十五
長雨に包まれた古屋敷、篭った黴と錆の臭い。
歩く度に小さく鳴るのは木の擦れと絡み付く埃の音。
床に落ちた暖簾を跨いだその先に、脱衣所があった。
大きくひしゃげた棚から零れた籠が床のあちこちに転がっている。
脱衣所の奥、曇り硝子で仕切られた向こう側には大浴場があるはずだ。
かつての住人の痕跡はあるものの、それも遥か昔の事。
使われなくなって久しい浴場は、今どうなっているのだろうか。
曇り硝子には何も映らず、中はただ薄暗い事だけが伝わる。
硝子戸に指を掛けた白さんが確かめるように力を込めると、僅かに滑った。
開くことが出来そうだ。
この先に、何かがいる。
こちらを向いて小さく頷いた白さんに、私も頷き返した。
扉に向き直った白さんが腕を動かすと、軋む音を立てながら硝子戸が少しずつ開く。
徐々に広がる隙間から、浴場の空気が流れ出す。
鼻をつく黴の臭い、肌にまとわりつく湿気。
開ききった扉の先に広がる浴場の全容。
広さは脱衣所の倍はありそうだ。
周囲に注意しながら浴場へ足を踏み入れる。
壁に沿って蛇口が並び、大人数を想定した造り。
片隅に積まれた桶は、長い間放置されて黴に蝕まれている。
浴槽は部屋の半分を覆うほど大きく、その中に張られた水は、固形物と見紛う程真っ黒に濁り切っていた。
――その中心、微動だにしない水面に、何かが在った。
初めに視界に映ったそれは、何かの破片でも浮いているように見えた。
けれど、目を凝らせばそれは大きな塊で、大半が水中に沈んでいるのだと気付いた。
水面に浮かぶ箇所の表面は柔らかな生地で、場所によって皺が出来ている。
布。
中に何かを包みこんだ衣服――
「――ッ!」
正体に気付いた瞬間、喉が震えた。
口元に当てた手の隙間から漏れた悲鳴が浴場の壁に反響する。
布を纏った塊。
水面から辛うじて見えているのは、背中。
水を吸って黒く染まった厚みのある生地。
沈む頭から伸びる髪が、水の上に広がっている。
その髪の色は、見覚えがある。
碧色の、ビロードのような長髪。
「青江さん!!」
私が叫んだのと同時に、白さんが浴槽へ足を掛けた。
澱んだ水中へ躊躇無く足を突っ込み、白い衣に黒い飛沫が掛かる。
波立つ水面も関せず、中心に浮かぶ青江さんの元へざぶりと踏み出した。
――途端、白さんが止まった。
縫い留められたようにその場から動かない白さん。。
見れば水中からぬらりと現れた黒い手が、彼の足を掴んでいた。
「はッ」
振り払った白さんの足が派手に飛沫を上げた。
荒れる水面、その波間から、次々と腕が伸びる。
水面をざぶりと持ち上げ姿を現したのは、三体の"打刀"。
青江さんへの道筋を遮るように立ち塞がった鬼達に、白さんが歯噛みする。
「驚かせてくれるじゃないか。だが今は君等に構ってる場合じゃない」
木刀を抜いた白さんが、鋭い視線で鬼達を見抜く。
三体の鬼は動じない。
連携の取れた動きで間合いを詰め、一斉に襲いかかった。
次々と迫る錆びた刃。絶え間ない連撃を、白さんは一つ一つ木刀で防ぐ。
三対一、手数では圧倒的に不利。
更に場所は浴槽の中、黒水が袴に絡み白さんの動きを鈍らせる。
「く……、ッ?!」
上から振り下ろされた"打刀"の一撃を受け止めた白さん。
そこに覆い重なるように、二体目、三体目の"打刀"の攻撃がぶつかった。
重量に白さんの上体が大きく仰け反る。
押しつぶさんと更に体重を掛ける"打刀"達。
たまらず膝を折った白さんが、そのまま浴槽に倒れた。
「白さん!」
大きな波が立ち、白さんの姿が隠れる。
諸共に倒れた"打刀"が起き上がり、泡立つ水中目掛けて刀を振り上げた。
瞬間、巨大な水柱が立った。
派手な音と共に現れた大きな黒い壁に飲まれ、"打刀"の姿も消える。
何が起こっているのか視認出来ない中、一瞬の煌めきが目を焼いた。
それは光の如く素早い斬撃。
次の瞬間、立ち上がった水が割れ、隙間から見えたのは白銀の髪と倒れゆく鬼。
「……ガ、ア」
白さんが振り向きざまに浴びせた太刀によって、残りの"打刀"も声もなく沈んだ。
割かれた水が宙に留まる間の、刹那の出来事。
漸く落ちてきたつぶてが、ばたばたと水面に打ち付ける。
大きくて波立つ水面。
その上で揺らめく"打刀"達がやがて塵と化し、黒い水へ溶け消える。
そうして、鬼が蠢く気配は止んだ。
脅威は去ったか。
「し――」
安堵しかけた刹那、白さんがぴたりと動きを止めた。
その目を僅かに見開き、握る木刀に力を込める。
ぴりと張った空気に、私の動きも止まった。
すると、どこからか、何かが流れてくる。
匂い、温度、音か、如何とも言い切れない奇妙な感覚。
立ち去った筈の悪寒がぶり返し、肌が泡立つ。
暗い浴場の中、壁に背中を預ける私と、浴槽の中で立ち止まったままの白さん。
動くものは水面だけ。
揺らめく水の奏でる音が、徐々に収まっていく。
ちゃぷ……ちゃぷ……
……ちゃぷ……
……
波が収まり、訪れた静謐。
耳が痛くなるほどの。
依然張り詰めた空気。
「……――っ」
息を呑む。
白さんの目が大きく見開かれた。
彼の背後、暗がりの中。
悪寒の正体を、見た。
――いつの間にか、立っていた。
だらりと垂れた両腕、黒い水を吸って濁った衣服。
隙間から覗く地肌は黒く濁り、ぼたぼたと水滴を落とす長髪はしだれ柳の如く。
――青江さんが、立ち上がっていた。
心臓が強く脈打つ。
別れる前と同じ姿で、彼が立ち上がっている。
不気味な程静かに、暗がりの中佇んでいる。
……否。
あれは、私の知る彼ではない。
彼の周りから流れ伝わる空気が、じっとりと肌を撫でる。
この気配も、あの肌の色も、以前の彼とはまるで異なる。
鬼達と、同じだ。
振り返った白さんが、青江さんをじっと見詰める。
やがてすっと目を細め、小さく息を吐いた。
「……青江」
静かに名を呼び、白さんはその手に握った木刀をゆっくりと持ち上げる。
「待って、白さん!」
切っ先が青江さんに向く直前、たまらず声を上げた。
肌の色、感じた悪寒――けれど彼は、ただ自分の足で立ち上がっただけだ。
数刻前まで行動を共にしていた人物が、殆ど変わらない姿でそこにいる。
そんな彼に、刀を向けるのは。
「青江さんは、まだ……」
縋るように白さんを見上げる。
こちらを一瞥した白さんが、改めて青江さんに向き直った。
「……だそうだが、君、生きているかい?」
感情の乗らない、酷くそっけない言葉。
青江さんは何も返さない。
そのまま佇んでいるだけか――と思いきや、ゆらりと持ち上がった頭。
「……!」
白くきめ細かな肌は、黒く汚れている。
かつての彼がうっすらと笑みを湛えていた唇は、今はただぽかりと無気力に開いている。
黒く濁った虚ろな瞳は、どこを捉えているのかも分からない。
そんな姿で、彼は、ゆっくりと唇を開いた。
「君、が」
言葉。
青江さんが、その唇から言葉を紡いだ。
咆哮ではない、知性のある声。
だのに。
「あんまり焦らすから、溢れて、溶けて……消えてしまう」
冷たい。
かつての青江さんは、曖昧で意味深で、しかし私達に歩み寄る姿勢を見せていた。
けれど今、青江さんはきっぱりと私達を拒絶していた。
その言葉の意味も、青江さんの状況も、私には理解しきれない。
青江さんの垂れ下がっていた腕がゆっくりと持ち上がる。
体の前を通過し、頭の上を通り、大きな弧を描いた両手は首の後ろへ。
青江さんが上半身を前方に傾け、髪が束になって垂れ下がる。
そうして青江さんの十の指が、彼の首の付け根へ立てられた。
私はただ見詰めるばかりで、白さんも様子を伺っている。
すると――
ぐじゅ。
浴室に反響するくぐもった湿音。
青江さんの指先が首の中へ沈んだ。
「?!」
予想外の行動。
白さんも反応が遅れ、その内にも青江さんの指は自らの肉を抉っていく。
ぐちゅ、ぶちゅ。
肉をこじ開け、無理やり押し込む。
黒に染まった細長い五指が彼の首へと埋まっていく度、聴覚を侵される感覚に眩暈を覚えた。
湧き上がる吐き気を飲み込む間にも、指の根元までが沈み、骨さえ抉れる程の深さへ至る。
青江さんの肘が一層高く上がり、指をぐっと握った。
根深い木を掘り起こすように表皮が盛り上がる。
ぶちぶちと鳴る音は、血管が切れたのか。
そうしてずるりと取り出されたもの――其れ即ち柄。
白い革に覆われた柄が、根元に取り付けられた金の鍔が、青江さんの肉を割って現れた。
青江さんが大きく足を開き、深く腰を沈める。
唇を大きく開いた。
「――!」
音の無い叫びを上げ、青江さんが刃を引き抜く。
瞬間、吹き荒ぶ風。
「!?」
突風に思わず目を閉じる。
荒れた空気と共に広がる巨大な気配。
歪に増幅していくのは、青江さんの気配に他ならない。
薄ら目蓋を開けた先では、青江さんが風を纏っていた。
衣が変貌し、ジャージは詰襟へ、肩には金属の防具、随所に散りばめられた装飾。
何より目を引くは、風に靡く大きな布。
左肩に掛けるそれは、かつては透明感のある真白の衣だったのだろう。
今や黒く穢れたそれは、白装束と言えるのだろうか。
青江さんが右手に握るは日本刀。
刃渡りは二尺程度か、暗がりの中で異様な輝きを放つ。
「さあ、殺し合おうか」
眼球さえも濁り切った青江さんの左目が、ぎょろりとこちらを向く。
この屋敷の中で、刀は何度も目にしてきた。
その種類は様々で、所持している者達にもいくつか種類があったが、刀を持つ者は皆共通して鬼ばかりだった。
「……それが君の答えか」
白さんが静かに問うと、青江さんは右手を頭の上に運び、刃を縦に構えた。
睨み合う両者。
その間にあるものは、互いに相手を屠らんとする意思のみ。
じわじわと募る緊張感に、たまらず零れた声。
「待っ、そんな、殺し合うなんて……」
青江さんとはここから脱出するという共通の目的をもって行動を共にしていた。
見た目が変わろうとも、彼の意識ははっきりとしている。
なら、刃を交える必要はない筈だ。
たどたどしく告げると、濁った瞳が私を捉える。
こてんと首を傾けた青江さんが、うわ言のように呟く。
「目的……」
瞬間。
水音、衝撃。
瞬きの間に、浴槽を蹴った青江さんが白さんの眼前に迫っていた。
刀がぶつかり生まれた衝撃波が全身を襲う。
「僕の目的は君達とは違う。始めからね」
ただただ冷たい目をした青江さんに、白さんが刃を返す。
「……へえ、最初から俺達を謀っていたのか?本当は初めから知っていたのか、この屋敷のことも、"お前達"の正体も!」
「嘘なんてついていないよ。ただ、隠し事が多かっただけさ」
「物は言いよう、だな!」
白さんが吐き捨てた言葉と同時に強く弾かれた刀。
空いた懐に白さんの木刀が迫り、青江さんがそれを食い止める。
切り返し、押し返し、幾度も交わる双方の刃。
白さんはとうに決めている。青江さんを切り伏せる気でいる。
私は動けなかった。
恐怖もある、拒絶された悲しみもある。それ以上に違和感を感じていた。
見詰めながら青江さんの言葉を反芻する。
思えば青江さんは、最初からよく分からない態度の人ではあった。
謎の知識を有していたり、時に冷静で時にとぼけていたり。
人をからかっているのか、なごませようとしているのかもわからない。
それらの行動は、全て私達を騙すためだったのか。
彼の目的とはなんなのか。
分からない、分からないことばかりだ。
私には、この状況を分析する知識もない、打開する力もない。
けれど、それでも、確実なことがある。
「それでも……青江さんは私達を助けてくれた。そうじゃないですか!」
声を張って、浴槽で切り合う二人目掛けて駆け出す。
そのまま無我夢中で、降り降ろさんとする白さんの腕にしがみついた。
「なっ……迷子?!」
白さんがぎょっとして刃を引き、青江さんの手も止まった。
その隙に、一気に言葉を連ねる。
「青江さん、貴方の目的は何ですか?!私達を殺さなければいけないことなんですか?!私は貴方と戦いたくない、殺されたくもない。だって仲間だから、今まで共に居た人だから!ならこの先だって、共に行くことは出来ないんですか……?」
目的が異なるのならそれでもいい。
障害とならなければ協力し合えるはずだ。
現に今までだって協力してきた。私も白さんも何度も青江さんに助けられた。
それは、なかったことにはならない。
「私は、私達は、貴方に助けられた。今度は私が、貴方を助けたい!」
恐怖と、懇願と、幾らかの感情が入り混じり、まるで体裁を成していない。
それでも必死に絞り出した言葉に、青江さんの左目が丸く開いた。
「――呆れるよ。こんな姿の僕を、まだ仲間だと思えるのかい」
確かに、今の彼には恐怖を抱いてしまう。
纏う気配もその外観も鬼に近付いている。
けれど今の青江さんは、意思があるように思える。
自らの意思で、刃を取っているように見えた。
自らの言葉で、私達を突き放したように聞こえた。
ならば、望みはある。
彼が何者であれ、言葉を交えることができるなら、無理解を解消することだって出来るはずだ。
震える体を抑えながら、必死に彼の目を見る。
見つめ合うこと数秒、やがて根負けしたのか、青江さんがやれやれと肩を竦めた。
「全く、つくづく君は似ている……」
困ったように吐き出した青江さんが、口角を上げる。
別れる直前、彼から大事な人の話を聞いたときの表情に似ていた。
いつもの笑みを見て、胸を撫で下ろす。
「でも、駄目だよ」
にっかりと笑ったまま、青江さんが告げた。
「僕はもう戻れない。君達と殺し合うしかない」
「――え」
「言っただろう?もう、溢れてしまったんだ」
青江さんの刃が高く掲げられた。
鈍く揺らめく輝きを、茫然と見上げる。
鬼達の欠けた刃と異なり、青江さんの脇差は不気味なほど美しい。
あの輝きが降りた時、私は死ぬ。
救ってくれた人の手で、死ぬ。
どうして。
溢れてしまったとは、どういう意味なのか。
嗚呼そうか、未だ理解が足りなかった――
ゆっくりと動く時間、その中で、青江さんが刃を降り降ろす。
2019.01.30