十一
確信めいている白さんは、駆け足気味に廊下を進んでいた。
その後ろを追いかけながら、そっと写真をポケットの中に戻す。
ここに写っている青年は、はたして白さんと同一人物なのか。
何れにせよ彼に知らせるべきだったに違いない。
けれど、出来なかった。
この写真のあった場所や年季の入り方から見ても、この荒廃した屋敷が健在だった頃に撮られたものだと分かる。
そんな写真に写っているのが白さんだったとしたら、彼はとっくに――
なら、私の前を早足に歩く彼は、いったい何者だというのだ。
いや。
分かっている、本当は。これを見付ける以前から。
白さんだってきっと辿り着いている。
お互い言葉にできないまま、朧気な道を進んでいる。
形を持ってしまえば、もう戻れないから。
「迷子、扉が開いてるぜ!」
白さんの嬉しそうな声に我に返った。
先程行き止まった扉が綺麗に開かれていて、その先にはやはり点々と乾ききっていない滴跡が続いている。
「この先にあいつがいる……さあて、大詰めと行こうじゃないか!」
逸る白さんが、瞳をぎらりと輝かせながらこちらに手を差し出す。
「……うん、行きましょう」
その上に自分の手を重ねると、強く握り締められた。
冷たい指が、私の肌に触れている。
痛いくらいの力加減、その感触に安堵した。
***
手を引かれながら、片手でポケットの中身を探る。
今ここに収まっているものは、二枚の写真と二枚の紙片、御守り、そして白さんから渡された折り鶴。
指先で確かめながら、ポケットから一つずつ取り出した。
あ……これは勿体ないことをした。
白さんから貰った綺麗な折り鶴が、ポケットの中で少しよれてしまっている。
ひしゃげた羽先を指で直そうとして、ふと気付く。
「……?」
真っ白だった折り鶴の、羽の先が黒くなっている。
どこかで汚してしまったのだろうか?
元々拾い物だからと纏めて詰め込んでいたから、他のものから汚れが移ったのかもしれない。
鞄を無くしてしまったことを後悔しながら、形を整えたそれを再びポケットにしまい込む。
その時、角を曲がった白さんがぴたりと足を止めた。
つられて止まった私の手を離し、木刀に手を掛ける。
「シッ――」
一呼吸の間に、白さんの纏う空気ががらりと変わった。
その視線の先は廊下の奥。
真っ直ぐに伸びる廊下は、十数メートル先で行き止まりになっている。
窓のない横壁は光を遮断し、奥へ向かうにつれ闇が濃度を増す。
その最奥、沈む空気の中に、一際暗い影一つ。
暗がりに沈む姿は遠目からでは分かりづらいが、頭と四肢と、どうやら人の姿をしているらしい。
――ちゃり。
にわかに影が震えた。
白さんが姿勢を低くする。
ちゃり。きい、ぎい。
それは、硬いものがぶつかる音。しけった木目をひっかくような音。
「……っ」
最初に闇の中から這い出たのは、大きな爪の生えた足。
次いで現れた柳のように垂れる髪、隙間から覗く赤い眼。
体に纏う甲冑と、頭には烏帽子。
黒い頭巾などどこにもなく。
その姿は、紛うことなき"太刀"だった。
「謀られたか!?」
白さんの鋭い声と共に、ぐっと腰を落とした"太刀"。
瞬間、停滞していた空気が一陣の風と凪ぐ。
"太刀"を中心に巻き起こった旋風が、質量を持った殺意となって身を裂いた。
「ぐっ……」
吹き荒ぶ嵐を受けながらも、白さんは大股でその場に留まる。
耳元を吹き荒れる風音の中、微かに聞こえた雑音。
何かが床を掠めた音。
「ッ!!」
刹那のうち襲いかかった"太刀"の一振り。
空を切って木刀を振り上げる白さん。
ぶつかり合う刃。
鋭い音と広がる波動が空気を乱す。
閃光が走ったかと見紛う程の衝撃に、煽られた体が後退した。
一振り、一振り、また一振り。
乱れなく振り下ろされる斬撃に、防戦一方の白さん。
"太刀"の背丈は白さんと同程度。
繰り出す一撃は速く、重い。
"大太刀"の圧倒的な質量差とも異なる攻め立て。
無駄のない流れるような剣戟。
以前に相対した"太刀"よりも力量は上らしい。
「くぅ……」
白さんが歯を食いしばる。
切り返す隙を伺っているが、それさえも与えられない。
火花が散り、いっとう鋭い音が響いた。
迫り合う二振り。
"太刀"の痛んだ刀が白さんの木刀を削る。
「ッ、君の大将はどこへ行った?尻尾を巻いて逃げたわけじゃあるまい!」
間近に迫った紅い瞳を睨め上げる白さん。
その問いかけに応えはない。
ぎりぎりと鬩ぎ合う二振りの刃。
その迫力に圧倒され、ごくりと喉を嚥下する。
私に出来ることは、邪魔にならないところへ引き下がるだけだった。
壁伝いにじりじりと引き下がり、曲がり角の端へ。
「……ッせぇ!」
白さんが"太刀"の刀を弾き飛ばした。
跳ね上がった両腕。
空いた胴へ突きを繰り出す。
胴当てに当たった木刀は"太刀"を後方へ押し込んだ。
「!」
骨ばった黒い手が木刀を掴む。
"太刀"の腕が一瞬で膨らみ、白さんの体が浮き上がった。
「がッ!」
天井へ背中を打ち付けられ、白さんが悶える。
「白さん!」
"太刀"の刃が彼の額に迫った。
直前、白さんの草履が"太刀"の腕ごと蹴り飛ばす。
重力に従って落ちる白さんが木刀を振り上げる。
崩れた体勢を戻す"太刀"。
再び、衝撃。
突風が埃を巻き上げ、視界を奪う。
「げほっ、げほ」
咽る喉と曇る瞳。
目元を擦って見遣った廊下。
砂埃に揺らぐ中、動いた影が一つ。
「白さん……!」
痛めたのか、肩を押さえて佇む白さん。
荒い呼吸を整えながら、こちらを振り返る。
――その目が大きく開かれた。
「迷子!!」
「え――」
ずるりと、空気の澱みが圧縮された。
こちらへ腕を伸ばす白さんが、やけに緩慢に見える。
澱みが足を縫い付ける。
肌が冷気を感じた。
鼻が異臭を嗅ぎ付けた。
黴と腐った臭い。
唐突だった。
何もなかった床から、影が盛り上がった。
質量を持った澱みが、私の背後に現れたのだ。
何が、現れたのか。
私の意志とは裏腹に、確かめようと回る首、動く頭。
視界の端に映った、黒い布。
黒い体、黒い手足、黒い頭巾。
その下は、人間の、生物の顔ではない。
長く水に晒されたかのように膨張し溶けた皮膚。
べっとりとこびり付いた髪。
骨と皮だけが残った鼻。
爛れた唇。剥き出しの歯茎。
落ち窪んだ瞳が、私の目を、見た。
「迷子!!」
刹那。
降り注ぐ黒い雨。
私の視界が、全身が、泥水に塗りつぶされる。
五感も呼吸も意識も、私の全てを攫って行く。
白さんが私の方へと走り出す。
その背後、土埃が揺らめき、鈍色の刃が突き抜けた。
"太刀"はまだ――
消える――
***
……
…………
……息が、出来ない。
視界が真っ暗だ。
床の感触も空気の冷たさも感じられない。
まとわりつくのは液体。
体が重く沈んでいく。
水底へ、堕ちていく。
"……"
鼓膜を掠める微かな音。
水の流れる、いや、違う。
"……"
囁きだ。
誰かが、どこからか言の葉を紡いでいる。
"……"
徐々に大きくなるざわめき。
沈んでいく体が、音の源に近付いている。
"……"
囁きがざわめきへ。
"……い"
ざわめきが言葉へ。
"憎い"
"悔しい"
言葉は怨嗟。
怒り。憎しみ。悲しみ。絶望。
"苦しい、苦しい、苦しい"
言葉が水の中に響く度、自由の効かない体に纏わりつく。
肉を焼き、鋭い痛みを伴った。
「……ッ」
ここはなんだ。
これはなんだ。
水の中で、負の感情が渦巻いている。
ありとあらゆる怨念を圧し固めたそれが、黒い帯となり溶け広がっていく。
渦の中心は水底。
動かない体は巻き込まれるように吸い寄せられていく。
――一つの箱が沈んでいた。
劣化激しく黒く変色した、細長い箱。
ちょうど人一人分が収まるような。
棺、だろうか。
"何故、何故、何故"
呪詛はその中から聞こえる。
"此処に縛り付けられている"
"奪われた、全て、何もかも"
耳を覆う言葉の嵐が、鼓膜を貫き脳を揺さぶる。
"どうして"
"どうして、どうして、どうして、どうして"
"どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして"
「――ッ!」
痛い、熱い、苦しい。
黒い泥が全身に絡み付く。
延々と木霊する怨嗟。
頭が、体が、壊れそうだ。
呪詛が広がる。
視界が黒に覆われる。
水を腐し、大地を穢し、尚も留まらない激情。
やがて溢れて、限界を迎えて――
***
「迷子!!」
「……はッー!」
揺さぶられた肩、私の名を呼ぶ大きな声。
空気を取り入れた肺が痛み、激しく咳き込んだ。
「迷子、迷子!大丈夫か、怪我は!?」
咽る私の背中をさすりながら、白さんが必死に問うた。
「は、だ、大丈夫です。何が、どうなって」
「あいつだ、俺が見た人影が現れた」
人影……そうだ、何もない地面から生えたように現れて。
意識を失う直前、目が合った。
その顔面は、およそ生きた人間のそれではなかった。
思い返して背筋が凍りつくような寒気に襲われる。
どろどろに溶けた顔面で、瞳だけが妙に浮き上がっていた。
あれが、この屋敷の怪異の元凶だというのか。
「また不意を突かれるとはな……しかもなんだ、水でも操れるのか?」
あれが現れた直後、私の頭上から黒い水が降り注いだらしい。
水……気を失った直後、不思議なものを見た。
深い沼の中のような光景だったけれど、ここは廊下の上、水も引いている。
見上げた天井には穴はなく、濡れた痕跡もない。
あれだけ降り注いだというのに、床にも新しい水の跡はなかった。
「……なんだったんでしょう」
「分からん……が、君が狙われたのは間違いない」
「守り切れなくてすまなかった」と頭を下げる白さん。
「いえ、私の不注意でした」
彼だって手強い"太刀"を相手取っていたのだ。
不意打ちのように現れた奴相手に守ってくれなんて言うつもりはない。
「白さんは……」
大丈夫かと問い掛けて、ぎょっとした。
彼の右腕の袖がずたずたに裂かれていたから。
唯の布きれと化したそれが、赤く染まって腕に張り付いている。
「白さん、怪我が!」
「多少手こずった。なあに、大した傷じゃない」
へらりと笑う白さんだが、明らかに顔色が悪い。
腕だけじゃなく、体のあちこちに切り傷がついている。
白さんの背後には塵の山。
"太刀"を下した代償は高くついたようだ。
「やつは取り逃したが、まだ近くにいるだろう」
白さんは黒頭巾が現れた床を睨み付けて、木刀を廊下に立てる。
片腕に力を込めた白さんがゆっくりと立ち上がり、そのまま覚束無い足取りで歩き出した。
「待って、そんな体で追うつもりですか?!」
慌てて裾を掴んで引き留める。
その拍子に白さんの体がぐらりと傾き、咄嗟に支えた。
こんな歩くのもやっとの状態で、無茶が過ぎる。
「白さん、手当てしましょう」
「少しふらついただけさ。手当てってことはまたあそこに戻るんだろ?ここから戻るのは手間になる」
白さんは眉を八の字にして笑う。
べっとりと赤い布が張り付いた腕を庇うように、左手で押さえた。
ふいと顔を逸らす白さん。
それで気付いた。
庇ったのではない。
私の死角になる位置に隠したのだ。
「……白さん」
固くなった声。
白さんは無言のまま、横目でこちらを一瞥した。
「白さん、その腕……」
その肩に手を伸ばした、その時。
「君達、こんな所に居たんだね――おや」
空気を乱す第三者の声。
「!」
「……青江」
廊下の角からひょっこりと顔を出したのは、青江さんだった。
私達の姿を目にした途端、その目がすっと細まる。
「これはまた、酷い有様だねぇ」
飄々と言ってのけているが、青江さんは笑っていない。
白さんの腕をじっと見詰めた後、来た道を振り返った。
「手入れした方がいいよ。そんな状態で彼等に出会ったら一溜りもないだろうからね」
きっぱりと言った青江さん。
白さんは暫く黙って佇んでいたが、やがて大きく息を吐いて肩を落とした。
「……そうか、そいつは困るな」
迷子を守れないんじゃな。
ぽつりと零れた言葉。
「白さん……」
白さんがこちらを見て、困ったように笑った。
2018.08.25