十六
高く掲げられた刃。
鈍色の煌めきに目が奪われる。
――カッ!
硬い音が反響した。
青江さんの刃が降り降ろされるよりも前、彼の額に木刀が刺さっていた。
鋭い突きに割れた眉間から黒い液体が飛び散る。
大きくのけ反った青江さん。
白さんは、その胴体に容赦のない一撃を叩き込む。
骨が軋む音を立てたかと思えば、青江さんの体躯は容易く吹き飛んだ。
浴槽を越え、積み重なった風呂桶の山へ埋もれる。
古くなった桶は簡単に砕け、破片が派手に散った。
「迷子」
私の前に飛び出した白さんが、刀を引いてこちらに振り返る。
その表情は初めて向けられるような厳しいもので、思わず体が縮こまった。
「見知った顔だという気持ちは分かるが、あいつは――いや、あれはもう……鬼だ」
白さんが言い放った言葉に押し黙る。
青江さんの変貌は肌で感じた、目で捉えた。
凍えるような恐怖を芯から味わった。
それでも――
からからと音が鳴り、二人同時に顔を向ける。
風呂桶の山の中、にわかに青江さんが動き出した。
「う……う」
小さく呻きながら、うつ伏せになった上体を持ち上げる。
動きに伴って、ぱらぱらと破片が床に落ちた。
――否、風呂桶の破片ではない。
それは青江さんの顔面から。
薄く硬質の何かが、青江さんの表皮から剥がれ落ちている。
「あ、あ……ア」
青江さんのくぐもった声が段々と大きくなる。
理性の色は失せ、ただ痛みや恨みの感情だけが乗った音。
ぺたぺたと瓦礫の中から這い出た青江さんが、こちらに顔を向ける。
戦闘で髪は乱れ、前髪によって今まで隠されてきた右半分が露わになった。
「……っ」
ひび。
青江さんの右顔面、濁った肌が不出来な陶器のように硬く変質している。
生命の息吹が失せた表皮は乾いた亀裂が入り、また一つ零れ落ちた破片が床の上で小さく跳ねた。
そこから現れた、鬼の面。
この世全てを憎むが如く醜く歪んだ面が、青江さんの皮膚の下に在った。
「う……ウウウ」
青江さんが、自身の体を抱きしめ苦悶する。
呻きながら浴室の床を転がる異様な姿を、ただ茫然と見下ろした。
そんな私と青江さんの間に、白さんの腕が差し込まれる。
「下がってろ、あいつ……化ける気だ」
低い声で告げた白さん。
その直後、青江さんが一段と大きな声を上げる。
「アアアアアア!!」
叫び声に呼応して、青江さんの全身にひびが広がる。
その身をがばりと身をよじった途端、下半身が大きく膨らんだ。
歪に肥大化したそこから衣服を突き破り現れたのは、脚。
人のものとは程遠い、多関節の虫のそれに近い。
次いで現れたのは顔。
側頭部に巨大な角を携えた頭蓋骨が、青江さんの腹部から突き出した。
青江さんの上半身はだらりと力を無くし、腹部の頭蓋に開いた二つの空洞に、紅い光が宿る。
六の脚をもってキチキチと蠢く様は、巨大な蜘蛛の如く。
前脚は二対の研ぎ澄まさた刃となり、彼の手に在った脇差はいつの間にか失われている。
青江さん――否、"青江さんだったもの"の姿は、記憶の中のあるものに酷似していた。
出陣の間で目を通した、鬼達の姿を象った書。
その一頁に載っていた鬼――"脇差"。
「青江、さん」
震える唇でその名を呼ぶも、最早彼には届かない。
「それが君の正体か」
私と"青江さん"の間に立った白さんが、一度僅かに眉を下げる。
次の瞬間には、何事もなかったように静かな目をしていて浴槽から上がった。
かちゃかちゃと脚を鳴らす"青江さん"の前で木刀を取る。
「色々思うこともあるが……今はおまえさんを屠ることだけを考える」
真っ直ぐに伸びた切っ先を向けられた"青江さん"は、応えの代わりに咆哮した。
「ガアアア!!」
幾多の脚をばらばらと動かしながら、"青江さん"が複雑な軌道で白さんに襲い掛かった。
白と黒が交わり、混じり、混沌と化す。
多方面から降りてくる刃をいなして、白さんは口角を吊り上げる。
「ハッ……いいねェ、驚かせてくれる!」
右、左、せわしない脚の動きと留まることを知らない剣。
素人には到底追いきれない動きを、白さんは寸でのところで全て躱していた。
"青江さん"の攻撃を踊るように掻い潜り、僅かな隙間にその身を滑り込ませた白さん。
キン、と甲高い音。
動きを止めた"青江さん"。
振り上がった白さんの木刀。
不規則な動きの中的確に関節に入った刀は、"青江さん"の前脚をちぎり飛ばした。
「……ッ!」
バランスを崩す"青江さん"が残った脚で後退する。
暗がりへ逃げ込んだ"青江さん"、腹部の頭蓋が威嚇するようにカラカラと鳴いた。
「驚いたか? 悪いが、これで仕舞いだ」
白さんが木刀を収め、足を開き腰を落とす。
ぴたりと動きを止めたその姿勢は、居合の構え。
次の一撃で、済ますつもりだ。
"青江さん"は、上半身をだらりとのけ反らせたまま動かない。
ぴたりと止まった二人の間で、感覚が研ぎ澄まされていく。
先の戦闘で天井へ掛かった黒水。
天井に広がっていたそれが徐々に一点へ集まり、大きな粒へ膨らもうとしていた。
やがて一定の大きさに達したそれは、重力に従って天井から離れる。
自由落下した雫が落ちる先は、黒い水面。
――ぴちゃん。
瞬間、抜刀。
目を開いた白さんの居合が、目にも留まらぬ速度で"青江さん"へ迫る。
直前、"青江さん"が動いた。
ぐんと持ち上がった上半身。
その頭が咥えられていたのは、切り落とされた脚。
ぐるりと首を伸ばした"青江さん"が、白さんの渾身の一撃を受ける。
震撼する空気、水面にさえ波紋が広がる衝撃。
"青江さん"の頭は、白さんの一撃を受け切った。
白さんの伸び切った腕が"青江さん"の眼前に晒される。
残った脚を振り上げた"青江さん"。
「――!」
鈍い音を立て、刃が白さんの右肩に食い込む。
吹き出す赤、染まる視界。
「……っちぃ」
今度は白さんが退く番だった。
「こいつぁ驚いた、な」
大きく裂かれた肩を押さえながら、木刀を握る手だけは緩めまいと力を籠める。
白さんの腕を伝う血液が白い袖を赤く濡らし、ばたばたと床に落ちた。
その様を見ただけで、全身の血の気が引く。
嘲笑うかのように、"青江さん"の空洞が音を立てた。
酷い傷を受けて尚、白さんは"青江さん"の正面に立っている。
その理由は明白だ。
私が、いるから。
二人の迫力に圧され、浴槽にしがみつくしかできない私が。
"青江さん"の紅い目は、今は白さんに向けられている。
けれど彼がいなくなれば、すぐにこちらに向くことになるだろう。
――青江さん。
刃を向けられて尚、姿が変貌して尚、惑っていた。
彼は、私達と何ら変わらない姿で、確かに語り合った仲間だ。
呪いを受けるということが、彼の行動がどういうことなのか、理解するのが恐ろしい。
――が。
青江さんが振るう刃は、間違いなく白さんを壊そうとしている。
その事実から目を逸らし続けることは出来ない。
あの異形は恐ろしい。刃を向けられると足が竦む。
けれどそれ以上に、なんと哀れな姿だろうか。
あの紅い瞳で繰る刃は、彼の意思ではない。
言葉を操ることさえ出来なくなった彼を、救う手立ては一つしかない。
白さんは再び彼に見えた時から勘付いていた。
ならば私も覚悟を決めよう。
ただ怯えるだけではいけない。
私には私の出来ることがあるのだから。
"青江さん"が鎌首をもたげる。
蜘蛛のような異形で、その実蟷螂に近い。
白さんが肩を庇いながら刀を構えようとする。
その時、ありったけの息を吸った。
「屈んで!!」
「!?」
びくりと跳ねた二人。
白さんは言われるがまま姿勢を低くする。
その直後、彼の頭上を黒水が掠め通った。
私の手には空になった風呂桶。
その中に入っていた黒水は、"青江さん"にぶつかり飛沫となって弾けた。
一瞬怯んだ"青江さん"。
頭を震わせ水滴を振りまいた後、"青江さん"が正面を向く。
しかしそこに白さんの姿は無かった。
見失った"青江さん"の頭上高く跳躍した白さんが、木刀を両手で握る。
「――ッ」
顔を上げた"青江さん"の左目が見開かれ、白さんの影が映りこんだ。
重力と腕力、二重の力が加わった切っ先が、"青江さん"の腹部に現れた頭蓋を貫く。
重い衝撃が浴場を震わせた。
貫通した刃が、頭蓋をごきりと捻らせた。
手応えは、あった。
白さんが飛び退った後、"青江さん"がのけ反る。
大きな穴の開いた頭蓋からひびが走り、全身へと広がっていく。
「アアァァア……」
苦悶の声を上げながら、身悶えする"青江さん"。
骨身の頭蓋から崩れ始め、蜘蛛のような胴体が、その脚が塵と化していく。
人間の形を保っていた上半身、力を失い脱落する腕。
顔を覆っていた手の平の裏で、"青江さん"の左目蓋が瞬いた。
そして――
「……」
"青江さん"は、消えた。
一瞬、見間違いかもしれないが――彼の唇が、動いたように見えた。
それから、微笑んだようにも。
***
"青江さん"が残した黒い塵が何処へともなく散り、荒れた空気は静まった。
元の陰鬱な湿気の中、僅かに滴る水滴と私達以外、動くものはいない。
終わった。
その実感がじわじわと胸中に湧き始めた時、ぐらりと白さんの体が傾いた。
「白さん!」
糸が切れたように膝をついた白さんが、肩を大きく上下させる。
右肩に深い切り傷を受けたのだ。普通ならば動けないほどの。
真っ白な顔で荒い呼吸を繰り返す白さんは、木刀を支えになんとか蹲っている状態だった。
「白さん……手入れ部屋に戻りましょう。私が支えますから」
返答はなく、呼吸音だけが喉から響く。
人間がどれ程の傷を受けても生きていられるのか――今はそれを考える余裕はない。
白さんの腕を肩に回し、懸命に引っ張り上げた。
自力で歩くことも難しいらしく、持ち上げるのも難しい。
冷たくなった体に血の気が引く。
何度も声を掛けながら、その場を後にした。
***
白さんを引き摺るようにして、なんとか手入れ部屋まで辿り着いた。
障子を引いて締め切ったところで、半ば崩れるように腰を下ろす。
白さんの体を横にしようとしたところ、彼の指がそれを制した。
意識がはっきりと戻った白さんの意向で、座った状態で傷を確かめることにした。
最初こそ派手に吹き出したものの、出血は戦闘の最中に止まっていた。
浅い傷だったわけではない。ただ呪いによって止まっただけだ。
血の気の失せた黒い皮膚は、首の根元まで蝕んでいる。
手当ての余地もない様に愕然としたが、包帯だけでも巻き直そう。
白さんの呼吸は落ち着き、今はただ私に任せて目を閉じていた。
背後から包帯を転がしながら、白さんの背中に手を当てた。
この黒い皮膚は、感覚がないが動かすことは出来るらしい。
――呪い。鬼達の刃に乗った呪詛のせい。
それを教えてくれたのは青江さんだ。
その青江さんまでもが、変わり果てた姿で私達に刃を向けた。
「……」
包帯を巻き終えた手が止まった。
先刻の出来事が、泡のように浮かんでは消えていく。
綺麗に結わえた髪の、不思議な空気を纏った青年。
髪を振り乱し、黒泥の如き身体でこちらを睨む鬼。
青江さんは――
「……一番初めにここで手当てをしてくれたのは、青江だったな」
私の心境を感じ取ったのか、白さんが静かに口を開いた。
「君が眠っている間、この呪いのことを教えてくれた。あいつの訳知り顔は気になったが……どうにも聞かれなくないって顔をしていたんでな、恩人殿に無理強いは出来なかった」
白さんは黒くなった腕を持ち上げ、確かめるように握り締める。
「あいつは……知っていたんだ。この呪いの行き着く先も、自分がああなることも」
青江さんは、鬼だった。
否、鬼と"成った"。
黒頭巾からの致命傷ともいえる一撃は、呪いの進行を加速させた。
全身が黒く染まった彼は、瞳に赤い光を宿し"脇差"の鬼と化した。
歪な体躯、骨の脚、修羅の如き面。
あれこそが、呪いの行き着く先。
鬼と成る。
その事を知っていて、青江さんは私達に話さなかった。
それは彼の目的にそぐわないから、なのだろうか。
今はもうその目的も分からない。
その代わりに、分かったことはある。
鬼の正体。
呪いを受けた姿――鬼と成るにはもう一つ条件がある。
「白さん、これを」
ポケットから取り出したのは、以前入手した集合写真。
汚れが酷くて殆ど分からないが、幾つかの人影が確認できる。
その中に、一際目立つ姿がある。
顔の部分はつぶれているが、詰襟の洋装を纏った男性だ。
何よりも目を引くのは、外套のように羽織られた白装束。
それを認めた白さんの瞳がにわかに細くなる。
「……青江、か」
ひそりと吐き出された言葉に、一つ頷いた。
黒く変色していたが、青江さんの衣装はこの人物と同じだった。
この屋敷の中で見付けた古い写真。そこに写っている青江さん。
――その正体は、刀剣男士。
かつてこの屋敷で戦士として在った、人ならざる存在。
彼がこの屋敷の仕掛けに詳しいのも、その為だった。
そして屋敷を彷徨う鬼達もまた、刀剣男士の成れの果て。
呪い……本丸に満ちた穢れが、古き住人達を鬼へと変えた。
原因は閉鎖の儀、その失敗。
穢れが先か失敗が先かは定かではないが、何某かの要因により閉鎖の儀が失敗し、彼等は穢れを纏ってしまった。
頬に運んだ手、指先がかさぶたを撫でる。
この傷は"槍"から受けたものだ。
あの刃も例外なく呪いが乗っていた。
けれど私の皮膚は黒く染まることはなく、傷跡も既に塞がれようとしている。
私には、呪いは効かない。
呪いを被るのは、刀剣男士のみ。
――つまり。
「白さん」
息を吸って、白さんを呼ぶ。
緊張が表れた吐息は、小さく揺れた。
写真から目線を外して、白さんが顔を上げる。
じっと私を見詰める金の瞳は、何かを受け入れたようだった。
この言葉を言えば、戻れない。
けれど、言わなければならない。
意を決して、結んだ口を開く。
「貴方は……刀剣男士だ」
2019.02.18