十二
手入れ部屋まで戻り、白さんの右腕についた汚れを拭った。
傷痕は大きいけれど、思ったほど深くはない。
出血もそう多くはないようだ。
しかし。
「……」
「……」
呆然とする私に、白さんも視線を逸らしてただ黙っている。
こんなことに、なっていたなんて。
息を飲んで、腕を伸ばす。
白さんの右腕に指先を這わせた。
「……痛みますか」
喉を震わせて吐き出した声は、囁く程小さく。
対する白さんも静かに返す。
「……いいや、痛みは無い」
ない、のか。この有様で。
白さんの腕、傷んだ袖を取り払ったそこに付いた大きな刀傷。
黒。
内側から浸食した黒が、白さんの腕へ広がっていた。
その色はまるであの鬼達の肉のような。
一目で異常だと分かるそれを、白さんはぷらぷらと振るった。
「正直に言うとな、腕の感覚自体が覚束無い……こっちもな」
白さんの腹部に巻かれた包帯を、彼の指がしゅるりと解く。
現れたのは、腕と同様に黒く濁った肌。
臍を中心に大きな痕が広がっていた。
「……っ」
息を飲んだ。
包帯の上から触れた時には分からなかった。
けれどあの時既に、白さんの腹部に感覚はなかったのか。
「驚いたかい?」
なんてな、と笑う白さん。
こんな状態でも、白さんは気丈に振る舞えるのか。
あるいは絶望する理由すら分からないのかもしれない。
彼のようには笑えなかった。
「これは、いったい」
何とか絞り出した言葉は、硬い声となった。
それに答えたのは、汚れた布をまとめていた青江さんだった。
「それは呪いの類だ。君等が屠ってきた彼等の刃に呪詛が乗っていたのさ」
「呪詛……」
刃を交える度、傷付けられる度に、白さんの体は呪いを浴びていたのか。
それを知らなかったのは、私だけ。
最初に手入れ部屋に来た時、"大太刀"から受けた傷を手当てする時、既に二人は知っていた。
知って尚私に黙っていたのは――
「治らないんですか、これは」
「……」
震え声に、返ってきたのは重い沈黙。
――そういう事だったのだ。
白さんはいつも守ってくれた。
どんなに傷ついても、私を庇ってくれていた。
それなのに私は、彼の状態にも気付かずにのうのうと過ごしていたのだ。
無力感に唇を噛み締める。
白さんのような力も、青江さんのような知識もなく。
私では、どうにも出来ないのか。
「――呪いを解く可能性は零じゃない」
俯いた私に振ってきた言葉に、思わず顔を上げた。
薄ら笑いの消えた真剣な顔で腕を組んだ青江さんが、一つ一つ言葉を組み立てながら紡いでいく。
「一つ可能性があるとすれば……呪いの根源を断つことだね」
「呪いの、根源?」
先程青江さんは、これは私達が対峙した鬼達による呪いだと言ったばかりだ。
彼等は皆白さんによって屠られている。
それでも尚消えない呪いの根源とは。
「……黒頭巾のことだな」
白さんがゆっくりと頭を上げた。
「あの黒い……」
数分前の光景が蘇る。
間近に迫った黒い頭巾の下を思い返した瞬間、ぶるりと全身が震えた。
「彼に遭ったのかい?」
興味深そうに尋ねた青江さんに、白さんが答える。
「ああ、あいつが最初に現れたところから、真新しい滴跡を辿ったんだ。そうしたら――」
青江さんと合流するまでに起こった出来事を掻い摘んで説明した。
"太刀"との遭遇。現れた黒頭巾。
そして――大量に降り注いだ黒い水。
直後、垣間見たもの。
「あの時、私……夢を見ました」
「夢だって?」
白さんが目を丸くした。
「君、気を失っちゃいたが、そう長い間眠ってた訳じゃないだろ?」
「どうだったんでしょう。でも……とても不思議な夢で」
白さんが言うには、私が水を被った直後"太刀"によって阻まれたものの、数度刃を交えたところで白さんが決定打を叩き込んだらしい。
それから直ぐに私の元へ駆け付けると、黒頭巾は姿を消したという。
気絶していた時間がどれくらいだったのか定かではないが、あの時みたものは恐らくただの夢ではない。
水底に堕ちた棺。
鳴り止まない言葉。
あの呪詛は、誰に向けられたものだったのか。
「黒い箱から聞こえた声、か……」
そう呟いた青江さんは、思案するように指を顎に当ててどこかを見詰めた。
白さんもぐっと眉を寄せて唸っている。
「そいつは一体何者なんだ?その箱は、この屋敷の何処かにあるってことか……?」
黒頭巾との関係性も気になるところではあるけれど、ここで頭を捻ったところで答えは得られない。
黒頭巾のことも、屋敷のことも、未だ不明点の多い現状だ。
ならば、すべきことは一つ。
「情報を集めましょう。……あの黒頭巾を倒すための」
私の吐いた言葉に、二人分の視線がこちらに向けられた。
その視線に応えるように、はっきりとした口調で宣言する。
「白さんの呪いが解ける可能性があるのなら、手を打ちましょう」
「迷子……」
白さんの視線が私に問いかけている。
いいのかと。
黒頭巾と対峙した時、言い様のない恐怖を感じた。
あれは生き物ではない。これまでの鬼達とも一線を駕す存在だ。
けれど、恐怖ならこれまでも感じてきた。
鬼達への恐れは未だに失われることはなく、恐らくこれからも怯え続けるだろう。
つまりは、これまでと変わらないのだ。
鬼も、黒頭巾も、恐ろしい。
恐ろしいけれど、立ち止まらない。
白さんがいるから。
彼が守ってくれるから、彼が助けてくれたから、私はその分前に進むのだ。
大丈夫だと、大きく頷いてみせた。
「……分かった」
白さんもまた、ゆっくりと頷いた。
「君達がそうするなら、僕も合わせよう」
青江さんも同意した。
意見は纏まった。
改めて額を突き合わせる。
「それじゃあ、どこを探索するかですね」
間取り図を取り出して三人の中心に広げる。
黒頭巾が現れたのは、写真の"鍵"を見付けて開いた扉の先。
この辺りはかつての住人……刀剣男士達の生活空間になっていたようだ。
大人数で生活していたのだろう。
地図の上から見て、同じ大きさの部屋が幾つも並んでいる。
大きな浴場や、広々とした厨、広間のような部屋も付いている。
「この扉の先はまだ詳しく調べてなかったな」
「僕も目覚めてから君達の元へ辿り着くまで、とくに探索はしていなかったよ」
「では、扉の先から探索ですかね……」
けれど、あの黒頭巾はどこへ行ったのだろうか。
私の上に水を降らせた後消えてしまったというが、この屋敷内にいることは間違いない。
黒頭巾の操った水、示し合わせたように待ち伏せしていた"太刀"。
それ以外にも何をしてくるか分からない今、接触は避けるべきだ。
こちらから相手の動向が分からない以上、注意深く進むくらいしか対処方はないのだが。
「よし、そうと決まれば早速……っと、イチチ」
立ち上がろうとした白さんが、呻いて蹲った。
白さんは脂汗を浮かべてわき腹を押さえている。
「白さん、大丈夫で……ッ!?」
彼の肩に手を添えて覗き込むと、先程見た時よりも腹部の痣が大きくなっていた。
呪いが進行している。
痣が全身に広がるとどうなる?
全身の感覚を失う呪い、その行き着く先は――
「なあに、直ぐに痛みは無くなるんだ、大丈夫さ」
「それ、大丈夫とは言わないんじゃ……」
青ざめる私に心配を掛けまいと、顔色の悪いまま笑顔を作る白さん。
それを青江さんがたしなめる。
「全身傷だらけで動き回れば、呪いだって早まるさ。無茶は駄目だよ」
「だがなぁ、俺が出なきゃ鬼を払えないだろう?」
「でも、そんな状態で」
白さんは平気そうな顔をしているが、とてもそうは思えない。
痛覚がないというのは共有できないけれど、全身に付いた切り傷と濁った肌が痛々しい。
「……そういうことなら、僕が彼女と共に出るよ」
顎に指を沿えて、青江さんが一言。
「青江さんが?」
「ああ、索敵は得意さ。見付からなければ問題ないよね」
「それはそうだが……」
白さんがこちらに視線を投げかけてくる。
白さんは、私が共に居ることで心の支えになっていると言っていた。
そんな彼を一人にするのは少々気が引ける。
けれど、白さんの呪いは徐々に進行している。
白さんが動ける程に回復するまで待つのは惜しい。
逸早く行動して、白さんの呪いを解く手掛かりを得たい。
私が鬼に狙われている以上、共にいては白さんにも危険が及ぶ。
今までそれを承知で共に居てもらっていたけれど、彼の状態を鑑みるなら今は離れた方が良いだろう。
「白さんには、体を休めていてほしいです」
そう言って頭を下げると、白さんも押し黙った。
「今回はあくまで情報収集、黒頭巾の彼を見付けたとしても接触は避けるし、彼女は責任持って君の元に帰すよ」
「それでどうかな?」と青江さんに投げかけられ、白さんもしぶしぶと座り直す。
「分かった、分かったさ。確かに今の俺じゃ迷子を守りきれんし、かといって君の想いを無下にするつもりもない。大人しく留守番するぜ」
白さんは、頭の後ろに腕を回し、壁に背を預けた。
「白さん……」
「けど……早めに帰ってきてくれ」
薄く持ち上げた目蓋の奥で、金色の瞳が小さく揺れている。
「分かりました」
それに応えるように、大きく頷いた。
出発前に、改めて白さんの包帯を巻き直す。
腹部と腕の黒い痣は白い包帯に覆われ、破れの酷かった右腕の袖はたすき掛けに無理やり巻き込んだ。
少々不格好になった袖に苦笑いする白さん。
「さ、行こうか」
障子を開けて廊下の様子を確認した青江さんが、こちらに振り返る。
「……はい」
腰を上げて青江さんの背中に続く。
障子の間を抜ける直前、もう一度室内を振り返った。
「白さん、直ぐ戻りますね」
「ああ、またな」
軽く手を振る白さんを残して、手入れ部屋の襖が閉まった。
***
雨の音、無言の空間。
歩くこと数分、相変わらず徘徊する鬼の姿はない。
黒頭巾が姿を見せてから、屋敷の空気は微妙に変わったようだ。
青江さんが先を歩き、その後ろをついていく。
青江さんは足音のない歩き方をするので、不思議な感覚だ。
彼の歩調に合わせてひょこひょこと跳ねる長い髪を眺めながら、ふと思った。
そういえば、青江さんと二人で行動するのはこれが初めてだ。
出会った当初から何かと助言をくれる青江さんだけれど、一人で行動したがる節がある。
何故この人がこの屋敷で起こる怪異について博識なのか、気にならないわけではない。
私達を害することはなく、むしろ助けてくれている。
きっと悪い人ではない、と思うけれど。
その背中に向けて、意を決して口を開いた。
「ねえ」
「ひあっ」
そのタイミングで青江さんが振り返ったものだから、口から零れたのは小さな悲鳴になった。
青江さんは特に気にした風もなく、そのまま続ける。
「君はこの屋敷のこと、どう思う?」
「……え?」
唐突な問いかけに、理解が追い付かず聞き返した。
青江さんが立ち止まり、廊下に空いた丸い形の窓から視線を向ける。
絶え間なく振り続ける雨が、二人の間の無言を埋めた。
「ここは、ずっと雨なんだ」
どう答えたものかと思案している内に、青江さんが再び口を開いた。
「悲しい出来事が起こってから、ずっとこの屋敷の空は泣き続けている」
それは……青江さんの考察だろうか。
屋敷での出来事、黒頭巾のことも含めてこれから情報を集めようとしているわけだが。
「雨を晴らすために、何が必要だと思う?」
「必要……?」
「彼等がずっと待ち続けているものだ」
何だろうか、この問答は。
青江さんは屋敷の呪いに一家言あるようだし、私では到達できない域にまで推測が及んでいるのかもしれない。
けれど、この会話の意図を深く理解できないまま、ただ青江さんの言葉を反芻した。
「待ち続けているもの……」
彼等とは、この屋敷を徘徊する鬼達のことだろうか。
鬼達が何かを待っている?
私達がこの屋敷に閉じ込められる以前、この屋敷で鬼達がどうしていたのかなど考えたこともなかった。
言われてみれば確かに、私達がやって来る以前から、ずっと彼等はここにいたのだろう。
あてどなくさまよっているイメージをぼんやりと浮かべるけれど、もしも彼等がずっと何かを求めて動いていたのだとしたら。
長く長く手を伸ばし続け、それが漸く届いたのだとしたら。
"来てくれ"
それはこの屋敷に来る直前、私の耳に届いた声。
あれに呼ばれて私はここへ来た。
だとすれば、彼等が狙っているのは――
「生贄さ」
「――!?」
青江さんの髪に隠れた瞳が私を貫いた。
その鋭いまなざしに、ビクリと肩が跳ね上がる。
固まった私を容赦なく見詰め続ける青江さんに、どくどくと心臓が早鐘を打つ。
が、突然彼はにやりと口角を上げた。
「……なんてね」
くつくつと笑う青江さんは、再び前を向いて歩き出す。
「……」
呆気にとられた私を置いて、青江さんは音もなく先へ進む。
暫くして首だけ振り返ると、「早く来なよ」とそっけない言葉を寄越した。
そこでようやく硬直が解けた私は、足早にその背中を追いかける。
何故だろう、無駄に怖がらせられたような気がする。
またしてもからかわれたのだろうか。
彼の言葉の真意が掴めない。
結局問い掛けるタイミングを失ってしまった。
青江さん、つくづく何者なのだろうか。
2018.09.07