十三
前方に見覚えのある廊下が見えた。
写真の"鍵"によって開いた扉の所まで戻ってきたようだ。
開け放たれた扉を潜りながら、青江さんが記憶を手繰るように口を開く。
「ここから先が居住区だね」
「そうですね……」
今までの施設的な役割を果たしていた部屋から少し離れた配置だ。
中心を通った廊下を挟み、いくつか均等な広さの部屋が並ぶ。
これら全てに住人――刀剣男士が住んでいたのだろうか。
大人数で生活するこの場所は、かつてはとてもにぎわっていたのだろう。
写真に写っていた様々な年齢層の男士達。
大きな人も小さな子供も一緒になって、つかの間の平和を享受していたのかもしれない。
けれど今は。
長く続く廊下、その両側には閉ざされた障子。
ところどころ開いた穴、大きくひしゃげた組子。
隙間から覗く室内は、ただただ暗く、生きたものの気配はない。
蔓延する湿気た空気と、鉄と黴の匂い。
この中をこれから探索する。
誰かの暮らしていた部屋を荒らすのは気乗りしないが、今はその住人も不在だ。
試しに障子を引いて見たけれど、頑として開かなかった。
「ねえ」
呼びかけたのは、先行していた青江さんだ。
彼が立ち止まる場所には、障子が外れた部屋がある。
「この部屋は入れそうだね。どうしたい?」
中を覗いてみると、荒らされた形跡はあるものの散乱具合は酷くない。
何かが動く気配はないし、少しだけ調べさせてもらおうか。
砕けた障子の破片を避けながら、部屋へ足を踏み入れた。
室内の畳は痛んでいるが、元々物自体が少ないからかスムーズに足を運べる。
両脇は隣の部屋と襖で仕切られ、奥の壁には押入れと木組みの格子の嵌められた丸窓が備わっていた。
幾つかの家具が敷居に沿って設置されているが、殆どがひしゃげている。
その中でも比較的健在なのは、背の低い書棚だった。
まずはここの調査から取り掛かるとしよう。
少ない書物は湿気で膨らみ、書棚の中で無造作に転がっている。
黒い汚れを気にしつつ、指でつまむように一つ一つ取り出した。
中身をめくってみても、案の定汚れて殆んど読めない。
そもそもここは刀剣男士達の生活スペースなのだし、本丸に関することは図書室のようなところに行った方がいいのではとも思ったが、念のため全ての本に目を通す。
すると、背表紙を向けて並べられた本と本の隙間に紙片が挟まっているのに気付いた。
日記の欠片を思い出して引っ張り出すと、そこに書かれているのは筆の文字ではなく、整然と並ぶ活字。
見覚えのあるこの文字は、本丸規定と同じもの。
"本丸規定 第三十七――本丸閉鎖の儀"
紙片には、そう題されていた。
失われた頁がこんな本と本の隙間に差し込まれていたとは、人為的なものを感じる。
意図は不明だが、わざわざ隠しているということは、重要な事柄が記されているのかもしれない。
内容に期待しつつ、汚れの激しい紙片の内容を出来る限り拾った。
"――審神者がXXX任を解かれた場合、定められた儀式を行い、本丸を閉鎖する"
"儀式を執り行う前に本丸を浄化し、儀式中は穢れを避けること"
"最も審神者の霊力を受けしXXX士を柱とする"
"柱は棺に納め、本丸のXXXへ沈める"
"他刀剣男士は儀式後速やかに刀解する――"
「……」
その内容は予想外で、思わず息を止めた。
この頁がわざわざ切り離された理由を考えるならば。
恐らくこの本丸は、閉鎖の儀を行った。
閉鎖の儀とは、ただ本丸を閉じることではなかった。
刀を砕き、柱を埋める。
刀剣男士が人とは異なる存在であるとはいえ、拾った写真は、日記の記憶は、彼等が生きた存在であると語っていた。
それを、この本丸の審神者は、壊したのだ。
最も審神者に信頼されていた刀剣男士は棺に閉じ込められ、闇へと葬られた。
残った刀達も皆砕いて、審神者はこの屋敷を去った。
――棺。
呼び起された記憶。
暗い水中に響く怨嗟の声。
水底に沈んだ一つの箱。
あの中にいたのは、あの怨嗟が向けられたのは――
「隠れて」
「ッ!!」
耳元で囁かれた声。
大げさに肩をびくつかせて現実に戻ると、傍で青江さんが屈んでいた。
笑みの消えた面で、じっと障子の隙間を見詰めている。
「襖の方へ身を寄せて、出来るだけ物音を立てないように」
「え……」
「彼が、来た」
「!」
短い言葉で直ぐに察しが付いた。
黒頭巾が、現れたのだ。
私に気配は辿れないが、青江さんが言うのなら間違いないだろう。
言われるがままに部屋の角の襖へ張り付き、ぎゅっと体を縮こまらせた。
青江さんは障子の方へ身を寄せ、耳をそばだてている。
じっと待つこと数秒、あるいは数分経ったか。
青江さんがぴくりと動いた。
私には何も聞こえない。
じっとりと重い空気が揺蕩っているだけだ。
――否。
ず……
この耳にも届いた。
重いものが床板に擦れる音。
べちゃ……ずる……
音の間隔は長く、しかし一定のリズムで鳴り続ける。
歩いている。
二足歩行で、廊下を進んでいる。
爪のような硬いものが当たる音ではない。
この足音は、黒頭巾の……!
息を呑む。
音が、ぴたりと止まった。
確実に近付いていた足音は、この部屋に面した廊下の端で止まっている。
口元を手で覆い、荒い息を必死に殺す。
フラッシュバックする黒頭巾の溶けた顔。
鼻を突く腐乱臭が思い起こされて、眉を寄せた。
……ずる
「ッ」
動いた。
水を吸った布地を引き摺りながら、この廊下をゆっくりと進んでいる。
ずる……ずる……
早鐘を打つ心臓が、鼓膜の邪魔をする。
落ち着け、まだここには来ていない。
いないふりをすれば通り過ぎる。
ずる……
「!」
外の弱々しい光を受けて、障子に仄かな影が映った。
一人分の影。
頭を覆う頭巾と、体に張り付いた布の形。
一枚隔てたその向こうに、立ち止まっている。
青江さんは緊張した面持ちで身動き一つせず様子を伺っている。
障子が外れているのは部屋の端、あの影が数歩進めば辿り着く位置。
動くな、動くな。
心の中でひたすら同じ言葉を唱えながら、呼吸を繰り返す。
瞬きも忘れ、食い入るように影を見詰めた。
その時は悠久のようにも思えて、しかし。
ず……
動い――
とぷん。
「え――」
影が、沈んだ。
障子を通した黒頭巾の姿がにわかに揺らいだ途端、水中に潜ったかのように消えた。
ひやり。
淀んだ空気を冷気が侵食する。
否、消えた訳ではない。
黒頭巾は、まだこの近くにいる。
どこに。どこから。
体は動かないまま、目玉だけが忙しなく部屋中を探し回る。
いない、いない、部屋の中にはどこにも。
「――!」
こちらを振り向いた青江さんが、声を出さずに叫んだ。
彼の目は大きく開かれ、その視線は私の――後ろ。
気付いた瞬間、血の気が引いた。
かすかに音が鳴る。
何かがすり合わさるような、浅い溝を擦るような音。
するすると、背後の襖が開かれている。
ゆっくりと、確実に、その隙間が広げられている。
そこから漏れ出る冷気が、私の指先を撫でた。
「は、ぁ」
呼吸が浅くなって、体が震える。
寒い。いや、それ以上に、背後に恐ろしい存在を感じる。
確かめなくては、何がいるのか。
――いやだ、見たくない。
振り返ってはいけない。
何が、何が動いているのか。
駄目だ、見てはいけない。
混濁する思考。
私の頭は、目は、後ろへと回った。
「ヒッ――」
背後にあった襖が、十数センチ程ずれている。
狭い隙間の向こう側、体の半分程を覗かせてそれは立っていた。
全身は濡れそぼり、張り付いた布の隙間から見えるのは、どろどろにふやけた浅黒い肌。
以前一目見た時と寸分違わぬ姿で、黒頭巾がそこに居る。
その姿を目に映した途端、襲う強烈な嫌悪感。
膨張した肉の放つ腐乱臭に、胃酸が迫り上がる。
「ウッ、ぐ」
黒頭巾は無言。そも言葉を話すことが出来るかも分からない。
黒い布がにわかに擦れ、ぬっと現れた腕が、襖を超えてこちらへ伸びる。
持ち上がった手の肉は溶け、皮は水風船のように骨に引っかかっていた。
頭がぐらぐらして、視界が白くぼやける。
しかし、突然その指が止まった。
ビクリと跳ねた黒頭巾が、半歩後ろへ身を引いた。
腕を自分の体へ引き戻し、両手をわなわなと震わせる。
俯いて体を小さくするその様は、まるで何かに耐えているように見えた。
突然の変貌に戸惑う。
目の前で、一体何が起こっているのか。
以前どこかで似たような光景を目にした気がする。
全身を支配していた恐怖が弛緩し、思考の余裕が生まれる。
すると、脳の片隅にふっと疑問が湧き上がった。
戦慄く唇に力を込めて、無理矢理こじ開ける。
「……な、ぜ」
絞り出した声は酷く掠れた。
唇をぎゅっと噛み締め、もう一度声にする。
「何故、私を狙うの」
はっきりと言葉となった疑問。
――この本丸でかつて閉鎖の儀が行われたのだとして。
私が夢で見た水底の棺の中に、柱となった刀剣男士がいる。
その夢を見せたのは、この黒頭巾だ。
黒頭巾と柱の刀剣男士に繋がりがある。
けれど……私と彼等には、繋がりなどない。
何故私なのか。
青江さんの言う通り、生贄を求めているのか。
無関係な人間を巻き込んでまで、怨みを晴らしたいというのか。
相手の様子を静かに見守る。
黒頭巾は頭に手を当てて、ぶるぶると震えるばかり。
私は続けて疑問をぶつける。
「……貴方は、何者なの」
柱の刀剣男士と黒頭巾、彼等はどういう関係なのか。
鬼達の親玉だと思っていた黒頭巾の存在は、もっと別の意味を持っているのではないのか。
「ウ……」
頭巾の下から漏れるのはくぐもった声ばかり。
何かを話そうとしているのか、苦悶しながら震えている。
この光景は"大太刀"の時にも見たものだ。
自分の姿に惑う、自分の行動を咎める。
鬼達は、黒頭巾は、自我を持っている――?
そう思ったのも束の間。
突然大きく振れた黒頭巾の体、ギラリと灯った紅い光。
「アアアアアア!!」
金切声を上げて、黒頭巾が腕を持ち上げた。
その手首から、鈍色の刀がずろりと生える。
「!?」
「いけない!」
肩をぐんと引っ張られ、体が後方へ傾く。
黒頭巾との間に割り込んだ青江さんが、振り下ろした一撃を喰らった。
頭ををかばった腕は鋭い刃で引き裂かれ、赤い粒が飛散する。
「あ……」
「走って」
呆然とする私の腕を青江さんが引く。
黒頭巾は唸り声を上げながら、その場で頭を大きく振っていた。
部屋を飛び出し、傷もそのままに廊下を駆ける青江さん。
私は腕を引かれるまま、青江さんの後ろを走る。
「青江さん、怪我が……ッ?!」
上下に揺れる視界の中で捉えた、破れた袖の下の赤くなった傷口。
否、赤ではない。
黒。
青江さんの受けた傷周りの皮膚が、黒く濁っている。
「ああ……これはまずいね」
傷口を確かめた青江さんは急に立ち止まり、私と入れ替わるように振り返った。
「僕では君を庇い切れない。彼の元へ急ぐんだ」
白さんの元へ。
それは、青江さんを置いて行くということ。
赤く染まるジャージの下で、呪いが進行を始めている。
傷痕は深く、血が止まる気配はない。
そんな状態の彼を置いて行くなど。
「青江さんも一緒に来てください。貴方を見捨てるなんて出来ない!」
だって、この人は、私を庇ってくれた。
行動を共にした期間は僅かでも、協力して本丸を探索した。
彼の現状にぴったりすぎる知識や意味深ぶった態度を不思議に思ったことはあれど、何度も助けられたのは事実だ。
恩人を助けることも出来ないのは、とても苦しい。
そんな想いを込めて必死に見上げた。
青江さんは私をじっと見詰め返し、やがて髪に隠れていない片目をふっと細めた。
「君は、似ているね」
「え?」
「僕の大事な人に」
青江さんがぽろりと零した言葉。
場違いな程柔らかく告げられて、突然の事に戸惑った。
大切な人、と言った青江さんがとても優しい顔をしていて、今の切迫した状況も一瞬忘れる。
「え、それは……恋人ですか?」
「まさか、あの人はそんなんじゃないよ」
くすりと笑った青江さんは、ふと懐かしむように遠くを見詰めた。
「けれど、何にも代え難い人だった。もう随分昔に生き別れてしまったけれどね。でも、もし叶うならもう一度……」
そこで言葉は途切れ、ただの吐息に変わった。
唐突に垣間見た青江さんの過去。
薄らとした笑みで本心を隠すような人だから、彼の背景も考えた事はなかった。
けれど、そうだ。当たり前のことだが、青江さんにだって大事なものが、帰るべき場所がある。
それならば、何故彼はここで足を止めている?
「青江さん」
彼の傷付いていない側の腕に触れる。
もう一度足を動かすようにと声を掛けようとした矢先――
廊下の空気がぐにゃりとねじ曲がった。
床に落ちた冷たい闇が膨張し、質量を持って盛り上がる。
「走って!」
青江さんの力強い腕に背中を押され、廊下をつんのめりながら進んだ。
振り返った廊下の中央、青江さんの後ろで影が人の形を成す。
「青江さん!」
「早く彼の元へ!」
青江さんは頑なに動かない。
泥の中から浮上するように現れた黒頭巾。
紅い目をぎらりと光らせて、抜き身の刀を構えた。
――青江さんが危ない。
けれど駄目だ、私ではあれに対抗出来ない。
白さんを呼んでこなければ。
「……ッ」
私は無力だ。
後ろ髪を引かれるような想いで、手入れ部屋へと駆け出した。
***
腕から滴る血液が、床に赤い血溜まりを作る。
走り去る足音を聞き届け、青江はゆっくりと振り向いた。
「……さて。完全に自己を失ったようだね」
青江の眼前には黒頭巾。
無言で佇むその奥で、虚ろな紅い目が明滅する。
「これで君も、"鬼"の仲間入りか」
独り言のように零された言葉。
返答の代わりに、黒頭巾の握る刀がカチリと音を立てた。
緩慢に持ち上がる切っ先を目で追いながら、青江の脳裏に在りし日の情景が蘇る。
これが走馬灯というものかと、自分の現状を思って苦笑した。
走馬灯など、今の己は生に縋りつくことも出来ないというのに。
苦笑しつつも、青江は懐かしい光景を思い返す。
――遠い過去、大事な人がいた。
姿形は異なるが、先程走り去った彼女は、ふとした時にその人の面影と重なる。
あの人は今何処にいるのか。それはもう、分かりきっていることだ。
「叶うなら、もう一度……」
それでも、願ってしまう。
もしもと思ってしまう。
あの人のいる、あの場所での生活が、青江にとってかけがえのないものだったから。
「帰ってきてほしい」
その言葉は、風を切る刃に掻き消された。
2018.10.16