな?」
「いや、俺はむしろその逆だと思う」
「逆って?」
私の問いかけに「ああ」と答えた後、白さんは低く唱えた。
「あいつが黒幕なんじゃないかってな」
2018.04.15