十四
速く、早く、走る。
暗がりの狭い廊下、湿気で膨張した床板にこびりついた泥が足に絡みつく。
何度もバランスを崩しながらひたすらに駆け、ようやく手入れ部屋が見えた。
騒々しい足音に気付いてか、取っ手に手を掛ける前に障子が内側から開かれる。
「――白さん!」
その狭間に現れた白い衣に、思わず飛び込んだ。
「っとお、迷子?!」
飛び付いたそれは小さくよろけた後しっかりと踏み止まり、頭上から驚いた声が降りてくる。
白さんの声、体温、その顔を瞳に映した瞬間、押し込めた不安がどっと溢れ出す。
「あ、あ……白さん、私、私……!」
「おっと、落ち着け。随分慌てているようだが何があった。青江はどうした?」
宥めるように白さんの手が私の肩に触れた。
「お……置いてきてしまった!青江さんを、一人で!私を庇って、青江さん、怪我を!」
口にして、後悔が胸にじわりと広がる。
なんて事をしてしまったのだろう。
庇ってくれた恩人を、負傷した状態で置き去りにした。
頭のてっぺんから爪先まで、血管を巡る血液が冷たくなっていくようだ。
戦慄く私の言葉を聞き取った白さんの目がにわかに大きくなったかと思えば、一瞬で細められた。
「場所は何処だ。直ぐに行こう」
「は、はい……」
冷静な声に、私も段々と落ち着きを取り戻す。
木刀を握り絞めた白さんと共に、走ってきた廊下を駆け戻った。
――しかして、そこに青江さんはいなかった。
おびただしい量の血溜まりを遺して、黒頭巾と共にその姿は消えた。
「青江さん……青江さん!!」
大声で呼び掛けても、反響した廊下には私達以外の気配はない。
この出血量で、青江さんはどこへ消えたのか。
血溜まりは引き摺られたような痕跡があり、廊下の上を数センチ走っている。
だが、少し先の水溜まりの前でぷっつりと消えていた。
先に遭遇した黒頭巾は、水中に沈む様に消えた後背後から現れた。
この血痕と水溜まりもまた、それと同じ状況が想像出来る。
青江さんは、黒頭巾に連れ去られたのかもしれない。
それが何の為なのか、青江さんは生きているのか。
白さんはしゃがみ、その痕跡を指でなぞった。
「乾き切ってない……が、この血の量は」
そこで途切れた言葉の先は想像に難くない。
出血多量によるショック死……人が死に至る程の出血量とは、どれ程だったか。
頭の片隅でそんな事を考えながら、ふらふらと壁に寄り掛かる。
青江さんは、ここで。
「青江の奴、自分の言葉は守ったか……」
薄暗い廊下を見詰めながら、白さんがぽつりと漏らした言葉。
青江さんは、私を白さんの元へ送った。
行きしなに白さんに告げた事柄は、確かに果たされた。
それだけの為に、彼は私を庇ったというのだろうか。
否。
彼が最後に残した言葉が耳の奥に残っている。
あの言葉には、何かの意味が込められていたはずだ。
それが何だったのか、私には分からない。
もう、誰にも分からない。
「……」
私が彼を置いていったから。
私が彼に庇われたから。
黒頭巾は私を狙っていたのに、私ではなく青江さんが居なくなってしまった。
ふと、耳の奥でざわついていたものが消えた。
視界から色が失われ、思考が止まる。
仰ぎ見た天井はただ暗く、のっぺりとした黒で塗りつぶされた屋敷が、じわじわと迫ってくる。
人の命の重さが、私を押し潰さんとのしかかる。
重い。
そのあまりの重さに、壁から滑り落ちるように蹲った。
膝に力が入らず、呆然と項垂れる。
「迷子」
白さんは小さく私の名を呼ぶと、私の肩に手を置いた。
白さんの高くない体温、冷たい手。
それでもどこか温みを感じるような、労わる手つき。
そうしてどれ程の時間が経ったのか。
体感では光年程の時が経ったように思えたけれど、実際は数分の事だろう。
「落ち着いたか?」
穏やかな口調で尋ねられ、伏せていた顔を上げる。
揺れていた視界は止まっていた。
「はい……」
蹲っている場合ではないのは理解している。
こうしている間にも、いつまた黒頭巾が現れるとも限らないのだ。
立ち上がろうとして、足が震えて再び尻餅をついてしまった。
「あ……すみません」
「ゆっくりでいいさ」
白さんの腕を支えに何とか立ち上がる。
見上げた白さんの顔には、焦りも憂いも浮かんでいなかった。
「……白さんは」
平気なのかと問おうとして、躊躇った。
「強い、ですね」
中途半端に途切れた言葉を補おうと口をついて出たのは、濁した台詞。
唇を青くする私とは対照的に、白さんのその美しい相貌に乱れはなく極めて冷静だ。
「そうでもないさ。死体を見た訳でもなし、まだあいつが死んだと決まったわけじゃあないからな」
私の言葉に対し、白さんはあっけらかんと言ってのけた。
それは、確かにそうかもしれない。
けれど彼も先程言ったように、この凄惨な現場を見れば最悪を想像してしまう。
不安を視線で訴えると、白さんはふいと目を逸らして小さく息を吐いた。
「……そうだな、本当のところ望みは薄いだろう。だというのに君程堪えてはいない……これを薄情と言うんだろうな」
その声は僅かに悲しみを含んでいた。
その悲しみは私の抱くものとは異なる。
またしても垣間見えた、私と白さんの相違点。
白さんは、青江さんが居なくなったという事実にも動揺することはない。
戦慣れしているとは、死と隣合っていることでもある。
彼にとって命の喪失とは、心を砕く事柄ではないのだろう。
あるいは、自分自身の命さえも。
――それは悲しい事だと理解していても。
逸らしていた視線を戻し、白さんは真っ直ぐにこちらを見た。
「けど、今はそれでいい。君を守るのが俺の役目だ。膝をついている場合じゃないだろう?」
その目は光を失わず、確かに先を見据えている。
脆く美しく、力強い瞳。
これが、彼の強さだ。
この先何があったとしても、彼は私を守ってくれるのだろう。
例え己が身が朽ちつつあろうとも。
「――……」
ならば私も、自分の役目を果たそう。
立ち止まるのはこれまでの全てへの裏切りだ。
震える足に力を込めて、しっかりと地を踏み締めた。
***
「ここで何があったか、詳しく話してくれるか?」
「はい」
その場を離れ、歩きながら先の経緯を白さんに伝える。
居住区にあった本丸規定の事、現れた黒頭巾の事、青江さんが私を庇った事。
閉鎖の儀を執り行った本丸、水底に沈んだ棺の夢、屋敷を彷徨う黒頭巾、それらが何か関係あるのではないかという見解も添えた。
「閉鎖の儀……柱となった刀剣男士か」
それを聞いた白さんは、顎に手を当ててじっと一点を見詰める。
「その儀式ってのは、行ったらどうなる?」
「それは……」
閉鎖の儀を行った後、刀剣男士は刀解され、審神者は此処を去る。
しかしその後どうなるのかまでは書かれていない。
この本丸は儀式を行なったと思われるが、その結果がこの有様なのだろうか。
唐突に足を止めた白さん。
「……"御役目となった刀剣男士が看取りを行う"」
彼が口にした言葉に首を傾げた。
白さんの視線は下に向き、その足元の床には何かが張り付いている。
血とも泥ともつかないものが付着していて分かりにくいが、紙片のようだ。
今までに何度か発見した日記の欠片……ではなさそうだ。
しゃがんで見てみれば、汚れの中に見覚えのある字体が垣間見える。
「これは……本丸規定の」
青江さんと別れる前に見付けた本丸規定の頁と同じ字体。
しかし白さんが読み上げたその内容は、私の知らない情報だった。
「こいつはどうやら君が目を通したものとは別物らしい」
よくよく見れば、濡れそぼった頁がばらばらと廊下に散っている。
これらも全て新たな頁なのだろうか。
白さんと頷き合って、頁を一つ一つ確かめていく。
"――儀式を執り行う前に本丸を浄化し、儀式中は穢れを避ける"
"百余年の時を経て、柱は大地へ溶ける"
"大地を守護し、後に訪れる審神者へのXXX――"
幾つも散らばった紙片、それらに全て目を通すと、新たな情報が浮かんできた。
百余年……それ程の長い時を、閉じ込められていたのか。
ならばこの本丸は今から百年前にはあったのだろうか。
否、それよりも気になる点が一つ。
"穢れを避ける――"
この本丸が閉鎖の儀を行ったのだとしたら、儀式の前に清められたはずだ。
だというのに現状はどうだ。
屋敷中が黒く濁り、足元は泥に塗れ、室内には血痕が残っている。
徘徊する鬼達、黒頭巾。
それはつまり。
「……失敗、したのか」
共に文字を辿っていた白さんが零した言葉。
――閉鎖の儀は、失敗した。
何らかの要因でこの本丸は閉じられず、百余年、あるいはそれ以上の時をこの状態で過ごしていたのか。
儀式が中途半端に終わったせいで、こうして私達が招かれてしまったのかもしれない。
「でも、どうして?」
何故儀式は失敗したのか。
それには白さんも首を横に振った。
本丸規定には儀式の方法は乗っていても、この本丸での出来事は書かれていない。
この紙片からはこれ以上読み取れない。
知る方法があるとすれば、一つ。
「あの日記を探しましょう」
この本丸の住人が書いたであろう日記、触れることで残された記憶を垣間見るその欠片。
あれにここで何が起こったのか記されていれば、あらゆる謎が紐解けるだろう。
「ああ」
その提案に、白さんも頷いた。
***
今まで見つけた日記片は鬼達が所持していた。
恐らく残りの欠片も同様だろうと屋敷内を探索すること数十分、未だに鬼に出くわさない。
それでも、いつ黒頭巾が現れるとも分からない状況に緊張する。
片手は握り締めて胸の前に、片手は白さんの手と繋がっていた。
その手を通して震えが伝わったのか、白さんがちらりと後ろを振り返る。
「……ここに住んでいた連中ってのは、閉鎖の儀を行った時どんな気分だったんだろうな」
そうして提供された話題には、白さんの興味も混ざっているようだった。
「そうですね……」
閉鎖の儀。
審神者が何故それを行うに至ったのかは分からないが、刀剣男士達の胸中は計り知れない。
選ばれた刀剣男士は柱として沈む。
百余年の歳月を経て、この大地に還るのだと言う。
その歳月は、途方もないものに思えた。
人間の寿命で考えれば、百年は長寿の部類に入る。
長き時を渡り歩いた刀剣男士にとっては短いのかもしれない。
けれど、百年の眠り、たった一人で――それは孤独に他ならない。
「俺は退屈は嫌いなんでな。きっと堪えられんさ」
そう言って肩を竦めた白さん。
彼は驚きを好む。
戦いの中、日常の中、あらゆる場面で心躍る展開を望んでいる。
もしもそんな彼が柱として沈められたら、その状況に堪えかねるだろう。
選ばれた者が柱となれなかったら、儀式はどうなるのだろうか。
ふと過った疑問に応えるかのように、ポケットの中の写真がかさりと揺れた。
――かたん。
「!?」
不意に耳に届いたのは、小さな音だった。
私達ではない。
鬼や黒頭巾の足音でもない。
ここは居住区、刀剣男士達の部屋から一本廊下を逸れた先、厨や浴場のある廊下だ。
音は、その奥から。
振り返った白さんと頷き合って、前方を見据えた。
薄暗い廊下を慎重に歩く。
手前の扉に近付いた白さんが、無音で耳を貼り付けた。
かたん。
再び鳴った物音は、確かにその中から。
木刀を右手で掴んだ白さんが、大きく身を引いた。
そして――
「!」
勢いよく体をぶつけ扉を破った白さんが、室内へなだれ込む。
響いた轟音は瞬く間に雨の中へと溶けた。
衝撃で落ちた木の器が床の上で転がり、からからと鳴る。
それが止むと、静寂の厨が顕わになった。
薄暗い部屋、床に散乱した食器の欠片、黴の生えた流し台、歪んだ食器棚。
――何もいない。
じりじりと白さんが部屋の中へ進む。
私は入口直ぐの壁に背を預け、その様子を見守った。
「……」
ぱり、と乾いた音。
白さんの草履が床に落ちた食器を踏んだその時。
「!」
食器棚から飛び出す影が、白さん目掛けて空を駆ける。
「"短刀"!」
割れた食器を纏った"短刀"が、その欠片をまき散らす。
白さんの頬を掠めた欠片が、白い肌に赤い線を引いた。
「ッ、甘い甘い!」
一瞬身を屈めた白さん。
その姿勢のまま"短刀"の下へ潜り込み、ばねのように体を突き上げる。
勢いのついた木刀の切っ先が振り抜かれ、"短刀"の胴体を真っ二つに割った。
わなわなと顎を震わせた"短刀"は、宙を漂いながら力なく項垂れる。
「すごい……」
呪いに侵されても尚鮮やかな手前に、口を開けるばかりだった。
端から塵と化す"短刀"の体からは何も現れない。
木刀を払った白さんが残念そうにぼやく。
「こいつは何も持っちゃいないか……」
やっと遭遇した鬼だったが、成果は特に無し。
口をへの字に曲げた白さんが、厨を後にしようと足を突き出した。
――ピチョン。
その直後、またしても鳴った音。
絶えず続く雨音とは異なる、つぶての滴る音だった。
厨の中の水道は既に枯れ、音は別の水場から。
それは果たして。
「浴場か」
白さんの木刀が、すうと持ち上がった。
2018.11.28