一
鼓膜を揺らす連続的な音。ぱたぱたと小さなつぶてがぶつかる音。
……雨の音がする。
意識が浮上して、最初に気付いたのはそれだった。
ひんやり湿って、どこかかび臭い空気。
肌に張り付く布地の感触。
塗れた体は冷え切っており、思い出したように身震いをした。
私は、気絶していたんだろうか。
なぜか全身がびしょ濡れだ。
何をしていたんだっけ。
まだ頭がはっきりとしないまま、そっと目を開いて――
目の前に顔。
「……!??」
反射的に飛び起きると、その顔は遠ざかった。
透き通るような白い肌、繊細な白銀の髪、長い睫毛に覆われた金の瞳。
これは、人間なのだろうか。
造形物のようにとびぬけて美しい人が、そこにいた。
全体的にほっそりとしているけれど、筋の浮かぶ首や手の甲が男性であることを示している。
こんなに美しい男性が、この世に存在しているなんて。
この人の周囲の空気が洗練されているようにさえ思えた。
この人はなんだ。本当に人なのか。なんでこんな人が私の目の前にいるのか。
精巧な作り物?天からの使者?お迎えが来た?
「いやはやいきなり飛びのかれるとは驚いたが……目が覚めたようで何よりだ」
混乱して固まっていると、目の前の男性が喋った。存外男らしい声。
破顔すると、先ほどまでの澄み渡るような雰囲気と打って変わって気さくな印象を受ける。
私の動きに反応して飛び退いたり瞬きしたりしているから、どうやらちゃんと生きた人間らしい。
だんだん頭が動き始めて、周りの状況が見えてきた。
ここはどこかの建物内のようだ。
古い日本家屋の、玄関だろうか。
全容は分からないけれど、玄関から延びる二本の廊下はとても長く、相当広い屋敷だと伺える。
辺りには物が散らばり、ところどころ痛んだ箇所もあって、長いこと放置されていたのが分かる。
空き家だろうか。私はなぜこんなところにいるのだろう。
このお兄さんが連れてきた……という風には見えない。
私はおそらく雨のせいで全身びしょ濡れだけれど、お兄さんは濡れていない。
お兄さんの白い和服は、屋敷のぼろさを抜きにすれば現在地にぴったりな装いだ。
でも、こんな古い屋敷に住んでいるわけじゃないだろう。
「えっと……貴方は?というかここはいったい……」
当然の疑問を口にすると、お兄さんは困ったように頬を掻いた。
「あー……すまん、そいつは俺も聞きたかったことなんだ」
「え?」
「実は俺もさっきまで気絶していたらしくてな、大きな物音で飛び起きたもんで来てみれば、ここで君が倒れていたというわけだ。君の方こそ玄関から入ってきたんじゃないのか?」
「いや、私は……」
物音?私が鳴らしたんだろうか。玄関にしては散らかりすぎているし、その可能性はあるが。
記憶を思い起こそうとして、気付く。
おかしい。
気絶するまで何をしていたのか思い出せない。
何があって気絶したのか、いつから気絶していたのか、今まで何をしていたのかがよく分からなかった。
「ごめんなさい、気絶するまでの記憶があやふやで……」
「そうか、そいつは難儀だったな。しかし弱った、俺もここがどこなのかさっぱりで――」
お兄さんが困ったようにぼやきながら、ヒントでもないかと屋敷を見回したとき。
「ここは山中、忘れられた古屋敷さ」
第三者の声がした。
いつの間にか、柱の陰に新たな人物がもたれかかるように立っていた。
深緑の長髪を後ろで束ね、長い前髪が片目を覆っている。
ジャージに包まれた体は均整が取れてすらっとして、白いお兄さんとは違うタイプの美丈夫だ。
意味深な笑みを浮かべて、独特の雰囲気を持った人。
「君は?」
「やあ、僕も君と同じクチでね。気付いたらここで倒れていたんだ」
お兄さん達が言葉を交わす。
どうやら知り合いというわけでもないらしい。
長髪のお兄さんの言葉を信じるなら、皆一様に気絶していたということになる。
何故か同じ屋敷の中で倒れていた三人が、ここに集まってきたという具合だろうか。
「どうにも妙な状況だが、とにかく外に出てみないとな。君は外からやって来たのかい?」
長髪のお兄さんは、先ほど山中と言った。
ここがどこか知っている口ぶりだったけれど。
「いや、窓から見た予測さ。そこの廊下は一面硝子戸だからね。……ただ、妙でね」
「妙……?」
親指で示した方向は、玄関から左に伸びる廊下の先。
雨模様で分かりづらいけれど、確かに廊下全体が外からの光を受けている。
白いお兄さんが廊下へ向かい、外の景色を確かめた。
「こりゃまた随分と広い庭だな。ああ、確かに塀の向こうは木に囲まれてるが……」
廊下を覗き込むと、白いお兄さんが硝子戸の取っ手に手を掛け引こうとしていた。
が。
「なんだ、立て付けが悪いのか……?」
開かない。
何度か引いてみるけれど、びくともしない。
「そう、妙なんだ。僕もここに来るまでに窓や扉を開けようとしたけれど、どうにも動いてくれなくてね」
「まさか……」
嫌な予感がして、玄関扉へ駆け寄る。
取っ手に手をかけて引っ張ってみたけれど、ピクリとも動かない。
立て付けどころの話ではない。
まるで塗り固められたかのように頑なだ。
「不思議だろう?人の手で封じられたとでも思いたくなるくらい」
「おいおいそりゃあ、誰かに閉じ込められたってか?」
「さぁて。ただ、外へ通じる扉は全てこの有様なんだ。そう考える方が妥当じゃないかい?」
長髪のお兄さんは淡々と語る。
脅そうというわけじゃない、お兄さんも外に出ようと試した結果を話しているだけだ。
そんなことが可能なのだろうか。
物体で遮っているわけでもなく、まるで神通力のように扉を封じてしまったかのようだ。
この中の誰もこの地に覚えはなく、ここに来るまでの記憶もあやふやで、奇妙な現象に心当たりはない。
「つまり……私達以外の何者かに集められて、監禁されてる?」
顔を見合わせる三人。
見た目の格好もバラバラで、お互い初対面だ。
犯人の意図が分からない。
いったい誰が、何の目的で……?
正体不明の薄ら寒さに身震いをした。
何者かに集められてというワードで、ぼんやりと気絶するまでの記憶が蘇ってくる。
「そういえば私、ここに来るまでに何かに呼ばれていたような……」
耳に残っている言葉は、確かに"来てくれ"と言っていた。
もしかしたら、その声の主が?
「そうなのか?だが俺には何も覚えは……」
白いお兄さんが記憶を探るように額に手を当てる。
と、その顔がだんだん青ざめていく。
「いや、覚えどころか……記憶が、ない。今まで俺が何をしてきたのか、俺が何者なのか、名前すら……!」
「ええっ、それって記憶喪失?!」
なんということだ。
不可解な現象に加えて記憶喪失。
私のように気絶する以前があやふやになっているどころではない。
白いお兄さんは自分の手のひらを見詰めて必死に思い出そうとしているけれど、焦りが募るばかりのようだった。
「おや、それはそれは……困ったね」
まるで他人事のような長髪のお兄さんだったけれど、ふとその意識を背後へ向ける。
同時に白いお兄さんもハッと顔を上げた。
「どうかしたんですか……?」
「何かが……来る」
静かに唱えた長髪のお兄さんと、白いお兄さんが見詰めるのは、玄関から正面に延びる廊下の先。
光のない屋内では、少しの距離でも暗がりで見えづらい。
薄汚れた曲がり角の向こう。
何も無い、ように思う。
けれど、音もなく。
空気が、変わる。
じわり、じわりと。
空が歪み、息が重くなる。
シンと静まる世界の中で、雨音以外の音はなく。
そのはず、なのに。
ミシリ。
「!」
床が沈む音。
ミシリ。
連続的な音。
ミシリ。
何かが、歩く音。
ミシリ。
徐々に、近付く音。
ミシ……
……いる。
陰りの向こう。
曲がり角のあちら側。
湿った空気を蝕むように、冷たい気配が流れ込む。
白いお兄さんが、そっと私の前に立った。
呼吸をするのも忘れるくらい、そこから目が離せない。
何が、いる。
この禍々しい気配はいったい。
あたりに充満するカビの臭いと、おどろおどろしい気配が混ざり、濁り、そして――
ずるり。
「――ッ!」
床板をこするように現れたのは、足。
おおよそ人のものとは思えない、さりとて獣でもなく。
いびつに肥大した爪と、汚れた皮膚。
そしてゆっくりと、"それ"は全身を現す。
黒い泥を浴びたかのように濁った体。
腰に纏ったぼろ布も薄汚れ、傷だらけの袈裟の下から覗く瞳だけが赤くぎらついている。
力なく垂れた右腕に握られているのは、刀。
刃は欠け、柄もほつれているけれど、確かに日本刀だ。
鬼、というべきだろうか。
異形の姿が、そこにあった。
鬼の横顔が、ぐるんとこちらを向く。
「!?」
その目がこちらを捉える。
私を、見ている。
何故、どうして?
何を考えているのか分からない瞳が、焦りを募らせる。
刀を持つ手が持ち上がる。
他の人には目もくれず、こちらに向かって腕を伸ばしながら足を踏み出して。
その時、白いお兄さんが動いた。
足元に散らばるゴミの中から、何かを足先に引っ掛けるように蹴り上げる。
舞い散る塵に混じって姿を現したのは、古びた木刀だった。
空中でくるくると回るそれを器用に掴み取り、鬼に向けて構える。
「待ちな、俺が相手をしよう」
鬼は白いお兄さんを睨んでいる。
私を遮るように立つ彼を、障害と認識したらしい。
大きく息を吸い込んだかと思うと、咆哮が轟き、屋敷が揺れた。
びりびりと空気を震わす雄叫びに、恐怖心が煽られる。
「お、お兄さん」
「大丈夫だ、下がってな」
白いお兄さんの声は穏やかで、私を安堵させようとしているのが分かった。
あんなものを前にしても冷静な姿を信じて、震える足でなんとか引き下がる。
お兄さんの影に隠れた私を見て、鬼の毛が逆立った。
怒っているのか。
向かい合う一人と一匹。
空気が張り詰め、張り詰め、そして――
鬼の体が膨らんだ。
低く腰を落としたかと思うと、大きな足で床を踏みしめる。
次の瞬間にはぐんとお兄さんの目前に迫っていた。
巨体から繰り出される鋭い突き。
お兄さんは動かない。
が――
「後ろだぜ」
いつの間にか、お兄さんは鬼の背後に立っていた。
狙っていた対象が眼前から消え、勢いを殺せぬままよろける鬼。
お兄さんが、その背中に木刀を叩き込む。
強くしなった刀は、鬼を豪快に床へと叩き付けた。
一瞬、一撃だった。
声にならない声を上げた鬼が、あっけなく地に沈む。
それを見届けたお兄さんが顔を上げた。
「ふう、怪我はないかい?」
「え……え?」
いったい何が起きたのか、瞬きの間に勝負が終わっていた。
「初撃を刃で逸らして、そのまま背後に回っての一撃だね。見事なものだよ」
今までどこにいたのか、ひょっこり現れた長髪のお兄さんの解説。
「さっきはどこに……?」
「もちろん、逃げていたよ。あんな化け物に武器もなしに立ち向かえないだろう?」
それはそうだ。当然の反応だ。
足がすくんで動けなかった私もまた、当然といえばそう。
ただ一人立ち向かった白いお兄さんは、勇敢でいて、奇妙でもあった。
記憶はないのに、刀をまるで自分の体の一部のように翻す。
しかも、先ほどの鬼……ああいう手合いには慣れたような動きだった。
「どうやら俺はこいつの扱いに慣れているらしい。記憶はさっぱりだが」
お兄さん、いったい何者なんだ。
剣道や、居合道、刀鍛冶の姿などが浮かんでは消える。
憶測で測っても分からなかった。
本人が記憶喪失と言っている以上、どうしようもない。
空気が弛緩したところで、床の鬼に異変が起こった。
不思議なことに、鬼の体が末端から崩れ始める。
見る見るうちに砕け散り、後には黒い塵の山だけが残された。
「消えた……?」
「妙なものだな……しかし先ほどのやつ、どうにも君を狙っていたらしいな」
木刀を肩に担いで、お兄さんが私に言った。
「ああ、君が遮るまで、ずっとこの子を見詰めていたしね」
長髪のお兄さんも同意する。
「や、やっぱり?」
なぜ私を狙うのか、その理由は分からない。
もしかしたら、ここに来る前に聞こえた声と関係があるのかもしれないけれど、鬼は消えてしまった。
あのがっちりした体から繰り出された突きを思い出して、今更冷や汗が頬を伝う。
白いお兄さんがいなければ、今頃どうなっていたのだろう。
「ありがとうございました……」
「なぁに、安いもんさ。それよりも、奴らの狙いが君だってんなら少し厄介だな」
「ああ、そうだね」
眉を寄せて難しい顔をする白いお兄さんと、神妙な顔で頷く長髪のお兄さん。
「やつ、ら……?」
どうにも嫌な単語が聞こえた。
「ああ、さっきのやつと同じ気配が、まだこの屋敷の中でうろついてる」
「相当な数がいるようだねぇ」
さらりと言われたとんでもない言葉に、血の気が引いた。
まだあんな鬼が?それも沢山?
勘弁してほしい。また先ほどのように狙われるというのなら、命がいくつあっても足りない。
おどろおどろしい空気が去ったこともあって、わずかな希望を抱いて玄関に向かう。
こんなところ一刻も早く退散したい。
けれど、やはり扉はびくともしなかった。
「やはり外には出られないか……」
「屋敷の中を探ってみれば、外に出るためのヒントが見付かるかもしれない。僕もいつまでもここにいるのは嫌だからね」
「でも、屋敷の中には……」
あの鬼がいる。
ここで立っていても解決しない。けれど、探索中に出くわすのはもっと嫌だ。
「なら、君は俺が護衛しよう。なあに、心配するな。腕前はさっきのでわかったろ?」
白いお兄さんが笑いかける。気を使われている。
でも、実際お兄さんが一緒なら安心だ。
「悪いけれど、僕は別行動だ。君と共にいると僕まで危ないかもしれないからね」
「それは、まあ……」
長髪のお兄さんの言うことは最もだと思う。
私も好きで狙われてるわけじゃないけれど。
「だが、君も遭遇するかもしれないぜ?彼女と離れたからといって狙われない確証はないだろう」
「出会う前に上手く隠れるさ。索敵は得意だからね。それに、固まって行動するより手分けした方が早いだろう?」
「そうか……」
白いお兄さんも、強く引き止めることはしなかった。
かくして、方針が定まってしまった。
謎の古屋敷、未知の存在が彷徨うその中で、出口を求める旅が始まる。
2017.08.20