十八
「―――!!!」
黒頭巾の咆哮が廊下一面に響き渡る。
振り上げた刃が白さんに向けられ、鬼達が一斉に飛び出した。
黒き津波となって押し寄せる塊。
白さんも叫び声を上げる。
「うおおぉ!!」
一番手の"打刀"を袈裟懸けに斬り、飛来した"短刀"を身体を捻って叩き落す。
迫る傍から切り伏せて、波のように荒れ狂う。
「ガアァッ!!」
「あああっ!!」
鬼達の咆哮と白さんの叫び。
混じり合い、どちらのものか判別が利かない。
切って、切られ、刺して、刺されて。
白さんの鬼気迫る表情は、まさしく鬼へと変成するかの如く。
荒々しい太刀筋。
かつてあった飄々と鳥のように軽やかな姿はなく、ただ近付く全てを強引に薙ぎ払った。
「っ……はぁっ!」
勢い怒涛の如く……即ち、勢いのみで食らいついている状態。
荒ぶる声も振るう腕も虚勢に過ぎず、白さんはとっくに限界だ。
多勢に無勢、徐々に白さんの体に傷が増えていく。
ぼたぼたと赤い雫が畳に落ち、その上に黒い塵が降りかかる。
姿勢が崩れ始め、鬼の刃を受ける回数が増えた。
反撃の一撃も深手には至らず、返す攻め立てに圧されている。
木刀で防ぐ白さんの苦し気な表情に、私は知らず知らず拳を握り締めていた。
力の籠るそれを抱えて唇を噛む。
見守る事しかできないのか。
この部屋には、武器になる物も身を守れる物もない。
下手に飛び出しても足を引っ張るだけだと分かっている。
けれども、ただ戦況を見守るだけの歯がゆさはどうにもならなかった。
こうして悶々としている間にも、白い衣を赤と黒に染めながら、白さんはみるみる傷付いていく。
立っているのもやっとの状態で、それでも四体目の鬼を下した。
その時、白さんの体がぐらりと傾き、敢え無く膝を付く。
「――ッ」
白さんの頭部目掛けて振り下ろされる刃。
思わず腕を伸ばしかけて、直前に白さんの片腕が凶刃を弾き飛ばした。
白さんの目が、諦めまいと鬼を見上げている。
「白さん……」
私が腕を力無く下ろすと、その指先に何かが触れた。
見下ろしたそこには小さな塊。
身を乗り出した私のポケットから弾みで転がり出たもの……折り鶴だ。
探索を始めた頃、白さんが私に持っていてくれと渡したもの。
繊細な意匠が施された頑丈な白い和紙の折り鶴――だったものが、今や黒に染まっている。
「ひっ」
羽根の先は漆黒に、その体も尾羽も斑に汚れていた。
初めて目にした時、白さんのようだと思った折り鶴。
それを聞いた白さんは、気分良く私に手渡してくれたものだ。
それが今や――鬼の皮膚の如き色に侵されている有様は、今の白さんと同じだと思ってしまった。
恐る恐る拾い上げて、顔を前方に戻す。
「ふ……ひゅー……」
目の前の白さんの、どろりと汚れた背中。
息も絶え絶えに膝をつく姿。
鬼の数も相当減っていた。
だが、その代償は大きい。
僅かに回復した白さんの体力も底を尽き、虚ろな目をしている。
残り火を燃やし刀を握っているような状態だった。
刃を交える度、白さんが変貌していく。
すぐそこで、鬼達が手招いている。
「……ッ」
一体の"太刀"が、悠然と彼の元へ歩み寄る。
肥大化した爪が床に当たるたびに、無機質な音が鳴る。
前方に立った"太刀"に対し、白さんは動かない。
刀を頭より高く持ち上げて、"太刀"の瞳が紅く光った。
――これ以上は。
その一瞬、あらゆる感覚が機能を停止した。
「もう……止めて!!」
――今私が飛び出したところで、足手まといにしかならない。
それどころか今までの彼の行いが全て水の泡となる、愚かで無意味な行為だと分かっている。
恐ろしい、死にたくない。
こんなことをしても何も良い方向には動かない。
だのに私の体は、白さんを庇うように躍り出ていた。
「迷子――」
恐怖で視界がぼやける。
耳に、白さんの声が届いていたかもしれない。
けれど全ての感覚が遠く、ただ瞳だけが、緩慢に振り下ろされる刃の刃こぼれした曲線を映していた。
その視界に、何かが――
***
……
…………
不意に浮上する意識。
ゆらゆらと覚束ない感覚で、腕を支えに起き上がる。
眠っていたのだろうか。
「……」
ゆっくりと首を回して周囲の状況を確認する。
木目の床板、障子の仕切り、硝子戸、土壁の廊下、低い天井。
それら全ての色素が薄く、形もぼやけて霞んでいる。
床板に手の平で触れている筈なのに、その感触がない。
窓の外は雨模様だが、雨の音も風の音も聞こえない。
――これは夢だ。
朧気に思った。
"……"
ふと、何かが聞こえた。
鼓膜の震える感覚はやはりなく、ともすればこれは、体の内側に直接響いた音だ。
それを私は――何処からか――聞こえてくると思い、その出所を探す為に立ち上がった。
眼前には長い廊下が続き、先は靄の中にかき消えている。
恐怖はなく、奇妙な使命感を抱いて一歩踏み出した。
"……"
歩を進める毎に、少しずつ音が大きくなる。
足で床板を踏み締めているはずなのにその感覚は無く、廊下の方が私の後ろへと流れていくようだった。
"……"
音に導かれるように角を曲がり、ひたすら歩を進める。
入り組んだ廊下の時々にある扉は、近付くと音もなく開かれた。
"……"
幾度目かの扉を潜ると、音はかなり大きくなっていた。
近い。
長く伸びる廊下の途中、折れ曲がった直ぐ先にある木造の扉。
閂がひとりでに滑り、扉は無音で向こう側へ開いた。
その先は、中庭を横断する渡り廊下が続いている。
右手には平らに均された土のむき出しになった庭。
左手には打って変わって丁寧に飾られた庭園が広がっている。
短く刈り揃えられた芝と、点々と敷かれた飛石。
小さめの岩でぐるりと囲われた大きな池、その上に渡された赤い橋。
木々の配置も綿密に計算された美しい庭園だ。
けれど私の目は特に感慨深く映す訳でもなく、渡り廊下の先へ向いた。
渡り廊下は離れに沿って続いているが、すぐ手前に同じ形の扉が備わっている。
勝手に開いたそれを潜り、再び屋内へ入った。
離れの建物は小さく、部屋数も少ない。
"……"
一番手前の襖が開き、室内へ足を踏み入れた。
室内は整頓され、壁沿いに様々な家具が並んでいるが、その殆どが朧気な形しか捉えられない。
正面は白い障子が一面に並び、その向こう側には先ほどの庭が広がっている筈だ。
"……れ"
音は、そこから届いていた。
夢心地のまま、ゆっくりと手を伸ばす。
"……くれ"
この音は、声。言葉。
ずっと前から聞こえていた、夢を見る度に聞いていた、私を呼ぶ声。
私の腕に反応するかのように、対の障子が横へ滑り出す。
開かれた隙間から、徐々に露わになる庭園。
池の水が中央から音もなく波立つ。
その上に――人影が在った。
酷くぼやけていて、辛うじて頭巾のようなものをかぶっている事だけが分かる。
この人が、私を。
ゆっくりと振り向く人影。
頭巾の下の顔が――
"来てくれ"
どろりと、黒く溶け落ちた。
***
「ッ――!」
声にならない悲鳴を上げて、がばりと飛び起きた。
全身から汗が吹き出し、心臓がばくばくと音を立てる。
「は、はぁ……はぁ……」
乱れた息を整えながら、何があったのかと辺りを見渡した。
視界に飛び込んでいたのは、うつ伏せで倒れた青年。
「……白さん!?」
嗚呼そうだ、先程まで鬼の大群が押し寄せていた。
無謀にも私はその中に飛び込んで、そして気絶してしまったらしい。
何かとても嫌なものを見た気がしたが思い出せない。
鬼の姿は無いが、状況はどうなったのだろうか。
白さんは僅かに残る塵の中に倒れ込み、ぴくりとも動かない。
その脇には、あの折り鶴が真っ二つに裂かれて転がっていた。
「白さん、白さん……」
傍に駆け寄り上半身を抱き上げた。
白さんの唇から弱々しい風の音が漏れ、その目蓋は固く閉ざされている。
指先も、足も、首に至るまで黒く染まり、顎まで上ってきていた。
か細い呼吸に合わせて動く胸も唇も生きている証、けれどその体は鉛のように重く冷たい。
――時間がない。
手入れ部屋も穢れに染まり、白さんの呪いは進行する一行だ。
穢れの無い空間に脱却できれば、彼の呪いは侵食を止める。
屋敷の中の気配は随分薄まっていて、鬼達はその殆どが先程の戦闘で形を失ったらしい。
とすれば、今までより遥かに危険は少ない。
白さんの体をそっと横たわらせ、その顔を見下ろす。
長い睫毛に縁どられた瞳は、今は静かに閉じられている。
その目蓋の奥に眠る金の瞳、白銀の髪に白い肌。
戦神の如き苛烈さと、童子の如き純真な心を併せ持つひと。
鳥のように舞い、刃のように貫き、雪のように儚いひと。
その在り方が、美しいと思った。
――このひとと、約束をした。
寂しそうに眉を歪める顔を思い返して、立ち上がるのを躊躇する。
彼の傍を離れるのは、本意ではない。
でも、このまま白さんを失うこともまた望んでなどいない。
「……少しだけ、待っていてください」
胸の上に置いた彼の手に、自身の手をそっと重ねる。
大丈夫、これは今生の別れではなく、一時的なものだ。
約束は守る。
だから少しだけ、傍を離れるのを許してほしい。
探しに行こう、"鍵"を。
一刻も早くこの屋敷から出るために。
一度目蓋を閉じて、それから大きく開いた。
息を吸って立ち上がる。
そのまま振り返らずに手入れ部屋を後にした。
***
屋敷の中で蠢いていた鬼達の気配はすっかり潜め、奇妙な静けさに包まれていた。
生きる者の、動くものの気配は自身を除いて一つもない。
これこそが、本来のこの屋敷の在り方なのだろう。
失敗した閉鎖の儀、呪いによって眠ることも許されなかった鬼達……それも今は居なくなった。
白さんは自身の行いを罪と捉えた。
けれど白さんは、永遠に終わることのない彷徨から彼等を救ったのだ。
私達が取れる最前の、そして恐らく唯一の方法で。
所詮捉え方の違いだ、気休めかもしれない。
でも、この屋敷を出たならば、白さんに話してみよう。
彼がこれから目に映す沢山の景色を、少しでも色鮮やかに楽しめるように。
その為にも、今は急いで脱出法を見つけよう。
「……」
暗がりに、一人分の足音だけが木霊する。
いつもは白さんと共に在った廊下も、今は私一人だけ。
互いの存在を確かめられた手の感触も、今は空を掴むばかり。
胸中に広がる心細さは、白さんが抱いていたものと同じだろうか。
複雑に絡み合った廊下を幾つか曲がり、度々開いた部屋を覗いてみる。
めぼしいものは特になく、歩いては覗き込みを繰り返した。
そうして辿り着いたのは――探索が始まって直ぐ、最初に目指した場所。
白さんが目を覚ましたと言っていた部屋だった。
かつて廊下を埋め尽くしていた鬼達の姿はなく、通路にはひっそりとした空気だけが揺蕩っていた。
――今なら、あの部屋に入れる。
「……」
あそこで白さんが眠っていた――それは何時からなのか、どうしてなのか。
この屋敷で起こった出来事、その一端でも、あの場所へ行けば明かされるかもしれない。
期待と不安が同時に膨らみ、唾を飲み込んだ。
そろりと廊下を進み、扉の前へ。
正面に立つと、木の扉は存外小さく、大人が屈んで入れる程の大きさだった。
外に取り付けられた閂に手を掛け、恐る恐る力を籠める。
かこん。
小さな音を立てて、閂は開いた。
扉を引くと、軋む音を立てて手前に開いていく。
その中は――
「……――」
小さな、とても小さな部屋だった。
二畳程の広さしかなく、大人一人がこの中で過ごすにはあまりにも窮屈だ。
正面の壁に木の格子が取り付けられた小さな窓、部屋の中心に文机が一つ、それ以外には何もない。
ただただ無機質な室内には、物悲しさが詰まっていた。
こんなところに、白さんが居たというのだろうか。
「これは……」
中央の文机の上に、一冊の和綴じの冊子。
水を吸ってふやけた古いもので、表面はかなり傷んで所々黒く濁っている。
けれど大事に置かれていたのだろう、本としての体裁を保っていた。
直感で、それが何であるのか理解した。
――日記だ。
これまでいくつか見付けた破片の大本、それが目の前に置かれている。
大きく息を吸った。
指先の震えを殺して、ゆっくりと腕を伸ばす。
これを読めば、あるいは触れただけで記憶が再生されるかもしれない。
此処で何が起こったのか、白さんに何があったのか、分かる――
刹那。
「――……」
静止する腕。
遮断した思考。
止まる呼吸。
変わらない雨音だけが、鼓膜を震わせ続ける。
この場で確実に変わったものが一つ。
――気配が、其処に居る。
腕を伸ばした姿勢で固まった私の後ろ側。
部屋の空気とは異なるものが、其処から流れ出ている。
音もなく、陽炎のように現れた。
日記を見詰めたままの目は、背後を確かめることは出来ない。
けれどこの気配を知っている。
背筋が凍りつくような悪寒と、胸をかき乱す程の嫌悪。
――黒頭巾。
2019.03.13