十七
「白さん、貴方は……刀剣男士だ。かつてこの本丸で、暮らしていた」
その一言を告げた時、白さんは息を吸い込んだ。
そうか、とかすかな声を漏らし、彼は目を伏せる。
私は、ポケットからもう一枚写真を取り出した。
「……その写真、は」
白さんの言葉は途中で途切れた。
長い睫毛に縁取られた涼やかな目元、色素の薄い肌、透き通る白い髪。
繊細な鎖で彩られた純白の衣装を纏う、およそ人間ではないと思える程の美しい姿。
古い写真に映っているのは、白さんと同じ見目の青年。
「本当は酷く汚れていたわけじゃないんです。黙っていてごめんなさい」
そう言って目を伏せる。
小部屋でこの写真を見た時から予感はあった。
けれど、形にするのを恐れて隠した。
自らの事も分からない暗中を揺蕩っていた白さんを前にして、私は自分の恐怖を優先してしまった。
罪悪感から顔を上げられない。
そんな私に掛けられた声は、優しいものだった。
「黙っていたのは俺も同じさ。薄々気付いちゃいたんだ」
白さんが、ぽつりぽつりと吐露する。
自分が何者であるのか。
目覚めた時から屋敷に居たこと、戦慣れしていること、身に受けた呪いのこと……自らの境遇を、私や青江さん、そして鬼達と比べる内に――私よりも、鬼達に、自身が近い存在であると確信していたという。
「だが、それを口にするのが恐ろしかった。君が口を噤んだから、その状況に甘んじていた。ああ……けど、そうか……」
吐息交じりに吐き出して、白さんが天井を仰ぐ。
「俺は……刀剣男士」
確かめるように、ゆっくりと紡がれた言葉。
空気に溶けて、静寂が訪れる。
ただ雨音だけが耳を揺らした。
――この写真に写るのは白さん、きっとそれは間違いない。
この屋敷が今の姿になる以前、白さんはここで暮らしていた。
日記の欠片で垣間見たような日常を、青江さんや審神者、他にも多くの仲間達と共に。
刀剣男士に寿命という概念は無いのかもしれない、何せ私とは異なる存在なのだから。
ずっと変わらない外見で、刃のように美しい姿のまま。
「は……そりゃあ君とは思考も異なるってもんだ」
薄く笑いながら、白さんは言う。
――何故、このような有様になったのか。
穢れに満ちたこの屋敷は、私達を逃がすまいと閉じ込める。
閉鎖の儀はどうして失敗したのか、当時の白さんはどうしていたのか、何故彼は記憶を失ったのか……
様々な疑問が巡れども、真相を知っていたであろう青江さんは今は亡く。
「このまま呪いが進めば、いずれあれの仲間入り、か」
白さんが腹部を押さえる。
包帯の下は、黒く染まった皮膚。
緩く擦るその腹に、もう感触は残っていない。
「恐怖はない。形あるものいつか壊れるってのが筋だからな」
事も無げに口にした白さんは、しかしためらうように一拍置いて付け加える。
「だが……君のことも分からなくなるのは……辛いな」
そう言って微笑んだ。
その表情は、無理をしているようで、あまりに寂しげで、私の胸にちくりと突き刺さる。
硝子のように砕けてしまいそうな顔で、彼は笑っているのだ。
――どうして。
「白さ……」
私の呼びかけを遮るように、白さんが立ち上がる。
「さあ行こうぜ、時間が惜しい――」
そこで言葉が途切れ、木刀を取り落とした白さん。
胸を押さえて苦し気にしゃがみ込むので、慌てて彼の肩を支える。
「白さん!」
「は……はぁ……大丈夫だ」
手を重ねられ、やんわりと剥がされた。
額に汗をにじませる白さん、その指先は酷く冷たい。
唇も血の気がなく、大丈夫ではないのは明白だ。
顔を顰めて呻きながらも、白さんはやはり立ち上がろうとするので、剥がされた手を再び置いて押し戻した。
「まだ休みましょう、顔色が悪い」
「いいや、その必要はない」
頑なに立ち上がろうとする白さん。
その実、私の力でさえ跳ねのけられない程疲弊している。
そんな有様でも必死に前を見据える瞳に戸惑った。
苦し気な吐息の合間に、白さんが口を開く。
「大丈夫だとも、ああ……俺が俺でなくなる前に、君をここから逃がす、必ず」
その言葉に、目を見開いた。
ここまで消耗して尚白さんは、私の為に在ろうというのか。
胸に広がる痛みが、むくりと起き上がる。
――どうして。
「嫌、です」
絞り出した声は震えていた。
それは恐怖によるものではない。
胸に広がる痛みは強い感情の現れ。
抱いたのは悲しみ、あるいはそれ以上の怒りだった。
どうして白さんは――自分の未来を諦めようとしている。
"青江さん"と相見えた後だ。
呪いの果てを見届けて、白さんは己の結末を受け入れてしまった。
自分の未来を、消えゆくものだと投げ打った。
孤独を疎い恐怖を抱えていながら、それすらも手放そうとしている。
「私は逃げません。私一人では、絶対に逃げない。貴方も一緒です、白さん」
頑として譲らない。
睨む程強い視線で、きっぱりと言い切った。
白さんは予想外だったらしく、ぱちりと瞬きをした。
面食らって一度止まったものの、白さんは頭を横に振る。
「だが……俺は呪われた身だ。今だって広がり続けてる。屋敷を出たとしても俺は――」
「この場所を離れれば、呪いは止まるかもしれません。外に出れば解く方法だって探せます」
否と抗議した。
それに対してやはり目を丸めた白さんは、負けじと言葉を重ねる。
「俺は……記憶もない。逃げ果せたところで行く当てもない」
「行く当てがないのなら私の所に来てください。記憶を探すお手伝いだってします。それに……戻らなくたって新しい記憶を作ればいい」
「新しい記憶……?」
白さんが金色の瞳をこちらに向ける。
彼の手をとって、両手でやんわりと包んだ。
「ええ。白さん、色んなところを巡りましょう。春は桜を、夏は睡蓮を、秋は紅葉、冬は椿。沢山のものを見に行って、沢山の想い出を作りましょう」
様々な四季の情景を脳裏に浮かべ、白さんの瞳が僅かに輝いた。
しかし、それも一瞬のこと。
顔を俯かせた白さんが、重たい息を吐く。
「いや……俺は刀だ。道具だ。かくあるべしと形の定められた存在。この地で戦のために生まれたのなら、ここで終えるのが筋じゃないか」
「白さん……」
鉛のような声が、彼の本心であることを窺わせた。
人間ではない、道具として生まれた存在。
主の手で振るわれる事で力を発揮する。
自己は無用で、変化も訪れない。
白さんは、そう自覚している。
けれど――
「貴方は、刀剣男士だ」
刀剣男士――刀ではなく、人間でもなく、神様なのかもしれないし、妖の類かもしれない。
記憶の中で、審神者もそう言っていた。
白さんは人間ではなく、かと言ってただの道具でもない。
自立した肉体と思考を持ち、言葉を操り集団の中で生活する。
其処には各々の自己が存在し、審神者もまたそれを認めていた。
私の知る白さんは、哀愁を覚え、温もりを求め、語らうことで己を表し他者を理解する。
それは、生きているのと同義だ。
「住処も記憶も、生きているなら移り変わるものだ。だから……貴方は刀剣男士として、自分の意思で外に出て……生きていいんです」
白さんが、再び顔を上げる。
こちらを見詰める不安げな瞳が、僅かな光を燻らせる。
「俺は、願ってもいいのか?俺の意思、は――」
何かを口にし掛けて、はた、と止まった。
淡い期待に揺れていた金色の瞳が急に色を失い、白さんは、私の手を払って自身の元へ引っ込めてしまった。
暗い影を落とした顔で、汚れた手の平をじっと見つめる白さん。
右手を侵食する呪いは手の平にも回り、束縛する紐のように絡みついていた。
「俺は……仲間を手に掛けた」
抑揚のない、冷たい声。
青江さんに刃を向けた時と同じ表情。
感情を押し殺した、能面のような面。
「記憶がないとはいえ、かつての仲間を幾振もこの手で屠ってきた。今は感覚を失ったとはいえ覚えてる。最初の"短刀"、"打刀"、"太刀"、"槍"、"大太刀"……ああ、そりゃあ怒るよな、恨むよな……許されることじゃない。そんな俺がのうのうと外に出るなんて……ッ!」
語りながら段々と荒くなる声。
指が、手が、震えていた。
白さんの眉間にしわが刻まれ、耐えかねたように目蓋を閉じる。
――これが、白さんの意思。
仲間を手にかけた事への贖罪。
青江さんや屋敷を徘徊する鬼達がかつての刀剣男士だというのなら、白さんは、共に在った仲間達を、その手で砕いてきた。
感情を殺して、ただ刀として、道理を外れた存在を屠ることは出来ても、人として、仲間に手を下すことは耐えかねる。
自分の立場が明かされた今、数多の命が白さんの心に重く伸し掛かっていた。
彼等は鬼と成った。
かつての面影もない、紅い光に見初められた哀れな存在。
救う手立てはない、屠る事でしか解放されない。
白さん自身がそう見定めたことだ。
けれど、それでも罪だと思うのなら、彼が自身を責めるのなら。
「私も、同罪です」
彼が鬼を倒すのは、ここから脱出する糸口を探す為でも、私を守る為でもあった。
私もまた、彼等を倒すことを是としてきた。
青江さんのことも、屠ると決心した。
彼に刃を振るわせたのは、私だ。
「私も共に罪を背負います。でも、償う方法は、此処に居ることじゃない」
白さんの手に自分の手を重ねる。
黒く濁った、冷たい手。
もう感覚も伝わらないのかもしれない。
それでも、想いを込めるように強く握った。
「彼等の分も生きることだ。鬼でもなく、刀でもなく……刀剣男士として、生きてください」
恐る恐る持ち上げたかんばせ、白さんが私の目を見る。
潤む両目は幼子のようにあどけなく、無垢な美しい色を湛えていた。
唇を震わせて、幾度か開閉する。
小さく唾を飲み込み、彼はようやく言葉を紡いだ。
「俺、は……ここから抜け出し、たい。何も分からないまま、終わりたくない。誰も俺を分からない世界に閉じこもっているのは嫌だ、独りは辛い」
訥々と漏れ出るのは、願い事。
彼の、彼としての、想い。
白さんの手が、私の手を縋るように握り返す。
「共に居よう、白さん。これからもずっと。外の世界を見て回って、沢山の色を見付けよう」
「迷子……」
私の名を呼ぶその声に、微笑んで見せた。
握る手に力が籠る。
感覚も覚束ない冷たい筈の手は、温みさえあるような力強さだった。
「……ああ、約束しよう……俺は生きたい。君と共に、在りたい」
白さんが見せた、泣き出しそうな笑顔。
それは決して悲観したものではない。
光の宿った瞳が見据えるのは、黒い屋敷の中で訪れる終わりではない。
不確かな、幾つもの鮮やかな色に染まる未来だ。
――淡い世界を夢に見る。
どこからか香る甘い匂い。
薄紅色に彩られた広場で、辺りに広がる喧噪を耳にしながら。
何でもない話をして、互いに笑い合う。
風に吹かれて舞う花弁を追いかけて、桜並木を歩き出す。
あるいは、茹だるような熱気の中。
夜空に咲く大輪の華、祭囃子に揺れる提灯。
人混みに流されぬよう手を取って、屋台を冷やかしては過ぎていく。
あるいは、ぽっかりと浮かぶ丸い月。
すすきの揺れる小さな丘で、鈴虫の羽音に耳を傾けながら、涼しい風に身を委ねる。
水面に揺れる月影もまた白く、大きな円を波が乱す。
あるいは、しんしんと積もる雪。
足音以外の音は白に吸い込まれ、身を寄せあって歩む。
真新しい雪の上に、二人分の足跡を残しながら。
見下ろした土の上、雪の隙間から芽吹く緑に微笑んで。
そんな、世界を。
――ぽちゃん。
「!!」
断続的に響く雨音、その中にも紛れ込まぬ水滴の音。
音の波の隙間を縫って鼓膜を震わせたそれに、全身の毛が逆立った。
いつの間にか――手入れ部屋の障子に、影が映っている。
丸い頭と、肩から緩やかに広がるシルエット。
「黒頭巾――!」
短く叫んだ白さんが、たちまち木刀を構える。
障子の向こう、ぬらりと揺れたシルエットが布を翻した。
カツリ。
小さな音だった。
黒頭巾の持つ刀の切っ先が合わせ目に当てられたらしい。
身構えたものの、ぴったりと閉ざされた障子は開かなかった。
「……外からは開けないのか?」
思えば最初に入った時、手入れ部屋は他とは違う空気だと感じた。
この部屋に戻ると白さんも少し落ち着いていたし、清純な空気は鬼達や呪いを拒む力を持っていたのだろう。
けれど気は抜けない。扉は開かずとも、黒頭巾は佇んだままだ。
「……!」
黒頭巾の外套が大いに翻った。
次いで、があんと地鳴りのような音が響く。
連続して鳴る轟音、立て続けに走った衝撃に、障子が危なげに揺らいだ。
破ろうとしている。
音が止まる気配は無く、負荷が掛かる度に障子の揺れが大きくなった。
「これは……」
合わせ目を見詰める私の隣、顔を上げた白さんが何かを見付けた。
凝視するのは、障子の隅。
黒い染み。
障子の四つ角が、じわじわと黒に侵食され始めていた。
染み込む液体の如く音もなく広がる黒は、桟も何をも侵し広がり――瞬く間に全面を覆った。
黒頭巾の影も全てを埋め尽くし、漆黒に染まった障子。
途端、ぴたりと止んだ揺れ。
雨音も遠のく、一瞬の静寂。
「――」
そして、衝撃。
吹き込む突風が全身を襲い、びりびりと肌を煽る。
ばらばらに砕け散った黒い残骸が飛来し、視界を遮る。
黒頭巾の繰り出した突き、たった一度のそれで障子は破壊された。
廊下にさらけ出された手入れ部屋に、たちまち濁った空気が混ざりこむ。
息苦しさに顔を覆うと、白さんが立ち上がった。
大股を広げた白さんが、阻むように木刀を横に持つ。
「俺達を逃がすまいとしているのか、それともただ獲物を狩りに来たか?」
黒頭巾の爛れた唇は何も語らない。
だが、その体がわずかに震えた。
ぶわりと持ち上がった外套。
黒頭巾の足元に広がる染み。
黒い水が湧き出るように廊下を走り、瞬く間に一面を覆った。
「!?」
そこから這い出る無数の鬼達。
"打刀"、"太刀"、"短刀"……さながら肉の壁。
逃げることなど許さないとばかりに廊下を埋め尽くす大群が、眼前に犇めいた。
「相当ご立腹らしいな……」
白さんが刀を翻し、ぐっと腰を落とす。
切っ先は正面、鬼の群れを裂く為に向けられた。
清らかな空気は失われ、呪いが白さんの体を蝕み始まる。
けれど、彼は動じなかった。
その横顔、めらめらと滾る炎が瞳の奥に揺らめいている。
「だが、俺はもう退かない。君等を倒してでも俺は……此処から出る!」
「―――!!!」
咆哮。
2019.02.26